ブログやWikiなどに代表される「イノベーションの民主化」の先には、どういう社会が見えてくるのだろうか。The Long Tail (p.62)によれば、それを最初に予告したのは、マルクスだったという。彼はエンゲルスとの共著『ドイツ・イデオロギー』で、未来のイメージを次のように描く(*):共産主義社会では、各人は排他的な活動領域というものをもたず、任意の諸部門で自分を磨くことができる。[・・・]朝は狩をし、午後は漁をし、夕方には家畜を追い、そして食後には批判をする――猟師、漁夫、牧人あるいは批判家になることなく。(岩波文庫版、pp.66-7)マルクスは「分業と私的所有は同じことの表現である」と規定し、自然発生的な分業を止揚することを共産主義の目標とした。この一節は、若きマルクスのユートピア的な側面を示すものとして知られているが、実はこのモチーフは『資本論』にも受け継がれている。自由の国は、
─────────────────── 古めかしく色彩られた新しさに感染した私 ─────────────────── ■私の大学時代と大学院時代は「廣松渉の時代」だった。東大に入学した78年に初めて聴講したが、壁際にも教壇の前にも立ち見がぎっしり。どんな答案でもAがつくと評判だったから、成績目当てで聴講する必要はない。神話的イメージゆえに人が集っていたのだ。 ■だが廣松ゼミで廣松語を使うエピゴーネンには、辟易した。私は廣松先生に心酔したからこそ、廣松語を別の言葉にパラフレーズしようと必死になった。その訓練の場として社会学のゼミを利用した。ちなみに蓮實重彦先生のゼミでも私は同じような体験をした。 ■廣松先生を経て社会学に接して、驚いた。第一に、社会学理論が厳密さを欠くこと。第二に、理論が全体構想を欠くこと。この欠落を埋めようとして長大な卒論と修論を「非廣松用語で廣松的に書き」、東大助手にな
更新があいてしまいました。ここのところは原稿書いたり、東方を久々にいくつかやり直したり、温泉行ったりしていたのですが、どうも生産性が落ちているのは否めないので、何とかてこ入れしたいものです。というわけで、今日は東方絡みで二、三思うことを。 東方はシューティング+偽史ということで、80年代的なテイストを感じてちょっと敬遠していたのですが(僕の世代のメジャーなゲーム観は、たぶんアーケードといえば格ゲー、コンシューマーといえばRPGだと思うので、いずれにせよシューティングはゲームの代表にはならない――まぁ個人差はあるでしょうが)、プレイしながらつらつら考えるに、東方はフラットなデータベース(設定の束)に趣向を走らせてつくられる80年代的偽史というより、むしろデータベース(「幻想郷」と呼ばれるもの)の内部に随時結界を引いて、そこを探査=攻略していくというタイプの偽史なので、ちょっと考え方を変えな
水村美苗さんの『日本語が亡びるとき』は、<普遍語>と<現地語>に、近代文学と結びついた<国語>が対置されるという構図になっています。簡単に言うと、<普遍語>が万人に通じる普遍的な知の世界だとすると、<現地語>というのは日常的なおしゃべりの世界です。たとえば、かつてならラテン語が、いまなら英語が<普遍語>として考えられる。知を一極的に集中し管理することのできる言語がひとつ決まっていて、あとはその下層で<現地語>のおしゃべりが生まれては消えていく。そういう二極化が、現代のグローバルな情報環境の下で進んでいる。それが水村さんの見立てです。いわば、近代以前の中世的な世界になっているわけです。そこでは、日本語は知を担う言葉というよりも、おしゃべりの言葉としてのみ生き残ることになる。 そして、水村さんの構図では、本来その両者の中間的な存在として<国語>がある。<国語>とは、知的でありながら日常的な言
現代の状況に合わせた国家論というのはどっかで展開されているのだろうか。 よくわからん。 ネットを見回して、たぶん、自分より若いんだろうなという人たちの国家論議論は、あまりマルクス・レーニン主義をふまえてないような気がする。そのあたりの奇妙な欠落感というのはなんだろ。 ふと、本質論と機能論の差かとも思った。 例えば、味噌とはなにか、味噌とはしょっぱいものである。って言えば、面白くない、ほぼ間違った機能論だが、国家とは暴力の独占体であるとかがそれと同じっていう感性は働かないのだろうか。ってか、レーニンとか読まれてないのだろう循環以下略。 先日、国家論関係で、吉本隆明の共同幻想論と廣松渉幻想の共同体というのは、どういう差異があったのか、きちんとした考察というのも読んだことがないな。どっちも、ヘーゲリアンがベースでガチに展開しているので差異の抽出は難しいものでもないのだろうが。 確か吉本隆明は廣松
宗教・政治・思想など、ややこしいことを無理やり1行で表現すると… 「フロイトとユングの違いは?」なんて言われても、心理学でも取ってなければとっさにわかりません。 政治がわからなければ、共産主義と社会主義の説明は難しいし、宗教に疎い日本人にはプロテスタントとカトリックの違いなんてわかる人も少ないわけです。 ましてや、ダーウィンとか相対性理論とか言われたおりには、説明を聞く以前に頭痛がしそうです。 そんなあなたの悩みを解決すべく、無理やり、そして強引にすべてを1行あまりで説明してみました。 長い説明を読む気のしない、浅く知りたい人用ですので、詳しく知りたい人はそれぞれでお調べください。(もしくはリンク先のWikipediaを参照ください) 名付けて… 「風邪を引く」という世界観 宗教・集団編 道教:風邪を引く 儒教:子曰く「風邪を引く」 仏教:それは実は風邪ではない 禅:そもそも風邪を引くとは
中西輝政は日本の戦後史学がいわゆる「自虐史観」に支配されてきたとし、「田母神さんのような方が正しい歴史認識を示されたのは、むしろ大変喜ぶべきこと」だと評価している。田母神論文が「正しい歴史認識」だという判断はどこから出てくるのか。東大名誉教授や京大教授が、この論文を肯定し、高い評価を与えていることに注意しなくてはならない。そして11月8日付産経新聞の「週刊誌ウォッチング」で、雑誌「WILL」の編集長である花田紀凱は、この中西輝政の意見について「まさにその通りだ」と賛成している。「右翼・保守知識層」の見解はこのように反復され、増幅されて流通する。 田母神論文は、アパグループという企業が企画した懸賞論文の「最優秀作」である。(アパグループは全国にホテルを経営している企業で、幕張の西部プリンスホテルも買収したことでも知られている。私も札幌のアパホテルに何回も泊まったことがある。安く泊まれるホテル
自衛隊航空幕僚長の職にあった田母神俊雄が、先の戦争について日本に責任があるとするのは「ぬれ衣」だという論文を公表し、そのために更迭されることになった。ところが、田母神俊雄の意見はもっともだというひとが少なくない。歴代の航空幕僚長の出身学校をインターネットで調べてみると、初代は「東京帝国大学」であるが、しばらくのあいだは「陸士・海兵」の出身者たちであり、源田実の名もある(「陸士」というのは「陸軍士官学校」、「海兵」は「海軍兵学校」の略称で、それぞれ旧日本軍の陸軍・海軍の幹部を養成する組織であった)。つまり、航空幕僚長は、ある時期までは旧日本軍の幹部の「生き残り」たちが占めていた役職であり、そのあとは防衛大学校出身のエリートたちのポストになっている。 つまりそこには旧日本軍の伝統が何らかのかたちで残っているとみるべきであり、さらに防衛大学校野幕僚学校ではどのような「思想教育」が行われているのか
動物行動学で「刷り込み」という現象がみられるが、人間の思考にも刷り込みがあるとすれば、たぶん10代までだろう。学生時代からあとは、本質的な変化はないような気がする。私は著者の『唯物史観の原像』を高校3年のとき読み、大学1年のとき彼の科学哲学のゼミにもぐりこんで、圧倒的な影響を受けた。今でも、私の思考の「第1レイヤー」は廣松によって作られたと思う。 本書は彼の初期の作品で、名大で全共闘と一緒に闘って辞職し、プータローだったころの本だ。このころ彼は、生活のために大量の原稿を書き、年に5冊ぐらいのペースで本を出していた。彼の読書と執筆のスピードは驚異的で、死去したときは400字詰めで1万枚の未発表原稿が残されていたという。 彼の代表作も、この浪人時代に集中している。『原像』も『マルクス主義の地平』も『マルクス主義の成立過程』も、このころだ。本書もその時期の著書だが、彼の「本流」の作品とは違う
カール・マルクスのオリジナル版を使用しました。 エンゲルスの校訂版は少し手直しがありますが、 分かりやすくするためのもので、趣旨は変化していません。 Der Hauptmangel alles bisherigen Materialismus (den Feuerbachschen mit eingerechnet) ist, daß der Gegenstand, die Wirklichkeit, Sinnlichkeit, nur unter der Form des Objekts oder der Anschauung gefaßt wird; nicht aber als sinnlich menschliche Tätigkeit, Praxis; nicht subjektiv. Daher die tätige Seite abstrakt im Gegensatz
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