2024夏休み旅行 神戸・2日目【前編】 zfinchyan.hatenablog.com ↑1日目はこちら 6:50 わたしと夫だけ先に起床 前日に買っておいたお芋のパンで朝ごはん 昨日の疲れからか、なかなか息子たちが起きてこなかったので、ゆっくり寝かせてから10:00にホテルの下にあるプレイゾーンに行って、パターゴルフやバス…
あんまりメジャーな雑誌ではありませんが、いちおう市販されている論壇誌の『現代の理論』の最新号(2007年秋号)が、「雇用・労働破壊とたたかう」という特集を組んでいまして、その中に私の「非正規雇用のもう一つ別の救い方」という文章が掲載されております。 現代の理論編集委員会のHPはまだ更新されていないようなのですが、既に発行されています。 http://www.gendainoriron.com/ 全体としては『世界』の3月号の特集に似た感じですね。最初の座談会が熊沢誠、櫻井純理、中村研の3氏だし、本田由紀さんがその熊沢氏の『格差社会ニッポンで働くということ』を書評していたり。 その中でいささか異色なのが多分私の文章とそのすぐあとの小林良暢氏の「職種最賃設定が雇用格差解消の突破口」という文章でしょう。 私のは、下で紹介している『世界』11月号の文章のうち非正規のところを膨らましたようなものです
アル・ゴアによる、有名な本。 一読して分かったのは、これが非常に優秀なプレゼンテーションだということだ。これを読むと、温暖化対策が待ったなしのことだと理解できる。 その一方で、 こちらは、ゴアのプレテーションも含めて、環境保護的言説がいかに、誤った証拠や、データのつまみ食い、無責任な歪曲、短期的な変化(悪化)の過大視(のちに揺り戻しても無視するので、世界は一貫して悪くなっているという印象が残る)などで、成り立っているかを示す。気候温暖化でハリケーンの回数も強さも増すという俗説は、統計的にはまっくた支持されず、あるローカルな数年で増加傾向が見られることがある程度。 被害の大きさが近年増えているのは、何十年も前にはたくさん人が住んでいなかった沿岸部(というか、洪水被害にあいやすい場所)の都市化が大きいという。 世界は結構、善くなってきている。崖っぷちってことはない。 もちろん課題はたくさん
京都の平熱 哲学者の都市案内 鷲田 清一 / / 講談社 ISBN : 4062138123 今日は一日病院に出なくて済む日だとなると、なぜか朝早くから目が覚めてしまって午前中に一読した。京都の市バス206系統沿いに京都市を一巡して、コース沿いの風物を色々と論じる書物である。 京都には様々な奇人があるが、彼らはここまでなら社会は受け入れてくれる(逆にこの一線を越えたらアウト)という実例を示してくれるのでよろしいという記述にはなるほどと思った。人格のみならず、服装だって京都には舞妓の豪華絢爛な衣装と托鉢僧の墨染めという両極端があるから、あの間のどこかに入る服装なら京都では受け入れられるということなのだそうだ。 田舎の息苦しさは、そういう実例がなくて、自分の立ち位置が許容される立ち位置なのかどうか分からないところからくるのかもしれないなと思った。確かに変人は田舎にも居るけれども、しょせん人数が
レジデント初期研修用資料 引っ越し前の旧blogです。新しいアドレスは http://medt00lz.s59.xrea.com/wp/ になります いろんな技術が進化して専門分化していく中で、支払いを済ませる機会はますます後に回されて、 貨幣の価値が多様化して政治性を帯びていく。 技術者の成果に対する価値の見出されかたは、 時に技術者の想像を越えた角度からなされるようになって、 多様な査定を受けるようになる。 ごく大雑把にこんな流れがあるのだとして、技術者には技術を進歩させる以外の戦略がとれない中で、 最後に大切になってくるのは、きっと「立場から物語る力」なのだと思う。 専門分化が進むほどに支払いが遅れていく件 交換の概念すらなかった大昔、野菜を食べようと思ったら土地を探して、 肉食べようと思ったならば山に入るか、子牛を育てて。 みんなが消費者であると同時に、生産者であり、専門家。すべて
ナショナリズムは、排外的な時ほど高揚する。はてなの村意識にも、これに似たようなものがあるんじゃないかなあ。特に「はてなブックマーク」が批判される場合の論争なんかを見ていて、ときどきそう思っていました。 ただ、こう自分で書いておいてなんですが、いま改めて思うに、はてな村の方々は、個人個人ではそんなに排他的ではないんじゃないか、と。むしろその逆で、何かにつけ、多様な価値観を認める寛容な人が多い。特に声の大きいコメンテーターは。やあやあ、我こそがもっとも寛容なるブロガーであるぞ、お前は狭量だな、と競い合っているように見えることさえ。そういう印象が私にはあります。それなのに村だ村だと言ったり言われたり、魔女狩りだなんだと排外的な風に思ったり思われたりもする。これはなぜなんだろう、と。 最近、ブクマ論や無断リンク禁止関連のエントリのために、閉鎖したり更新停止になったりするはてなダイアリーをいくつか立
「迷惑どこまで我慢」 医師や看護師が患者による暴力や暴言に悩んでいる問題で、度を越した場合に医療機関が診療を拒もうとしても、医師法で診療義務を課されているため、断念するケースが出ていることが分かった。 病院からは「毅然(きぜん)とした対応が取りにくい」という声が上がるが、厚生労働省は患者のモラルを理由とした診療拒否に慎重な姿勢を崩しておらず、法律専門家の見方も分かれている。 「診察治療の求めがあった場合、医師は正当な理由がなければ拒んではならない」。医師法では診療義務をそう規定している。「正当な理由」とは、医師が病気の場合などに限られるというのが、厚労省のこれまでの見解だった。 診療義務が争点となった裁判では、1997年に入院患者の退院を求めた病院側の請求が退けられたケースがある。 裁判所は「患者やその家族が看護師に包丁を見せたり、ナースコールを1日80回以上も鳴らしたりして、病院の業務を
昨日、パン屋に押し車を押した老女がご来店。押し車は店の外に置き、少し前かがみになってパンをじろじろと物色していた。私がその背中に「いらっしゃいませ…」と声をかけるのと同時に、老女はぎゅぅぅぅぅと、パンを、焼きたてのパンを、ポテトと明太子ソースを乗せて焼いてあるパンを、人差し指で押していた!!! 「うっ…」 あまりのことに、言葉を失う私。 私の気配を感じて老女は 「このパン、やこいけ?」と悪びれることなく聞いてくる。 「や、やわらかいですよ。焼き立てですから!」と、少しあえぎながら返事をする。どことなく非難めいた感じがただよったのか 「やこいもんしか食べられんし…やこいかどうか、触ってみんなんわからんなかいね…」 と、隣のパン棚に移動してまたパンをさわろうとしているので、いそいでトレイとトングを持ってきて、「やわらかいのでしたら、こちらとかいかがですか!」と語気を強めて牽制してみた。 態度と
養護学校を卒業して「がんばっている先輩」の体験談を聞こう!という主旨の研修会に出席してきた。「がんばっている先輩」とその保護者、事業所・施設職員という3人セットが5件講師という形で招かれている。私はパン屋で「がんばっている先輩」N君の雇用側として出席。参加者は、そろそろ卒業後のことが心配になってきている高等部の保護者が多く、あとそれに続く中等部。保護者だけでなく高等部3年の生徒も多かった。 最初、ふた教室分の広さの会議室に全員集まり簡単に事例紹介。事前に取材をされた先生の卒業生へのインタビューを織り込み1件15分程度。 N君は卒業時にすぐ就職はできずいったん作業所へ通っていたけれど、翌春にはパン屋さんへの就職をはたし、車の免許も取得、休みには自分の給料で一人でディズニーランドのツアーに参加するなど、在校生と保護者からは羨望のマナザシを集めている。 先生のインタビューの内容は事前に本人に文書
架空につくった難病の子供の支援団体を名乗って、1億7000万円もの心臓移植手術費用を募る悪質な呼びかけがホームページで広がり、医療機関や既存の移植支援団体などが胸を痛めている。すでに口座に振り込みをした例も確認されており、関係者らは「詐欺的な行為で悪質」と警察に通報するなど対応策に追われている。 呼びかけは「おさむちゃんを救う会」を名乗り、少なくとも10月に入ってからホームページで募金を呼びかけている。東京周辺の複数の小中学校のPTAのホームページなどにも、同様の呼びかけをする文面が広く張りつけられているのが確認されている。 文面によると、子供は東京都板橋区で生まれた生後6カ月の心臓の病気を抱えた男児。日本では子供の脳死移植が認められていないため、渡米して手術が必要といった設定。その上で「埼玉医科大学病院に入院中」「海外での移植手術を目指す患者らを支援する民間団体トリオ・ジャパン(東京都豊
自分が何をしたくていろいろなブログを読むのか、少しわかったような気がする。 いろいろな考えやいろいろな視点やいろいろな話題のいろいろなブログに当たって、それをまずは受容してみたいのだ。 まず読んだ後、最初に「うん」と言いたい。中には、あとから読み直したりじっくり考え直したりしてみると、やはりこれは違う、自分はこうは思わない、という記事も当然ある。しかし、読んだ最初から「だめ!」とは言いたくない。「そういうのもわかるような気はする、するんだけどね……」くらいから。 そのように書く人がいるからには、そのように思う人がいるからには、何かそのように考えた、書いた事情というか、心理というか、何かがあるはずだ。まずはその存在そのものを受け入れたい。そういう人が存在するんだ、ということを受容したい。それは違う、納得できない、反対だ、と思うのは、そのあとで全然遅くない。 こういうことができるのは、ネットな
というわけで前のエントリに対するbewaadさんからのコメントを受けて若干。要は「官僚にとってintegrityとは何か」という問題だと思うのだが、ここでは二つのレベルにわけて検討する必要があろう。第一は、integrityが尊重されるべき価値であるとした場合に官僚はそれを満たし得るのかという問題、第二はそもそもintegrityは尊重されるべきなのかという問題である。 まず第一点は、民主政においてごく当然であると考えられる以下の三条件が満たされる場合に、官僚がintegrityを持つことができるのか、という問題。 異なった政策パッケージを有する党派(連合)が複数存在し、その間での政権交代がある。 政策を決定するのは議会であり、官僚を含む行政府はそれを執行する。 個々の官僚には、特定の政策パッケージに対するコミットメントがある。 別の言い方をすれば自分が反対している政策パッケージを掲げる党
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