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早稲田大学の正門を入り、大隈重信像を過ぎて右折すると、14号館の前に高さ1㍍ほどの石碑がある。 「外交官としてではなく 人間として当然の 正しい決断をした 命のビザ発給者 杉原千畝」 そう刻まれた文章を見守るように、杉原のレリーフが配置されている。「千畝」は「ちうね」と読む。早大歴史館で販売されている『キャンパスがミュージアム vol.1』(早大文化推進部、2014年)には、この石碑について、次のように説明されている。 杉原千畝(1900-1986年)は日本の外交官で、海外では「センポ・スギハラ」、あるいは「日本のシンドラー」として尊敬されている。 岐阜県に生まれ、早稲田大学高等師範部第一部英語科予科(現、教育学部英語英文科)に入学したが、外務省の官費留学生に合格・採用されたため中退し、後に外交官となる。 第二次世界大戦中のリトアニアの在カウナス日本領事館で、ナチス・ドイツの迫害を受
世情に疎いと、われながら思う。だからノンフィクション作品を読んだり、見たりするのだろう。 NHK・BSの「世界のドキュメンタリー」をよく視聴している。世界各地で起こっている出来事や、特定の個人・グループの日常を映し出した好番組である。海外で制作され、さほど間をおかずに日本で放映されるのもいい。 4月9日に放映された『トルクメニスタン 未知の独裁国家を行く』(フランス、2024年)を見た。イランとアフガニスタンの北に位置する同国は、旧ソ連を構成していた共和国のひとつ。91年のソ連崩壊後に独立し、3代にわたる大統領の独裁政治が続いているが、その実態はあまり知られていない。 フランスのジャーナリストがツアーに参加し、ガイド付きではあるが、首都や地方を見てまわる。個人崇拝、情報統制、反政府運動の弾圧…。中央アジアに、こんな酷い国家があったとは。緊張感あふれる画面から、目が離せなかった。 放映から1
『追跡 公安捜査』(遠藤浩二、毎日新聞出版、2025年) 1995年前に発生した警察庁長官狙撃事件と、2020年に不正輸出の容疑で社長ら3人が逮捕、起訴された大川原化工機事件を追ったドキュメント。両事件とも警視庁公安部が捜査したが、前者は未解決のまま時効を迎え、後者は冤罪事件として現在係争中である。 ちなみに ” 不正輸出 ” 事件は、NHKスペシャルでも報じられた。 地下鉄サリン事件からわずか10日後に、警察庁長官が東京都荒川区の自宅マンション前で何者かに狙撃され、重傷を負った。サリン事件で手がいっぱいだった警視庁は、捜査を発生事件には極めて不向きな公安部に担当させる。最初のボタンの掛け違いである。 公安部はオウム真理教による犯行と見立て、捜査を進める。後に犯行を自供した人物がいることがわかるのだが、公安部はオウム犯行説を変えず、信じられないことにその人物をまもともに捜査しなかった。
賀川豊彦(1888-1960)の妻・ハル(1888-1982)を主人公にした小説『春いちばん』(玉岡かおる、家の光協会、2022年)を読み直し違和感をおぼえたのは、賀川の偉人ぶりやハルの夫に対する従属性だけではない。彼女の容貌に対するコンプレックスの記述が異様に多いのだ。 賀川は明治の末期、神戸・新川しんかわのスラムで、キリスト教の伝道と救貧活動を始めた。それらの体験を含めた自伝的小説『死線を越えて』(改造社、1920年)で、自らの恋愛・結婚観や、ハルとのなれそめを詳しく書いている。『春いちばん』は『死線を越えて』をベースにして書かれているので、賀川の価値観が色濃く出ている。 独身時代に賀川が悩んでいたのは大雑把に言うと、結婚する女性は容貌か性格かという二択問題だった。『死線を越えて』には、見た目に関する記述が頻繁に出てくる。ハルについては、<その婦人は一寸見れば、どこかの細君のようである
久しぶりに机の上を整理していたら、1月16日付けの朝日新聞朝刊の切り抜きが出てきた。今年は関東大震災の発生から100年にあたる。28年前に起こった阪神・淡路大震災と併せて、1月に開催された「復興・減災フォーラム」(関西学院大学災害復興制度研究所主催、朝日新聞社後援)の内容が報告されている。 私がこれを切り抜いたのは、作家で大阪芸術大学教授の玉岡かおる(1956年、兵庫県生れ。敬称略、以下同)が、「特別講演」で賀川豊彦かがわとよひこ(1888ー1960)について語っていたからだ。 農民組合・労働運動の指導者、生活協同組合の生みの親として、またミリオンセラーの自伝的小説『死線を越えて』(改造社、1920年)の作者として知られる賀川は、20代以降の10年余を、兵庫県神戸市のスラム・新川しんかわに住み込み、キリスト教伝道と救貧活動に励んだ。 そこでの見聞などを『貧民心理の研究』(警醒社、1915年
兵庫県神戸市内にある元町映画館で、7月23日から部落問題をテーマにしたドキュメンタリー作品『私のはなし 部落のはなし』(満若勇咲監督=写真左)の公開が始まった(8月5日まで)。初日の上映後に、舞台上で満若監督と対談した。実は公開直前にも対談したことがあり、制作の意図などは以下を参照いただきたい。 https://www.jinken.ne.jp/flat_now/buraku/2022/07/22/1813.html 公開後の対談は今回が初めてで、観客やメディアの反応などを中心に聞いた。 満若 監督の満若です。本日は暑い中、3時間半の映画を観ていただき、ありがとうございます。短い時間ですが、ゲストの角岡さんとのトークをお楽しみいただければと思います。 角岡 フリーライターの角岡です。今日はファッションの街・神戸に来るので、気合いを入れてきました。(会場笑い) 満若 気合い入ってますね (笑
1922年3月3日に結成された被差別部落民の運動団体・全国水平社が、このたび100周年を迎えた。さまざまなメディアで紹介されたので、視聴された方もおられたことだろう。 部落で生まれ育ち、この問題をテーマにして書いている私も、創立100年を機に新聞のインタビューを受けたり、テレビ番組に出演したりした。まるで”水平社藝人”ではないか。水平社創立に関してメディアは手離しで礼賛し、その片棒を担いでいるのが他ならぬ私なのだが、実は複雑な心境だ。 部落差別は、時間が経てば自然になくなるわけではない。当事者自らが立ち上がり、声を上げない限りなくならない。そう決心し、組織を設立した意義は大いにある。 ただ、部落解放運動は、なくなったはずのエタ・非人という存在を忌避しながら、それを認めたうえで差別に反対するという矛盾をはらんでいた。差別に反対すればするほど、部落民の存在は薄まるどころか、明確になっていった。
ブログを再開しました。 7年余り続けていたブログを終了して、1年余りがたつ。50歳で始めたから、タイトルは『五十の手習い』。気が付けば、もう58歳。還暦が迫っているではないか。五十とか、手習いとか、言っている場合ではない。 すぐに再開するつもりが生来の怠け者ゆえ、ずるずると時が過ぎ、季節がひとめぐりした。ゆるゆるの生活も、もう飽きた。そろそろ錨を上げて、出航(出稿)することにしよう。フリーライターの平々凡々な日常(?)をつづりたい。 善は急げ!? 人生も半ばを過ぎると、ああなりたい、こうしたいと夢見ることよりも、ああだったな、こうすべきだったなと振り返ることのほうが多い。後ろ向きに歩いているような気がしないでもない。 私が社会人になったのは20代の半ば。兵庫県の地方紙記者としてスタートしたのだが、5年弱いただけで、30歳で退社した。その後、私と同じように地方紙を辞めた元記者を取材して書いた
地方紙を中途退社した記者たちを追った「神戸、辞めてどうなるのか。」の第1回。「誰に何を伝えるか」全4回。
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