ブックマーク / call-of-history.com (80)

  • 「武具の日本史 正倉院遺品から洋式火器まで」近藤 好和 著

    『「武具」とは、戦闘の道具である攻撃具と防御具を総称した歴史用語である。』(P12) 近代以降、攻撃具の劇的な発達によって防御具が衰退し、攻撃具が『個人使用の小型の攻撃具』であるところの「武器」と『大型かつ大規模な攻撃具』であるところの「兵器」と呼ばれるようになっていく。ただし元々は「武器」も「兵器」も用例は少ないものの防御具を含む歴史用語ではあったそうだ。その、前近代までの日の武具の歴史をコンパクトにまとめた一冊。 まず、武具には儀仗と兵仗がある。儀仗は儀式用・神具で兵仗は実戦用となる。書で説明されるのは後者の兵仗の方だ。攻撃具は「弓箭(ゆみや)」「鉄炮」などの飛び道具と「刀剣」「長柄」などの衝撃具に大別され、防御具は「甲(よろい)」と「冑(かぶと)」に大別され、他に「小具足」と「盾」がある。さらに古代の「刀」は「たち」、中世以降は「かたな」となるし、直刀か彎刀かで直刀は「大刀」彎刀

    「武具の日本史 正倉院遺品から洋式火器まで」近藤 好和 著
  • 十二世紀南九州の覇者「阿多忠景」について

    元木泰雄編「保元・平治の乱と平氏の栄華 (中世の人物 京・鎌倉の時代編 第一巻)」で十二世紀に薩摩を中心に南九州一帯を支配した阿多忠景について詳しく書かれていて、名前はうっすら聞いたことがあるけど・・・程度の認識だったこともあって同書の『栗林文夫「阿多忠景と源為朝――その伝説と実像」』から簡単に紹介。 阿多忠景(生没年不詳)は桓武平氏の流れをくむ薩摩平氏の一流で十二世紀初頭から1160年頃にかけて、薩摩一国を自身の直接統治下に置き、さらに彼に従う豪族たちを通じて大隅・日向も傘下におき南九州三カ国を支配したという南九州の覇者である。また、保元物語にある九州の惣追捕史を自称し源為義に追われて九州に下ってきた源為朝に娘を嫁がせてその後ろ盾となった「アワノ平四郎忠景」と同一人物と考えられ、琉球まで影響力を及ぼしていたと言われていることもあり、後の為朝征琉伝説にも影響があったという。 彼が拠地とし

    十二世紀南九州の覇者「阿多忠景」について
  • 「古代天皇家の婚姻戦略」荒木 敏夫 著

    古代天皇家の婚姻の特徴はその強い閉鎖性である、ということを様々な史料を元に当時の東アジア諸国の婚姻関係との比較も交えつつ大局的に描いた一冊。一言で言うと「お兄ちゃんだけど政治目的さえあれば関係ないよねっ」って話(たぶん)。 倭・日の古代王権は濃密な近親婚によって強い結束力を保とうとした。皇族男性は外部からキサキを迎えることはあっても、皇族女性が非皇族と結婚することはほぼ無く、皇族女性は皇族男性と婚姻関係を結ぶという婚姻規制が存在していた。その特徴は、一つに異母兄弟姉妹婚による同世代婚、もう一つがオジ―メイ婚・オバ―オイ婚による異世代婚である。 六~八世紀を通じて、歴代天皇のキサキを整理するとその多くが異母姉妹か、畿内の諸豪族、一部のほぼ限定された畿内の外(「外国(ゲコク)」)の諸勢力から女性がキサキとなっていることが書で明らかにされている。 例えば天智天皇の子女四人の皇子と十人の皇女の

    「古代天皇家の婚姻戦略」荒木 敏夫 著
  • 「世界史の中のアラビアンナイト」西尾 哲夫 著

    アラジン、アリババ、シンドバードの物語に代表されるアラビアンナイト(「千一夜物語」)。世界中で愛されるこの物語は九世紀頃バグダードで誕生し、各地の伝承を取り込みながら十八世紀に欧州に紹介された後、来の姿から離れて独自の展開をたどるうちに世界文学として確立されていった。その変貌の過程を丁寧に辿ることで、アラビアンナイト成立史を通してヨーロッパとイスラームという異文化の邂逅、オリエンタリズムの増幅と、異文化を通して自文化を内省するオリエンタリズム的文学空間の創出という結実へと至る様を描く非常に面白い一冊。 現存する最も古い千一夜物語「アルフ・ライラ・ワ・ライラ」の記録は、1947年にエジプトで発見された。行政文書などに混じって発見された紙片には、現在の千一夜物語では語り手シェヘラザードの妹とされるディーナーザードが「楽しいお方」に話をねだる全体の冒頭部分である枠物語が書かれ、その余白にこの紙

    「世界史の中のアラビアンナイト」西尾 哲夫 著
    sampaguita
    sampaguita 2015/03/05
    そういえば一部の有名な話しか知らないなぁと思っていたら、元から千もあるわけではなかったと。それでも結構な数だけど。
  • 「カントリー・オブ・マイ・スカル―南アフリカ真実和解委員会“虹の国”の苦悩」

    1990年、ネルソン・マンデラが釈放され、アパルトヘイト政策の撤廃がデクラーク大統領によって宣言されると、南アフリカは内戦の危機に陥った。それまで特権を享受していた白人は黒人からの復讐におそれをなし、極右白人勢力は爆弾テロを開始、アパルトヘイト体制に近い黒人ズールー民族主義者が同じ黒人の反アパルトヘイト運動政党アフリカ民族会議(ANC)派の民衆を攻撃し始め、各地で白人、黒人、カラード入り乱れての暴動と武力衝突が頻発する。 ポストアパルトヘイト体制への移行をどうするか?最大の問題点は各勢力とも、勢力が均衡して武力を行使しうるだけの力を持っていることだった。ゆえに一方を排除した体制を構築するならば、たまりにたまった民衆の怒りと憎悪に後押しされて容易に内戦に突入しかねない。そこで彼らは権力移行に際してすべての勢力を取り込んでの体制づくりという妥協の道を模索し、アフリカ民族会議(ANC)と旧与党国

    「カントリー・オブ・マイ・スカル―南アフリカ真実和解委員会“虹の国”の苦悩」
    sampaguita
    sampaguita 2015/02/18
    "かつての抑圧者との共存と和解をどのように永続的に行うか?" / 制度そのものはなくなっても。
  • 「桃源郷――中国の楽園思想」川合 康三 著

    苦しみの無い世界=理想郷の希求は人類誕生以来の、いかなる時代も地域も国も人種も超えた普遍的な願いであった。キリスト教的なパラダイス(楽園)の概念は、十六世紀英国の作家トマス・モアによって名付けられたユートピアの誕生によって、苦しみの無い世界の社会・共同体のあり方がどのようなものかを描くことに軸足が移る。「ユートピア」の希求は清教徒革命、アメリカ独立、フランス革命と産業革命を通じて社会的平等と公正を重視した理想社会を浮かび上がらせて社会主義を胚胎し、やがて近代社会に大きな影響を与えた。 一方、日にも大きな影響を及ぼしてきた中国では、楽園はどのような描かれ方をしてきただろうか。書で描かれるのは、桃源郷を始めとする様々な中国の楽土=楽園思想である。 現実ではないもう一つの世界として、古代から不老長生を実現できる「神仙界」がどこかにあると考えられた。秦の始皇帝を始めとする帝王たちは不老長生の薬

    「桃源郷――中国の楽園思想」川合 康三 著
  • 近世オーストリアの名将プリンツ・オイゲンの戦争と生涯まとめ | Kousyoublog

    第二次世界大戦時の軍用艦艇を擬人化した人気ブラウザゲーム「艦隊これくしょん~艦これ~」にその名を由来とする旧ドイツ海軍重巡洋艦のキャラクターが登場したことで、「プリンツ・オイゲン」という名は以前と比べると格段によく知られるようになってきていると思う。ということで十七世紀後半~十八世紀前半のオーストリアの軍人プリンツ・オイゲンについて。 プリンツ・オイゲンについてプリンツ・オイゲン(1663-1736)ことオイゲン=フランツ・フォン・ザヴォイエン=カリニャンは十七世紀後半から十八世紀前半にかけて、神聖ローマ帝国=ハプスブルク家に仕えた軍人で、対オスマン戦争スペイン継承戦争などで活躍し、後のオーストリア=ハプスブルク帝国の基礎を軍事面の成功によって築いた人物として評価され、フランス皇帝ナポレオン1世も古今東西の名将七人の中の一人に数えている。 プリンツ・オイゲンのプリンツは公とか公子などと訳

    近世オーストリアの名将プリンツ・オイゲンの戦争と生涯まとめ | Kousyoublog
    sampaguita
    sampaguita 2015/02/02
    "イタリア系フランス貴族出身のオーストリア軍人がなぜナチス・ドイツ海軍の重巡洋艦に名を使われるようなドイツの英雄となったのか"
  • 「ハプスブルクとオスマン帝国-歴史を変えた<政治>の発明」河野 淳 著

    十六世紀初頭から十七世紀末にかけて、神聖ローマ帝国=ハプスブルク家は強大なオスマン帝国の侵攻を撃退し続けた。フランスのように絶対主義体制の構築ができたわけでも、イギリスのように四方を海に守られていたわけでもなく、宗教戦争と度重なる国際戦争で疲弊し分裂した神聖ローマ帝国に、なぜオスマン帝国からの防衛が可能であったのか。その大きな要因として書は、ハプスブルク家における実証主義的政治の誕生を挙げている。 『書のテーマは単純で、オスマン帝国から国を守るという極限状況がハプスブルクに強いた、理想を追わず現実を直視するという心性が、十六世紀的な、世界を客観的、数量的に把握し分析するという技術と出会い、そこに強力な、説得力のある実証主義政治が生まれたというものである。脱魔術化しているという点において、この政治はすぐれて近代的な政治である。』(P229~230) この分析がとても面白い。もちろん、みん

    「ハプスブルクとオスマン帝国-歴史を変えた<政治>の発明」河野 淳 著
  • 箸食誕生の歴史

    箸の誕生箸は黄河流域で誕生した。現在見つかっている最古の箸は河南省安陽県の殷墟(紀元前十八世紀~紀元前十一世紀)から出土した銅製の箸だが、当時は手であったことは明らかであることから、事用ではなくべ物を取り分ける、あるいは祭祀用のものだと考えられている。 おそらく黄河流域では、『獣肉や野菜を包丁と俎でべやすい大きさに料理してべていた。べるときに、フォークや匙でなくて、手の感覚を延長して、汁の実などを挟みあげたくなったのであろう。熱いべ物を取り出すのに、指先に代わる竹ぎれか木ぎれを使ったのが、箸の始まりといわれる。一の棒ではべ物を固定できないので、二でそれをしっかり挟み上げるようにしたのである。』(向井、橋「箸 ものと人間の文化史102」) これが直接箸を使ってべ物を口に運ぶようにはならなかった。箸は、事を取り分けたり、調理する際に箸を使って固定したりする用途に使

  • 「江戸の海外情報ネットワーク (歴史文化ライブラリー)」岩下 哲典 著 | Call of History ー歴史の呼び声ー

    徳川幕府の支配体制の解体から明治維新へと至るプロセスに「情報」が大きな役割を果たした。特に鎖国下の海外情報は幕府によって管理統制されてその流通は限定的であった。その中で限定的な海外の情報を流通させ活用しようという海外情報ネットワークが自ずと形成されることとなる。その江戸時代の海外情報ネットワークはどのようなもので、いかにして社会変革に影響を及ぼしていったかを描くのが書である。 まずは鎖国下の4つの口「長崎口」「対馬口」「松前口」「薩摩口」について主に長崎を中心に情報発信基地としての長崎の役割が描かれ、その情報のハブとして長崎から横浜へと移り変わる様子が、長崎・横浜の土産版画と情報の関係で描かれる。続いて享保年間に日にやってきたベトナムゾウとその反響から蘭学の興隆を通じての情報ネットワークの拡大、続く十九世紀初頭の海外情勢の変化とナポレオン情報をめぐる情報収集と知識人への拡散、アヘン戦争

    「江戸の海外情報ネットワーク (歴史文化ライブラリー)」岩下 哲典 著 | Call of History ー歴史の呼び声ー
    sampaguita
    sampaguita 2014/12/15
    キリスト教の布教と関係ないはずのオランダが、ナポレオンというかフランスの支配下にあるのでは話が違うと。
  • 「城郭の見方・調べ方ハンドブック」西ヶ谷 恭弘 編著 | Call of History ー歴史の呼び声ー

    お城巡りは楽しい。近世以降の現存する城や復原された城なども良いが、個人的には中世の遺構だけになっている城趾を訪れて、往時を偲ぶのが好みだ。 お城巡りは一過性のブームというよりは永続的な趣味として広く受け入れられている気がする。最近だと天空の城の異名が付けられた兵庫の竹田城が話題となっているし、映画化されてヒットした歴史小説「のぼうの城」の忍城、大河ドラマは例えば「八重の桜」では会津若松城(鶴ヶ城)、「軍師官兵衛」では三木城というように毎年のように城が描かれ、さらには「艦隊これくしょん」ブームから派生しての城郭の擬人化ゲームが次々とリリース(「御城プロジェクト」「城姫クエスト」など)されて、注目を集めている。 そんな城に関するコンパクトな入門書・概説書としてこのはおすすめだ。第一章で天守から屋根、装飾、櫓、御殿建築、門など建築全般を、第二章で城の石垣や縄張りなど土木の特徴を構造的に、第三章

    「城郭の見方・調べ方ハンドブック」西ヶ谷 恭弘 編著 | Call of History ー歴史の呼び声ー
  • 「琉球国の滅亡とハワイ移民 (歴史文化ライブラリー)」鳥越 皓之 著 | Call of History ー歴史の呼び声ー

    1879年、およそ四百五十年に渡り続いた琉球王国は日に併合(「琉球処分」)され滅亡した。滅亡後の琉球=沖縄は明治政府の支配下で伝統的共同体の崩壊と社会基盤の弱体化を招き、移民が認められた1900年代以降、大量の海外移民が送り出されていった。1940年の統計では海外移民のうち沖縄出身者は五万七千人、数だけなら広島・熊に次ぐ三位だが、県の人口比では広島3.88%、熊4.78%に対し沖縄9.97%でとびぬけて多い。全国平均で100人に一人が移民となったが、沖縄は10人に一人の割合であり、1920年代以降沖縄県出身移民は全国の移民の約20%前後を占めた。その中でもハワイへの移民が非常に多い。 書は著者が1970~80年代に行った、まだ存命の頃のハワイ移民一世~二世への聞き取り調査の記録と、琉球王国の滅亡から二十世紀初頭までの移民を押し出す要因となった社会的背景について描いた一冊である。

    「琉球国の滅亡とハワイ移民 (歴史文化ライブラリー)」鳥越 皓之 著 | Call of History ー歴史の呼び声ー
    sampaguita
    sampaguita 2014/12/04
    "琉球人と日本人との間の動かしがたい関係は、潜在的に不和の種をはらんでおり、そこから政争の具とするものをつくりだすことができるかもしれない"
  • 「信長の城」千田 嘉博 著 | Call of History ー歴史の呼び声ー

    戦国時代の城で現存しているものは皆無である。なにせ四百年以上前の建築物だけに、遺構が残っているだけで貴重、多くは地中深く埋もれているか、その歳月によって跡形もなく破壊されて消え去っているものも少なくない。そこで、考古学的アプローチで城郭を調査研究することで、その姿を浮き彫りにしようとする城郭考古学という学問分野が発展してきた。書で、城郭考古学の第一人者である著者によって描かれるのは織田信長が拠点とした様々な城たちの姿である。 信長初期の城「勝幡城」「那古野城」「清須城」まず紹介されるのが信長出生の城、「勝幡城」である。信長の出生地としては勝幡城、那古野城、古渡城の三説があったが、近年、那古野城が織田家の支配下に入ったのが信長出生後ということが判り、那古野城とその奪取後に建てられた古渡城説が消え、勝幡城が信長出生地とされた。しかし、同城は江戸時代の治水工事によって城址の中心を日光川が貫き痕

    「信長の城」千田 嘉博 著 | Call of History ー歴史の呼び声ー
  • 「中世武士の城 (歴史文化ライブラリー)」齋藤 慎一 著 | Call of History ー歴史の呼び声ー

    戦国時代の城として一般的に思い浮かべられる、壮麗な天守、堅固な石垣、張り巡らされた水掘・・・などの城の姿は実は江戸時代のものだ。天守も石垣もなく、水掘ではなく空堀で、土塁や地形を利用して削られた斜面、河川などに守られ、一時的ではなく恒常的に武士が住まう施設としての要害が戦国時代に一般的な城の姿ではある。しかし、この城もその登場は十五世紀半ば頃からのことで、地域や状況によって多種多様な姿を取る。 では「中世武士の城」とはどのようなものであったか、書では主に東国の様々な城の姿から、特に武士たちが拠とした城について、十六世紀に格化した要害としての城以前、十三世紀から十五世紀末頃までの城の一つのモデル化が試みられており、中世の城を理解したい人には格好の一冊となっている。 書で描かれる中世武士の城について、戦時体制を前提とした恒常的な城館の登場は十五世紀中頃で、それ以前は、平時から戦時に移

    「中世武士の城 (歴史文化ライブラリー)」齋藤 慎一 著 | Call of History ー歴史の呼び声ー
  • 「犬たちの明治維新 ポチの誕生」仁科 邦男 著 | Call of History ー歴史の呼び声ー

    明治維新は日人と犬との関係をがらりと変えた。共同体の中の犬から飼主と飼犬という個と個の関係へと、近代化のプロセスの中で揺れ動く犬を巡る価値観の変化を、幕府からペリーに送られた犬から西郷隆盛の犬まで様々な犬たちを追いつつ、洋犬の名前としての「ポチ」の誕生を探っていくことで描いている。 江戸時代初期まで、犬は、座敷犬として価値があった小型犬の狆(チン)を除いては、概ね村の犬「里犬」として共同体で飼われるのが常だった。やがて大名たちの間で鷹狩が盛んになると、鷹の餌としての犬肉が必要となり「御鷹餌犬」として飼育されるようになる。綱吉の生類憐みの令によって犬たちは「飼犬」と「無主犬」に分類されたが無主犬の多くは町中で不特定多数の人から餌をもらって生きる「町犬」で町犬たちは飼主があらわれない限り、各地の犬小屋に保護される。特定の個人の飼主がいることはまれで、基的には町なり村なり共同体の中で犬も生き

    「犬たちの明治維新 ポチの誕生」仁科 邦男 著 | Call of History ー歴史の呼び声ー
  • ペリー艦隊の日本人、サム・パッチこと仙太郎の生涯

    史の画期となった嘉永六年(1853)の黒船来航時、ペリー艦隊の中に水夫として一人の日人がいた。彼は安芸(現在の広島県)出身の船乗りで、乗っていた船が嵐にあい漂流、米国船に救出された後、志願してペリー艦隊の水夫となった。日名は諸説あるが仙太郎、水夫たちの間ではサム・パッチと呼ばれていた。 仙太郎は天保元年~二年(1831)頃、瀬戸内海に浮かぶ生口島で生まれた。長じて船乗りとなり、嘉永三年(1850)、新たに建造された栄力丸の炊(かしき=料理担当)として雇われる。栄力丸は大坂・江戸間で酒樽を輸送する樽廻船で、船頭(船長)万蔵以下十七名の船員で運行されていた。 栄力丸乗組員名簿(足立「黒船に乗っていた日人」および「社団法人 全日船舶職員協会「黒船に乗った日の漂流船員」村上 貢(弓削商船高専・岡山商大名誉教授)」より) 万蔵(船頭)、長助(舵取)、浅五郎(賄方)、甚八、幾松、喜代蔵、

    ペリー艦隊の日本人、サム・パッチこと仙太郎の生涯
  • 「心霊の文化史ースピリチュアルな英国近代」吉村 正和 著 | Call of History ー歴史の呼び声ー

    十九世紀半ばから二十世紀初頭にかけて英米を中心に隆盛を迎えたのが心霊主義(スピリチュアリズム)である。近代的な思想運動として始まった心霊主義は第二次大戦後衰退するものの、60年代のニューエイジ、70年代のオカルトブーム、80年代以降の新宗教運動などを始めとして文化、学問、思想など現代社会の隅々に大きな影響を残している。その心霊主義はどのような過程で広がっていったのか、十九世紀の心霊主義進展の見取り図を描く一冊である。 心霊主義の見取り図といっても、その範囲はあまりに広く、その思想は限りなく深く難解だ。様々な研究書・概説書が出ており、そのアプローチは多様である。書では心霊主義を『合理主義という時代環境の中で誕生史、成長し、変容していった<自己>宗教の一つ』(P9)と捉え、『心霊主義の社会精神史的な意義を(ⅰ)骨相メスメリズム、(ⅱ)社会改革、(ⅲ)神智学(ⅳ)心理学(ⅴ)田園都市という五つ

    「心霊の文化史ースピリチュアルな英国近代」吉村 正和 著 | Call of History ー歴史の呼び声ー
  • 「ノストラダムス―予言の真実 (「知の再発見」双書)」エルヴェ・ドレヴィヨン,ピエール・ラグランジュ著 | Call of History ー歴史の呼び声ー

    諸宗教の聖典・経典を除けば、十六世紀フランスの医師・占星術師・詩人であるミシェル・ノストラダムス(1503~66)によって書かれた「予言集」は世界で最も読まれたの一つに挙げられるだろう。単なるオカルトブームの書籍としてだけでなく、多くの人がその文章に何らかの意味を見出して、それがときに人々の生死を左右するほどの悲劇を呼ぶことにもなった。 ノストラダムスに関しては、世界の終末を始めとする現代までの様々な事件を予言した予言者として信奉するか、インチキ予言者として弾劾するかの二項対立が続き、ブームの中で必ずしも学術的な分析が進められてこなかった経緯がある。運命の1999年も過去のものとなり、近年、ノストラダムスを彼が生きた十六世紀フランスという歴史の中に位置づけて格的に研究・実証することが出来るようになってきた。その、歴史の中のノストラダムスと彼の予言集はどのようなものとして位置付けられるか

    「ノストラダムス―予言の真実 (「知の再発見」双書)」エルヴェ・ドレヴィヨン,ピエール・ラグランジュ著 | Call of History ー歴史の呼び声ー
  • 「織田信長 その虚像と実像」松下浩 著

    近年、織田信長研究の概説書が手頃なサイズで次々と出されているが、書もその流れに乗って2014年6月に発売された一冊である。信長に関しては基的にスタンダードな記述で手堅いが、書が特徴的なのは、著者が安土城の研究者であるがゆえに、信長による近江支配と安土城について焦点があてられていることだろう。『信長の近江侵攻以後、近江がどのように変わり、どのように変わらなかったのか。近江の中世から近世への過程を辿る』(P7)ことが信長の実情を描くことと並ぶ書のテーマであるとしている。この近江支配に関する記述がとても興味深かった。 群雄割拠の近江戦国時代の近江は、他国にみられるような統一して専制的な領国支配を行う戦国大名が登場せず、北近江で浅井氏が台頭し、南近江の守護六角氏と対抗、さらに西近江には室町幕府奉行衆である朽木氏ら高島七頭と呼ばれる国人連合が両氏から自立して勢力を保ち、これとは別に一向一揆勢

    「織田信長 その虚像と実像」松下浩 著
  • 「かえりみれば――二〇〇〇年から一八八七年」エドワード・ベラミー 著 | Call of History ー歴史の呼び声ー

    1888年に米国で出版され、「アンクル・トムの小屋」と並ぶ大ベストセラーとなった小説にエドワード・ベラミー(1850~1898)の「かえりみれば――二〇〇〇年から一八八七年」(原題:”Looking backward 2000-1887”)という作品がある。1887年から2000年のボストンへとタイムスリップした上流階級の男性が体験する113年後の世界を描いたユートピア小説で、知識人から大衆まで大ブームとなり、二十世紀に入っても「最も影響が深い二五冊の書物」としてマルクスの「資論」に次ぎ第二位に選ばれたという。 間長世による書の解説「ベラミー『かえりみれば』の現代性」によれば、エーリッヒ・フロムは書を評して『ベラミーのユートピアは、その根的要素のほとんどすべてにおいて社会主義のユートピアであり、多くの点においてマルクス主義的ユートピアであることは、ほとんど疑問の余地がないと述べて

    「かえりみれば――二〇〇〇年から一八八七年」エドワード・ベラミー 著 | Call of History ー歴史の呼び声ー