江戸時代の廃仏毀釈 前々回及び前回の「歴史ノート」で鹿児島藩の廃仏毀釈について書いたが、「排仏」の考え方は古くからあり、江戸時代に廃仏毀釈が行われた藩は他にもいくつかある。圭室諦成著『日本仏教史概説』にはこう解説されている。 排仏論は、諸藩の理論的指導者である儒者によって展開せしめられた。従って理論が実践に移されて、廃仏毀釈にまで進展することは自然の勢いである。すでに江戸時代、革新的気運横溢せる諸藩、水戸藩・岡山藩・会津藩・鹿児島藩・津和野藩等について廃仏毀釈の断行されていること、宜(むべ)なるかなである。ただし幕府の政策は依然檀家制度保持を原則とした。従って廃仏を企画せる諸藩は幕府に睨まれ、ために廃仏は竜頭蛇尾に終わるを余儀なくされた。しかるに排仏論自体は、国学者平田篤胤を経由することによって、一方全国の神主を、他方新時代の支配層たるべき人々の心を捉えた。… (圭室諦成著『日本仏教史概説