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哲学と批評に関するrodoriのブックマーク (39)

  • 《ドグマなき、ネオリベ全開のジャングルを生きるための現代思想》浅田彰×千葉雅也 “思想界の2大スター”が徹底討論 | 文春オンライン

    ◆◆◆ 今なぜ「現代思想」が読まれている? 浅田 千葉さんの『現代思想入門』は、難しい問題を扱いながら、読者の手を取って案内するようにわかりやすく書かれてますね。現在9万部だそうだけど、広く読まれているのも納得がいきます。 千葉 ありがとうございます。僕はもともと、フランスの哲学者であるジル・ドゥルーズの研究で博士論文を書いたり、それ以前の学部時代にもジャック・デリダやミシェル・フーコーの著書を読んできました。彼らの思想を相互に絡めながらずっと考えてきたので、今回のはそんな自分の解釈の総まとめの意味合いもあるんです。

    《ドグマなき、ネオリベ全開のジャングルを生きるための現代思想》浅田彰×千葉雅也 “思想界の2大スター”が徹底討論 | 文春オンライン
  • 生きること、その不可避な売春性に対する抵抗──マーク・フィッシャー『資本主義リアリズム』 | inquire.jp

    「資主義リアリズム」とは要するに、生きることの不可避な売春性について、不可避であると信じさせられていることを指す。 そして『資主義リアリズム』というは、そうしたリアリズムの欺瞞を暴く/暴こうとする──抵抗のための書物である。 2017年に48歳の若さで自ら命を絶った著述家マーク・フィッシャーが発した「警告」とは。 6回目となるSF作家・樋口恭介による連載書評。 資主義の終わりより、世界の終わりを想像する方がたやすい。 ──マーク・フィッシャー 世界の終わり、失われた未来の亡霊 K-Punk。横に並んだ6つの記号。一見すると無意味な文字列。 解を急げばKはKyberの頭文字、KyberはCyberの起源となったギリシャ語で、つまるところK-Punkとは「サイバー・パンク」を意味している。Kyber-PunkとしてのCyber-Punk。さしずめそれは「真のサイバー・パンク」、あるいは

    生きること、その不可避な売春性に対する抵抗──マーク・フィッシャー『資本主義リアリズム』 | inquire.jp
  • 波状言論>情報自由論

    text 情報自由論 html version index 情報自由論ってなに? 「情報自由論 データの権力、暗号の倫理」(以下「情報自由論」)は、批評家・哲学者の東浩紀(僕)が、情報社会と自由の関係を主題として書き記し、『中央公論』2002年7月号から2003年10月号にかけて、14回にわけて発表した論考です。このサイトでは、そのすべての原稿が公開されています。 「情報自由論」の構想は、遠く、1990年代後半に『InterCommunication』で連載されていた論考、「サイバースペースは何故そう呼ばれるか」(未刊)に遡ります。2000年代はじめの僕は、第1章でポストモダンの理論的な問題を扱い、第2章でその情報社会における展開を扱い、第3章でそのサブカルチャーにおける展開を扱う大部の著作を夢見ていたことがありました。『動物化するポストモダン』はその第3章が、「情報自由論」は第2章が変形

  • 男性性に疲れた東浩紀と何をいまさらと怒る千葉雅也

    千葉雅也 Masaya Chiba @masayachiba 哲学、創作。立命館大学大学院先端総合学術研究科教授。栃木県宇都宮市出身。『動きすぎてはいけない:ジル・ドゥルーズと生成変化の哲学』(紀伊國屋じんぶん大賞2013、第5回表象文化論学会賞)、『勉強の哲学』、『デッドライン』(第41回野間文芸新人賞、第162回芥川賞候補)、「マジックミラー」(第45回川端康成文学賞)など。 research-db.ritsumei.ac.jp/Profiles/99/00… 千葉雅也 Masaya Chiba @masayachiba うんざりだ。僕は保守的な男性像に開き直る立場ではない。逆に、この広告が推進するような「新しいタイプの男性」として昔から生きてきたと自負している。だからこそこういうのはうんざりだ。:カミソリの広告が問う「男らしさ」に賛否、伝統的な定義を見つめ直す時代が来た wired.

    男性性に疲れた東浩紀と何をいまさらと怒る千葉雅也
  • 千葉雅也/三浦瑠璃/東浩紀のゲンロン・プロレス鼎談を見た。|ミニマ・センシビリア

    異色の対談だった。 左から順に、千葉雅也氏、三浦瑠璃氏、東浩紀氏。この席順も、誰が決めたのか絶妙だった。たまたまかもしれないけれど。 というのもあらかじめ、千葉氏と東氏とのツイッター上でのやり取りを傍観していた身としては、ついに東氏の『観光客の哲学』に対する千葉氏の「家族」という概念批判が展開されるに違いないと踏んでいたからである。千葉氏の事前のツイートは、いわばプロレスの試合が行われる前の挑発的スピーチとさえ思われた。 けれども、表向きは、三浦氏の『21世紀の戦争と平和』と千葉氏が関わった『欲望会議』刊行記念イベントであり、二人の対談という体裁を取っている。 どういう喩えがふさわしいかわからないけれども、互いは、少なくとも千葉氏は、三浦氏の意見に対して退屈しきっている感じがした。三浦氏がひたすら具体的な話を続けてそもそも徴兵制を肯定するその根拠を説明するのに言葉を割かないのに対し、千葉氏

    千葉雅也/三浦瑠璃/東浩紀のゲンロン・プロレス鼎談を見た。|ミニマ・センシビリア
  • 「美学」概念はいかにして形成されたか?

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  • 東浩紀 『ゲンロン0: 観光客の哲学』 - sekibang 3.0

    ゲンロン0 観光客の哲学 作者: 東浩紀 出版社/メーカー: 株式会社ゲンロン 発売日: 2017/04/08 メディア: 単行 この商品を含むブログ (33件) を見る これまでの著者のは、『郵便論的、存在論的』は学生時代に卒業論文を書きなが読み、良いだなぁ、機会あればまた読み直したいな、と思い続けているし、『動物化するポストモダン』や『ゲーム的リアリズムの誕生』は(これまた学生時代の話だが)21世紀初頭に盛り上がった(盛り上がっていたよね?)ポストモダン論の最後の輝き的なものとして、もはや懐かしいである。振り返ったら結構チェックしている。のだが、2011年3月以降はなんだかよくわからなくなってしまっていて、Twitterでよく炎上している人、もはや興味なし、って感じであったのだ。 で、ここにきて再び、その著作を紐解こうと思ったのは、これまたTwitterでの炎上がわたしのタイム

    東浩紀 『ゲンロン0: 観光客の哲学』 - sekibang 3.0
  • アンチ・エビデンス──90年代的ストリートの終焉と柑橘系の匂い

    稿は、ストリート・カルチャーの諸々の要素が、原因や責任を問われうる証拠=エビデンスを十分残さないでたちまちに変質し霧散していくという、そうした刹那性を、今日の文化状況に抗するかたちで改めて肯定しようとするものである。2010年代の日は、生のあらゆる面において、いわば「エビデンシャリズム」(エビデンス主義)が進展している時代ではないだろうか。 1 エビデンシャリズム批判 稿では、エビデンス(カタカナで言われる、広い意味での証拠・証憑、質的であるより量的なものを望む傾向がある)を残し続けなければならない、エビデンスを挙げていわゆる「説明責任」(アカウンタビリティ)を果たせるようつねに準備しておかねばならない──その種の説明はしばしばひどく形骸化しているが──、という強迫的な「正しさ」の緊張感をいや増しに増すことを「エビデンシャリズム」と名づける。(1)この用語は、エビデンスが健全な議論に

    アンチ・エビデンス──90年代的ストリートの終焉と柑橘系の匂い
  • 千葉雅也のアンチ・エビデンス論について(最終版)|しんかい37(山川賢一)

    (この論考はいわゆる投げ銭システムになっていますので、無料で最後まで読むことができますし、それでかまいません。気前のいい方は100円払ってくださるとうれしいです) アンチ・エビデンス論 立命館大学准教授、千葉雅也は、最近「アンチ・エビデンス──90年代的ストリートの終焉と柑橘系の匂い」と題する論考を発表しました(以下、これを「アンチ・エビデンス論」と呼ぶことにします)。 http://10plus1.jp/monthly/2015/04/index03.php 千葉はドゥルーズ論「動きすぎてはいけない」などの単著を持つ、期待の若手哲学研究者。今回の論考も、発表直後はネットで賞賛の声に包まれました。ところが、その後数日して、批判の声も高まり始めます。とくに反感を呼んだのは、その文体でした。 分身から分身へと移ろう不安のマゾヒズムを再起動させること。すなわち、あらゆることがあらゆるところに確実

    千葉雅也のアンチ・エビデンス論について(最終版)|しんかい37(山川賢一)
  • 無知な人が知ったかぶりをすることのみじめさについて

    國分功一郎の『スピノザの方法』を先日読み終えたので、この書物に関する書評の類をいろいろ読んでいたのだが、その中で、とんでもないものにぶちあたってしまった。そこで論じられている内容がどうこうという以前に、ごく単純に間違った理解に基づく記述が見られるのだ。 その書評は何かというと、『新潮』4月号に掲載されている、福嶋亮大という人が書いたものだ。「内容がどうこうという以前に」と書いたが、はっきりいって内容もひどい。とりあえず『スピノザの方法』の内容を祖述し、それが終わったら、『スピノザの方法』とは何の関係もない、自分が書きたいことだけを書くという、書評としては最低水準のシロモノなのだ。 そこで書かれていることも、はっきり言って痛い。さらに言うと、日語がヘタなので何を言いたいのかはっきりとはわからない部分もある。例えば、こんな風に書かれている。 まさにデカルトらが夢見た普遍言語にも通じる「明晰判

    無知な人が知ったかぶりをすることのみじめさについて
  • 恋愛、戦争、そして神的なもの ――小森健太朗『神、さもなくば残念』について - 鳥籠ノ砂

    小森健太朗『神、さもなくば残念』はサブタイトルが示すとおり、2000年代以降における日のアニメーション作品群について、思想的な語彙を用いながら批評していく書物である。 まず確認すべきは「モナド」の比喩だと言えよう。個々の共同体が相互不干渉のままで乱立している2000年代以降の状況を、小森氏はライプニッツのモナド概念になぞらえることで説明している。たとえば書が第二章で注目するのは、おおよそ外部の空間から閉ざされた内面的世界を描く作品群であり、あるいは外側の社会から切断された私的な関係を描く作品群であり、そしてまた厳しい現実から遠く離れた平穏な日常を描く作品群になるだろう(灰羽連盟、Angel Beats!、AIR、最終兵器彼女、灼眼のシャナ、エルフェンリート、あずまんが大王、日常)。これらのアニメ群は、作品スタイルそれ自体が現在の日を表象するものとして評価されている。 ここで重要なのが

    恋愛、戦争、そして神的なもの ――小森健太朗『神、さもなくば残念』について - 鳥籠ノ砂
  • 『【再掲】素人による精神分析読解の問題(『フロイト全集 月報』)』

    最近、精神分析に対する自分の考えを表明してほいた方がいいかなと思うことがありました。 岩波版『フロイト全集』第19巻(2010年6月配)によせた文章をここに再掲します。 少し前の文章ですが、自分の考えは変わっていません。 素人による精神分析読解の問題 國分功一郎 フロイトは医者だった。一八八一年にウィーン大学医学部で学位を取得しており、一八八六年にはウィーンでクリニックを開業している。フロイトの名は精神分析から切り離せないが、これはフロイトが医者として患者に接するなかで自ら創始し、様々な変更を受けいれながら発展させていったものである。つまり、それは、彼がヒステリーや神経症に苦しむ患者を治療するために作り出した理論である。 すると次のような疑問が出てくるのは至極当然のことであるように思われる。たとえば筆者のような、医者でもなく、心の病の治療に携わるわけでもない人間が、フロイトの精神分析につ

    『【再掲】素人による精神分析読解の問題(『フロイト全集 月報』)』
    rodori
    rodori 2015/01/31
    認識論的切断の問題/他ならぬフロイト自身が神経症の治療以外の領域、つまり医学以外の領域に精神分析を用いていたことをどう考えるか。
  • 20150117【生放送】浅田彰×中沢新一×東浩紀「現代思想の使命――198919952011」 @hazuma

    高橋源一郎 @takagengen パリ解放以来の数の人々が「反テロ」のデモに立ち、約100年ぶりに議会で議員たちが国歌「ラ・マルセイエーズ」を斉唱した。フランスでは愛国が渦巻いている。テロリズムの目論見は成功したというべきだろう。彼らの望みは「愛国」の名の下に、その度合いによって人々が分断されることだったから。 東浩紀 Hiroki Azuma @hazuma これです。会場はかつてなく満員。 【日 ニコ生 1/17 19:00から生中継】浅田彰+中沢新一+東浩紀「現代思想の使命――1989/1995/2011」 @hazuma #nicoch2580193 #genroncafe nico.ms/lv203860355 ゲンロンカフェ @genroncafe 【日のイベントについて】日は当日券の用意がございません。また、客席の半分ほどは立ち見となります(席のご案内は来場順となりま

    20150117【生放送】浅田彰×中沢新一×東浩紀「現代思想の使命――198919952011」 @hazuma
  • The Red Diptych 批評の必要性について

    なぜ、批評は必要なのだろうか。  おそらく、日国内の環境では、このように問うこと自体が、半ば挑発的な意味を持ってしまうだろう。そもそも、批評などというものは悪口や揚げ足取りと同義であり、悪い意味しかないと考えている人が多いのだから。 しかし、小説でも映画でも演劇でも美術でも音楽でもマンガでもなんでも、何らかの文化的・芸術的なジャンルにおいては、作品の価値判断や分析・検討において、批評は必要不可欠なはずである。批評がなければ、それぞれの受け入れ手が気に入ったか・気に入らないかの主観的な気分しか残らないことになってしまう。 その意味で、最も切実に批評を必要としているのは、実は作り手のはずである。批評がなければ、作品が検討され、進歩するための契機が切り開かれることもなくなってしまう。 一流の作者であればあるほど、批評を必要としていると思う。以前は私も、作者によってそういう部分は違うのかも、ただ

    rodori
    rodori 2015/01/18
    批評の必要性について。
  • サービス終了のお知らせ

    サービス終了のお知らせ いつもYahoo! JAPANのサービスをご利用いただき誠にありがとうございます。 お客様がアクセスされたサービスは日までにサービスを終了いたしました。 今後ともYahoo! JAPANのサービスをご愛顧くださいますよう、よろしくお願いいたします。

    rodori
    rodori 2014/12/07
    林達夫と河野与一について。
  • ラカン、アルチュセール、デリダ――ジジェクの『汝の症候を楽しめ』をきっかけに/浅田彰

    スラヴォイ・ジジェクの『汝の症候を楽しめ』は、もともと1992年に出ただが、今年になって「『リアリティはつねに複数である』のはなぜか」という章を末尾に加えた増補版が刊行された。その序文で著者は「私の標準的なの形式は6章の長さであり、このの初版は5章しかなかったので、8年の遅れをへた今になってはじめて『汝の症候を楽しめ』はまさしく私のとなった」と言っている。その直後に初版の邦訳(筑摩書房)が刊行されたというのは、こうしてみると、いささか間の抜けた話には違いない。 このは、例によってヒッチコックなどの映画に則しつつラカンの精神分析理論をざっくばらんに解説していくもので、いつも通りのジジェク節が展開されている。だが、新版のカヴァーに寄せる言葉でジョアン・コプチェクの言うとおり、『汝の症候を楽しめ』というタイトルは、当時からどんどん強まってきた「他者の倫理」(「他者に応答責任をとれ」)と

    rodori
    rodori 2014/12/02
    『真実の配達人』に対するジジェクの反論。「経験的には」手紙が宛先に届かないこともあり得るが、「超越論的には」常に「真の宛先である大文字の他者」に届く。
  • 一身にして二生,一人にして両身 - 岩波書店

    rodori
    rodori 2014/08/10
    一身二生
  • スラヴォイ・ジジェク「猿と人間について:レーニンの啓蒙」 - 今日もぐだぐだ

    Slavoj Ziezek. Of Apes and Men: Lenin’s Enlightenment. The Symptom. 2011. (English). 原文: http://www.egs.edu/faculty/slavoj-zizek/articles/of-apes-and-men-lenin/ 今日もう一度見直されてしかるべきレーニンの遺産、それは真実の政治学である。わたしたちは「ポストモダン」の時代に生きている。この時代ではレーニンのような真実への要求は、息を潜めている権力のメカニズムが表立って顕れたものだとして退けられる。復活した疑似ニーチェ主義者が好んで強調するように、真実など、力へのわたしたちの意志を主張するうえでこの上なく効果的な虚妄だというわけだ。なにかの意見を切り返す「そりゃ当かい?」という問いの後釜に座るのは、「どんな権力の条件下でこの意見は発せ

    スラヴォイ・ジジェク「猿と人間について:レーニンの啓蒙」 - 今日もぐだぐだ
    rodori
    rodori 2014/07/26
    ジジェク『猿と人間について』の私家訳。ローティ的連帯や歴史修正主義の問題など、東浩紀の『弱いつながり』と論点がかなり重なってる。併せて読むと同じ問題に対する両名の意見の相違がより明確になると思う。
  • 柄谷行人の『言語・数・貨幣』(1983年) - kuriggen’s diary

    アラン・ソーカルによって、知識の示し方における欺瞞性としてポスト構造主義の何人かの思想家が批判されるという事件は、90年代の終り頃に起きている。ソーカルはニューヨーク大学の物理教授であり、主にそれが自然科学の用語の濫用にあたるというものだった。しかし日の文脈においては、同じソーカルの言ったような思想の記述を巡る問題性とは、既にずっと早くから、明瞭に指摘されていたものといえよう。何もソーカルの批判、知の欺瞞を待つまでもなく、ポスト構造主義の持つ傾向については的確な批判が指摘されていた。ソーカルの批判は、それをより明確に科学的な水準で我々に了解させたというだけで、同じ問題とは、もちろん最初からあった問題であったのであり、それをどう批判し乗り越えるかという立場を示すロジックとは、日の文脈で、非常に明瞭な形式で指摘は為されていた。柄谷行人の次のような指摘を見てみよう。 「形式化」は、ポスト構造

    柄谷行人の『言語・数・貨幣』(1983年) - kuriggen’s diary
  • What the Social Text Affair Does and Does Not Prove (Japanese)

    in A House Built on Sand: Exposing Postmodernist Myths about Science, edited by Noretta Koertge (Oxford University Press, 1997) (Original text: http://www.physics.nyu.edu/faculty/sokal/noretta.html ) Alan D. Sokal (April 8, 1997) 田崎 晴明 訳 Copyright: 1997 Oxford University Press. 著者を通じて翻訳を web 上で公開する許可を得ています。 個人的な使用以外の目的でファイルをコピーしたり印刷したりしないで下さい。 ファイル全体を他の web site で公開することもできません。 部分的に引用していただくのは結構ですが、