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ブックマーク / www.h-yamaguchi.net (15)

  • 自分が「凡庸な悪人」かもしれないという自覚について - H-Yamaguchi.net

    手短に。2013年9月21日付朝日新聞「耕論」欄に「不良図書と呼ばれて」というのが出ていた。最近話題になった「はだしのゲン」問題について、デザイナーの高橋ヨシキさん、精神科医の斎藤環さんが論じているのだが、この中で「「臭いものにフタ」よほど有害」というタイトルがついた高橋ヨシキさんの主張が面白かった。 以下、一部引用。 「国民的」にみんなが無批判に乗っかっていく風潮と、そんなヌルい状況を揺さぶるような表現を「過激だ」といって排除したがる風潮はコインの裏表で、それを支えているのは、映画を、「泣いた」「笑った」ではなく、「泣けた」「笑えた」と評するタイプの人たちです。 彼らにとっての表現は、自分が気持よくなるためのツールでしかない。映画「美女と野獣」を見て「泣けた」とか言うわけですよ。だけど自分が、野獣を「殺せ」と取り囲む側の人間かもしれないということには想像が及ばない。 リンカーンの偉大

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  • 嫌いな表現を守るということ - H-Yamaguchi.net

    自由民主党・公明党・日維新の会が児童ポルノ規制法の改正案を今国会中に提出する方向、と報じられている。 「自公が児童ポルノ禁止法改正案 わいせつ画像「所持」禁止」(産経新聞2013年5月21日) 自民、公明両党は21日、子供のわいせつな画像や写真の「所持」を禁止するための児童ポルノ禁止法改正案を議員立法として来週中に提出することを決めた。日維新の会を含む3党の共同提案となる見通しで、今国会中の成立を目指す。 この件についてメディアの扱いは総じて小さく、あまり関心を持たれていないようだ。しかし、この改正案には憲法にも関わる重大な問題があり、憲法改正が選挙の争点となりつつある現時点で、決して軽視すべき問題ではない。 子どもを守るという目的自体には何の異存もないが、この改正案は、その目的を達するには不十分であるばかりでなく、深刻な権利侵害のおそれを含むという弊害があり、反対せざるを得ない。 児

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  • H-Yamaguchi.net: 「ぞっとした」にぞっとした話

    最初に目にしたときから、何か違和感があった。 福島第一原発の事故に関する民間事故調(正式には「東京電力福島第一原発事故に関する独立検証委員会」というらしい)の報告書が公表されたとするニュースについての話だ。たとえばこれ。 「菅首相が介入、原発事故の混乱拡大…民間事故調」(読売新聞2012年2月28日) 東京電力福島第一原発事故に関する独立検証委員会(民間事故調、委員長=北沢宏一・前科学技術振興機構理事長)は27日、菅前首相ら政府首脳による現場への介入が、無用の混乱と危険の拡大を招いた可能性があるとする報告書を公表した。 報告書によると、同原発が津波で電源を喪失したとの連絡を受けた官邸は昨年3月11日夜、まず電源車四十数台を手配したが、菅前首相は到着状況などを自ら管理し、秘書官が「警察にやらせますから」と述べても、取り合わなかった。 バッテリーが必要と判明した際も、自ら携帯電話で担当者に連絡

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  • 「組織は人」だが「組織」は「人」ではない、という話 - H-Yamaguchi.net

    「組織は人」とよくいう。組織はもとより人の集まりだから当然といえば当然だが、人が組織のパフォーマンスを決める要であり、優れた経営者は人を重視する、ぐらいのニュアンスで使われることが多いだろうか。武田信玄の「人は城」は後世の創作だそうだが、ともあれ古くからある考え方だし、いろいろな人がいろいろなことばで語ってるから、いちいち繰り返すまでもあるまい。 以上はいわば「枕」で、ここからが題。手短に。 よく組織を擬人化というか、1つにまとめて語るやり方がある。たとえば「ソニーが元気だ」とかみたいな感じ(実際にソニーが「元気」かどうかはここでは題ではないのでおいとく)。法人なら「法人格」があるわけで、全体として1つの法的主体であることはまちがいないし、こういうことばを使うと話が早くなるというメリットもある。また、組織でなくても、ある人の集団を指して何かいう場合にそれを1人の人であるかのように語るや

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  • 暴論:デマの「根絶」をめざしてはいけない7つの理由 - H-Yamaguchi.net

    このウェブサイトは山口 浩の個人的な考えを掲載したものであり、山口が所属ないし関係する機関、組織、グループ等の意見を反映したものではない。サイトは投資の勧誘ないし銘柄の推奨を目的とするものではなく、サイトに掲載された情報(リンク先ないしトラックバック先の情報を含む)をもとにして投資その他の活動を行い、その結果損失をこうむったとしても、山口は責任を負わない。サイトの記載内容は、予告なく追記、変更ないし削除することがある。サイトに寄せられたコメントおよびトラックバックは、いったん保留した上で公開の可否を判断する。判断の基準は公開しない。いったん公開した後でも、一存によりなんらの説明なく削除し、当該IPを投稿禁止に指定することがある。 このworkは、クリエイティブ・コモンズ・ライセンスの下でライセンスされています(帰属 - 非営利 - 派生禁止 2.1 日)。 震災以降いろいろなデマ

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  • 「本当の言葉」って何なのさ - H-Yamaguchi.net

    2011年4月5日付朝日新聞夕刊「文芸批評」欄に文芸批評家の大澤信亮氏が「欲しかったのは当の言葉 「秋葉原事件」とは何か」と題した文章を載せている。不勉強にしてこの方を知らないんだが、おそらくは有名な方なんだろう。「ロスジェネ」という雑誌の編集委員を務めていた、とある。1976年生まれというのは、まさにその世代、なのかな。ともあれ、少なくとも私より頭のいい方ではあると推察する。いや別に根拠はないがなんとなくそんな印象。 要するに、読んだのだが、読んでも読んでもわからないので困っているわけ。 いや、実のところそんなに困っているわけじゃない。そもそも文芸批評家という職業自体よくわかってなくて、「文芸」って文学作品とかのことじゃないの?とか、事件の判決について書くって、法律学や社会学でないとしたら、いってみりゃ時事評論とか社会評論とかだよね?判決って文芸なの?時事評論って文芸批評の範疇に入るの

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  • 内なる「カツマー」と「カヤマー」について - H-Yamaguchi.net

    よくものごとを二分法で語ることがある。人についてだと、「世の中には二種類の人間がいる」みたいなやつ。今だとさしずめ「カツマー」と「カヤマー」か。この2人の「論争」については屋の店先と新聞広告くらいでしか見たことがなかったのだが、「直接対決」があったらしい(参考)。対談、つうか対決も近々発売されるらしい。こんな↓。どんな内容か知らないが、まあ想像のつく範囲なんだろうと思う。 別に「頂上決戦」に口をはさむつもりは毛頭なくて。ただまあなんだ。改めて書くまでもないことなんだろうとは思うんだが、ちょっと穴掘って書いときたくなっただけのことで。手短に。 上記リンク元記事は、「対立によって互いの著書の売り上げや人気を伸ばしており、このバトルは経済評論家と精神科医による"プロレス"と見る向きもある」とけっこう手厳しい。そうした要素があることは否定できないだろう(出版はまちがいなくそうだろうし、そもそ

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  • 自治体をSNS的に運営する、という話 - H-Yamaguchi.net

    2009年10月24日の「朝まで生テレビ」での東浩紀氏の主張が一部で反響を呼んでいる。簡単にいえば「インターネットを使えば小規模自治体はSNS的なかたちで直接民主制として運営でき、政治家はいらなくなる」といったもの。J-CASTニュースでもあまりこなれてない文章で報道されているが、ブログやtwitterなどのあちこちで議論がわいているようだ。 それなりに「過激」な発言ではあるわけで、当然批判も呼ぶ。あくまで印象論だが、「そんなことできるわけないじゃん」みたいな意見は、むしろネットサービスを熟知した人々からの方が強いのかもしれない。いわんとするところはわかる。とはいえ、意味のない主張だとも思わないので、少し考えてみる。 インターネットを活用した直接民主制という考え方自体は別に新しいものではない。試しにぐぐるとこんなのがすぐ見つかるし、いわゆる「電子政府」とか「e-government」とか呼

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  • 「ビッグ・ブラザー」って私たち自身のことだったんだ - H-Yamaguchi.net

    ジョージ・オーウェルの小説「1984年」に登場する「ビッグ・ブラザー」は、物語の舞台となっている「オセアニア」の政治指導者だが、現在私たちが「ビッグ・ブラザー」的なるものをイメージする際には、「人々の生活のすみずみにわたるまでを事細かに監視する者」「単一の思想ややり方を強制し、それに従わない人たちを強制的に排除したり罰を与えたりする者」というニュアンスを持つことが多いように思う。管理社会、監視社会のシンボル的存在。どちらかというと、個人というよりは組織やシステムとしてイメージされているのではないか。 現在の私たちの社会にこうした存在はあるのだろうか?と考えると、これはまちがいなく存在する。問題は、それがいったい誰か、ということだ。 「1984年」は何度か映画化されてる。これは1984年(!)製作のMichael Radford監督作品の冒頭部。「ビッグ・ブラザー」はその後半に登場するヒゲの

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  • いま「あの人たち」がいたらどんな布教活動をするだろうか - H-Yamaguchi.net

    最近「聖☆おにいさん」が面白くて、という話は前にも書いた。ああいうノリはある意味現代日ならでは、だろう。「ヘタリア」の例をみるまでもなく、世界には冗談の通じない人たちがたくさんいるので、そういう面々の目に留まらないことを祈るのみ、ではある。個人的には充分好意的な扱いだと思うんだがね。 とはいえ、ちょっと気になる点もある。これも前に書いたが、もし「彼ら」が、当に今の日にいるとしたら、あのようなお気楽な暮らしをしていただろうか、という点。いろいろ問題はあっても世界の中でみれば恵まれたほうの国に属すると言わざるを得ない日だが、じゃあ人々が心安らかに暮らしているかというと、とてもそんなことはいえない。もちろん世界の他の国にいたとしても、やはりそれぞれ深刻な問題はある。おそらく「彼ら」は獅子奮迅の活躍を、ということになったのではないか。 で、つらつらと想像をめぐらせてみるわけだ。ブッダやイエ

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  • センのインタビューを「裏側」から読んでみる - H-Yamaguchi.net

    2009年2月24日付朝日新聞に、アマーティア・セン米ハーバード大教授のインタビューが出ていた。見出しに「市場依存 危機生んだ」と。中見出しには「国家の役割 否定は誤り」「人間としての意識こそ重要」とある。この人はそっち方向の話をよくしてるから、インタビュアー的には、今の時期に語らせたい人、ということなんだろう。 とはいえだな。ちゃんと記事を読むと、「そっち方向」一辺倒の方々とは一線を画すこともちゃんと言ってる。このあたり、わかってる人はもちろんわかってる「なにをいまさら」話なんだが、イメージだけで見てる方のために、あえてこのインタビュー記事で、インタビュアーが力点を置いてないであろうポイントに注目してみる。別にインタビュー記事そのものを紹介する意図ではないので、そっちが気になる方は新聞のほうでお確かめを。 「今の問題のほとんどはグローバル化自体よりも、ほかの事情による。政治力、所有物、経

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  • 読んでないけど読んでみたい心理学の本を20冊 - H-Yamaguchi.net

    他分野のというのは、まったく興味がわかないことも多いのだが、逆にひどくそそられる場合もある。時間もとれないし買うと高いしでなかなか機会がないのだが、たまに猛烈に読みたくなってくる。今回の「発作」は心理学。いろいろなきっかけがあったのだが、直接的には、手元に送られてきた北大路書房の図書目録2009年版。タイトルと数行の紹介を読んだだけなのだが、「あなたはアマゾンに飛びたくな~る、飛びたくな~る・・」と目の前でコインを揺らされてる気分になってしまって。とはいえ、根っから不真面目な性格なので、興味の持ち方も、まじめ方向ばかりとはいかない。 いうまでもないが、ネタ元が元なので、以下すべて北大路書房の。念のためだが、(一部を除き)中は読んでないからね。では。 「当にわかりやすいすごく大切なことが書いてあるごく初歩の統計の」(吉田寿夫著) いきなり心理学じゃなくてアレなんだが。統計というのは、

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  • 「メディアリテラシー」に新たな定義が必要かもしれない - H-Yamaguchi.net

    「メディアリテラシー」ということばがある。Wikipediaには「情報メディアを主体的に読み解いて、必要な情報を引き出し、その真偽を見抜き、活用する能力」と定義してあって、そもそもWikipediaをソースとして使うこと自体がメディアリテラシーの観点からは問題になりうるのだろうが、この定義はよく見かけるものとさほどちがわないように思うので当面これを使っておく。他の定義もいろいろあって、最近は発信者としての個人に着目するものも少なくない(英語版のWikipediaはその色合いがより強い)が、まあそれはそれとして。 でも最近、もう1つ、新たな意味が必要なのではないかと思ったりすることがある。それは、「メディアの人たちのリテラシー」だ。 メディアリテラシーということばは、なんだかんだいっても、マスメディアが発信者、個人が受信者という図式をデフォルトとして念頭においているように思う(歴史的な経緯か

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  • なぜ「リアリティ」に餓えるのか - H-Yamaguchi.net

    2008年12月31日付朝日新聞に、社会学者の見田宗介・東大名誉教授のエッセイが出ていた。「リアリティーに餓える人々」というタイトル。2008年6月に秋葉原で起きた無差別殺傷事件について、「この事件が、日社会のどのような変化を表しているのだろうか」というのがテーマ。まあ年末恒例の世相読み解きものというわけだ。読んでいて「ん?」とひっかかっるものがあったのだが、いろいろ考えてみると触発されるものがあって面白かった。たぶん素人考えなんだろうけど。 このエッセイでは2008年の秋葉原の事件と、1968年に起きた連続射殺事件を並べて、時代の変化を説明する。同じように犯人が若者で、犯行が無差別で、動機がわかりにくく、その背景にアイデンティティの問題があることでも共通。でも決定的にちがうことが2つ。ひとつは「未来」。1968年の事件は「明るい未来」を信じられた時代であったのに対し、2008年は「明る

    なぜ「リアリティ」に餓えるのか - H-Yamaguchi.net
  • 人は「予想どおりに不合理」だけど「意外に合理的」でもある、という話 - H-Yamaguchi.net

    大学教員だからなのかブロガーだからなのか知らないが(たぶん後者だろうとは思うが)、をよくいただく。自分で買ったを後でいただくこともあって、そういうときは「どうせくれるならもっと早くくれよ」と罰あたりなことを思ったりもするが、基的にはもちろんありがたい限り。 で、ほぼ同時期にいただいたのがこの2冊。タイトルからして対照的で面白いので、いっしょに取り上げることにした。「予想どおりに不合理」のほうは、原書を持っていて、ブログで紹介記事を書こう書こうと思っているうちに翻訳が出ちゃったもの。一方「人は意外に合理的」のほうは、原書を買おう買おうと思っているうちに翻訳が出ちゃったもの。もちろんどちらもありがたい。多謝。 で、題。タイトルが正反対なこの2冊。どっちが当なんじゃいというわけだが、別にどちらかがまちがっているというわけではない。前者は行動経済学の話。さまざまな実例や実験によって、人間

    人は「予想どおりに不合理」だけど「意外に合理的」でもある、という話 - H-Yamaguchi.net
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