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ブックマーク / kaerusanu.hatenadiary.org (2)

  • 持つ時代から、なる時代へ - かえるの開発工房

    そういうことか エントリー所有することへのトラックバックより 所有「物」に価値がなくなったのではなく「所有」に価値がなくなった 所有物は他人に移る。移ると同時に自分の「have」に対して認められていた価値も他人に移る。それは自分の価値ではなく所有物の価値である。「物」には厳然として価値はある。価値がなくなったのは「所有」である。 「have」に変わる価値は何か? もちろん「be」だと考える。「自分が『何』であるか」そのものが価値として問われる時代が、ようやく始まったのではないかと。(確かそんなことを書いたもあったと思う。タイトル失念) 「be」の時代が始まったとする根拠は? 「have」ではなく「be」の時代が始まったのだと仮定すれば、最近始まった、既存の価値観では到底理解不可能な数々の出来事(オープンソース活動とか、情報の隠蔽でなく公開&共有とか、実際に会ったこともない人を信頼する力と

    持つ時代から、なる時代へ - かえるの開発工房
    s_ryuuki
    s_ryuuki 2006/07/30
  • 「楽しいという事」から「天才と秀才の違い」 - かえるの開発工房

    楽しいという事 楽しいことは、何なのだろうか?単純に説明できそうである。しかし、あまりにも範囲が広いため、そして対応した欲望がない様に見えるために、それをそれ以上に分解しないことが多い。「楽しい」を「楽しい」でしか、説明出来なければ、楽しいを作ることは経験的な話になってしまう。それでは面白くない。 理論的に楽しいとは、何なのだろうか?そして、何をしている時が一番楽しいのだろうか?楽しいとは感情なのか、それとも状況なのだろうか? 半分の回答 いきなりだが、半分だけ答えを言おう。楽しいとは自己効力感のことだ。自分が、力を持っていることを実感することが、「楽しい」である。例えば、テレビゲームでは「楽しい」という状態を維持するために、成長曲線とそれに対する抗力を、細かく管理することで、それを実現している。ただ、普通の人はそれでもいつかは飽きてしまう。 飽きるというのは、その効力に価値がなくなった時

    「楽しいという事」から「天才と秀才の違い」 - かえるの開発工房
    s_ryuuki
    s_ryuuki 2006/06/19
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