gkojaxlabo: lomo: HEAVEN 19歳女性、自殺直前のセルフポートレイト いちばん綺麗に撮れた写真をくれよ。おまえという女を忘れたくはないんだ。 女性は自宅の屋上でこの写真を撮り、彼氏にメールで送った後にこの場から飛び降り、自殺しました。ところが事件を知った彼氏も写真を見た後に急に塞ぎ込むと、同じく自殺を遂げたのです。
gkojaxlabo: lomo: HEAVEN 19歳女性、自殺直前のセルフポートレイト いちばん綺麗に撮れた写真をくれよ。おまえという女を忘れたくはないんだ。 女性は自宅の屋上でこの写真を撮り、彼氏にメールで送った後にこの場から飛び降り、自殺しました。ところが事件を知った彼氏も写真を見た後に急に塞ぎ込むと、同じく自殺を遂げたのです。
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|ω・)ノ <黒猫の気まぐれ日記 blanc_et_noirの上記のエントリを契機に。iNutやsyou6162やMishoも話していた気がするし、ということで、書いてみた。僕の立場は以下の通り。 研究するだけでは視点が狭くなる恐れ 最悪なのは中途半端 経験不可逆性理論 もちろん今の時期は基本的には採用活動がようやく開始、という企業がほとんどだと思う。僕は(せっかちなので)夏あたりからインターンに申し込んだり早くから採用をやっている外資系にエントリーシートを送り、ポコポコ落とされて涙目になっているところだったりする。 だから、一般的な「シューカツ」の話をするのはまだ早い、加えて僕は就活優等生では決してない、ということをアタマに置いて、しかも棚上でこれを書いてる。 1.研究するだけでは視点が狭くなる恐れ 就活してみて一番よかったなあと思ったのは、研究室にこもっていては決して会えない人に会えた
会社のお話だけど、会社のみならず組織に通ずると思う。 株式会社スターロジックの羽生章洋が書いてるブログ:自由と自律 このように、ある意味スタロジでの勤務というのは自由です。そしてこの自由こそが過酷で劣悪であるともいえます。いくらでもだらしなくなれてしまうのです。そしてだらしなさに陥ってしまうと、成果を出せずに居づらくなってしまう。これを守っていれば仕事をしてることになる、というものがないのです。結果が全てです。 とある社長さんは「羽生さんのところはきついよね」といいます。その社長さんは、人間というのは基本的に弱いのだからきちんとルールを作って守らせているといいます。それはそれでひとつの考え方ですし、それで非常に上手くいってるわけですからそれで良いと考えます。そうやって言われるようにスタロジは「きつい」会社だと感じられるのは、それは一面の真理だと思っています。 特に研究室の場合、研究室構成員
Contax T2 @Sterling Hall of Medicine, Yale University この間の「人を育てるラボの特徴」というエントリについて、ブクマコメントで頂いたこと、 >大学院教育において、どうなったら「人が育った」と評価できるのか、その基準も合わせて教えていただけると嬉しいかも。「研究を進めるための実務的な能力」が身についたということでO.K.?(pollyannaさん) について少し考えてみたいと思う。 これって「大学院教育って(受け手側からすると)何のためにあるのか」という極めて重要な課題そのもの。深遠かどうかはこのエントリの後で考えて頂くとしても、大事なテーマであることは間違いない。 で、ここでは日本の大学院と米国の大学院をちょっと分けて考えてみたい。前エントリにも少し書きましたが、私個人として、某旧帝大と某Ivy schoolの間で、ラボがどうというより
茂木健一郎氏は、テレビで大活躍。脳科学者ということで、Wikipediaを探ると以下のような項目がある。 【批判】 精神科医、批評家の斎藤環とのウェブサイト上での公開往復書簡[1](2007年12月現在一度も往復していない)で、斎藤から「主体の揺るぎなさ」や「価値の絶対性」を肯定するクオリアという考え方について、幸福会ヤマギシ会での特別講習研鑽会におけるマインドコントロールの例を引きつつ、擬似科学である、との厳しい批判を受ける。本来ならば、これに反論する形で往復書簡が実現するはずだったが、茂木は返信していない。 大槻義彦は『江原に擦り寄る文化人』の一人として茂木を批判している[2]。 【受賞歴】 小林秀雄賞受賞(第4回、2005年)受賞作『脳と仮想』(新潮社) http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8C%82%E6%9C%A8%E5%81%A5%E4%B8%80
電子化された文章というのはやっぱりどこか読みずらい。 ちょっと調べるだけならともかく、何かを読んで自分の文章を書くだとか、 まとまった、記述された知識を吸収して、それを自分の仕事に生かすだとか、 得た情報を、道具として利用しようと思ったら、やっぱり製本された本が欠かせない。 電子時代の読書のありかたと、抜き書きの効果について。 読書というコミュニケーション 手で持てること。書き込めること。ページを折れること。 パソコンには、製本された本が持っている、こうした感覚要素がまだ足りない。 ディスプレイに映し出された文字を追っかけるだけの電子媒体と、本を読むという 体験それ自体がイベントになる読書と、パソコンという道具が持つ「帯域」は、 昔ながらの本に比べて、まだまだ狭い。 恐らくは人と本との間には、視覚を含めたいろんな感覚が動員される、一種のコミュニケーションが成立している。 本は人に情報をもた
・プルーストとイカ―読書は脳をどのように変えるのか? タイトルから内容がわかりにくいが、タフツ大学の小児発達学部教授で読字・言語研究センター長が書いた「読書脳」の本である。 私たちが字を認識して読書をする能力は、脳の特殊化と回路の自動化のおかげだという。人間は生存に必要な物体認識の古い回路を特殊化して文字認識の回路に再構成した。やがて視覚が受け取った情報を言語として理解するプロセスは高度に自動化されて流暢に読み書きをする能力になった。人間の読字能力の獲得には2000年を要したが、現代人は生まれて2000日でこの言語能力を身につける。 使用言語によって脳の使い方が異なるという点が興味深い。漢字とアルファベットでは脳の別の領域を使う。漢字と仮名が交ざった日本語を使う日本人の脳は、漢字を読むときは中国語に近い経路を使うが、平明な音節文字である仮名部分ではアルファベットに近い経路が活性化する。バイ
上の三つの絵は、私がiPhone/iPod touch向けのお絵描きソフトSmallCanvasで描いた絵だが、パッと見てどう感じるだろう。「結構絵が上手な絵じゃないか」と思った人も多いかもしれない。 実は上の三つの絵は、SmallCanvasの発売に合わせて、私自身がサンプルとして書いたもの。絵心のない私が苦肉の策で作り出したのが、SmallCanvasのundo/redo機能を駆使して写真のトレーシングをするという裏技(アプリの作者が「裏技」を発明してどうするんだ、とうツッコミはなしで^^;)。下に置いた写真をトレースするために、基本的なデッサンがしっかりとし、これだけで「そこそこ見られる絵」になってしまうから不思議だ。 これで再認識したのは、「絵の上手さ」は、「ちゃんとした構図でデッサンが描けるか」という「テクニック」の部分と、「描き手オリジナルの表現ができるか」という「センス」の部
診断学の本を読んでいる。 ベイズ推定が主流になるのか、どの本も、「総論」のところに統計学的な疾患推定のやりかたが解説されている。 「蹄の音を聞いたら馬だと思え。シマウマを探してはいけない」だとか、医師の思い込みだとか、 先入観で診断を行うことを戒めてる。 驚きが追従者を生む 統計的には、感度が高い検査が陽性になったからといって、そもそもの発症頻度が低い病気なら、 その陽性にはあまり意味がないのだという。95% の的中率を誇る検査で「陽性」が でたからといって、普通の人がその疾患にかかる確率が5%でしかないのなら、 「陽性」と言われたその人がその病気である可能性は9%にしか過ぎなくて、 「陽性」の9割は間違えなのだ、なんて紹介される。 新しいやりかたで、今までやってきたことを振り返ると、しばしば全く違った世界が見える。 「先入観」が隠してた何かだとか、自分達が必要以上に恐怖を煽って、あるいは
・人はいかに学ぶか―日常的認知の世界 おもしろいです。これは。 私たちは学校教育で教師から知識を学ぶ。一方で習わないこともたくさんある。日常を生きる上で必要な基本能力を私たちは「教え手なし」で獲得できる。学校に行かなくても生きていく基本能力は自然に備わる。発達心理学と認知科学を専門とする著者は、人間はこれまで一般に考えられてきたよりもずっと有能な学び手なのだという。 現実的必要から学ぶとき人は教師から学ぶのとは異なる強力な学習をする。この本はそうした日常的認知の能力を解明しようとしている。 たとえば英語学習である。日本で英会話学校に通ってもなかなか身につかないものだ。しかしアメリカ社会に単身で放り出されて会話能力が生存に必須の状態になれば、多くの人は自然に短期間で英語を習得してしまうだろう。メキシコの路上で商売をするストリートチルドレンたちは学校に通ったことがないのにおつりや利益率の計算が
彼のこれまでのバッシングを思えば、彼のプロへの転身は当然のことである。 石井選手は、今年の日本選手権でもバッシングされていた。そして、金メダルを得た後も、マスコミは彼の軽口を面白がったが、柔道界は彼に口封じをした。陰ではきっとふたたびバッシングをしていたに違いない。そして、そのような無為な摩擦の中から、彼が問い続ける戦いの場として、柔道が意味のないこととの結論に達したに違いない。 ☆ スタジオのコメンテーターは、柔術を引き合いに出す石井選手は、嘉納治五郎のつくった柔道を汚すタブー発言だと批判したが、彼の言う柔術とは、ヒクソン・グレーシーに連なるブラジリアン柔術のことだろう。 ほんとうのことをいえば、柔道でも人を殺すことはできるに違いない。だが、柔道精神の一貫として、しないだけだ。そして、彼がこれから進もうというプロ格闘家の世界もバリートゥードとはいえ、何もやってもいい世界ではないはず。何故
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