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公共性に関するsarutoraのブックマーク (5)

  • 家でやろう 2008-04-19 - planet カラダン

    planetカラダンは「反マナーポスター」の立場です。 それは、公共空間からマナーポスターなるものを全て剥がし、公共性に対して主体性を回復させようという立場であり、ただ単に「もっと自分を大切にしよう」「自分の良心を発見しよう」という運動でもあります。 以下、駅貼りポスターを例に詳しく説明します。 迷惑乗車とは 迷惑行為ワースト1は3年連続で「座席の座り方」――。 日民営鉄道協会が大手私鉄16社による「駅と電車内の迷惑行為ランキング」のアンケート結果(700人が回答)を発表した。 それによると、平日と土・休日の全時間帯を通じ、迷惑と感じているのは「座り方」で12.9%。わずかの差で「携帯電話の使用」が続いた。4年前まで3.7%で8位だった「ヘッドホンステレオの音漏れ」が11.3%と3位に浮上した。次いで「乗降時のマナー」「荷物の持ち方、置き方」「電車内で騒ぐ」「女性の化粧」の順だった。 「

    家でやろう 2008-04-19 - planet カラダン
    sarutora
    sarutora 2008/04/29
    >フキゲンが正しく、ゴキゲンが悪などということがあり得るだろうか?
  • 貧者のゲーテッド・コミュニティ - Arisanのノート

    酒井隆史の『自由論』のなかに、「<セキュリティ>の上昇」という文章があって、そのなかでいわゆるゲーテッド・コミュニティの三つのタイプの区別が紹介されている(ブレイクリーとスナイダーという人たちによる)。 そのひとつは「ライフスタイル・ゲーテッド・コミュニティ」と呼ばれるもので、富裕な人たちを対象に、特定の趣味や年齢を共有する消費者向けにデザインされたコミュニティで、70年代から発展してきたもの。ふたつめは、「特権的ゲーテッド・コミュニティ」といって、通常ゲーテッド・コミュニティという言葉でイメージされるような、高度なセキュリティ機能をもった壁やフェンスによって周囲から隔てられた居住コミュニティである。 この両者の違いは、前者は後者ほど、外部の者の排除があからさまでなく、セキュリティということが前面に出ていないということだろうか。 ぼくがとくに印象的だったのは、三つめのタイプとしてあげられて

    貧者のゲーテッド・コミュニティ - Arisanのノート
    sarutora
    sarutora 2006/06/19
    >ある種の閉鎖性がなければ安心して幸福に生きられない人たちが大勢いるというのが、いまの社会の現実
  • 「スピリチュアル・シングル論」は、マイノリティをダシにしたマジョリティのための自己啓発セミナーだ - macska dot org

    前回、伊田広行氏のパフォーマンスを批判した文章を書いたのだけれど、かれの考え方の中心理念らしい「スピリチュアル・シングル論」というのがちょっとよく分からなかった。唯一、斉藤正美さんによる「しかし、男性の立場性を見直すことをせず、自分だけは『スピリチュアル・シングル』であることを主張し、女はジェンダーに囚われていると説教する」といった間接的な記述から、「なるほど、自分は社会的属性から自由な個だと思い込むという、社会的強者にのみ許された『素朴さ』を肯定しちゃうモノなのか」みたいに受け取った。というのは、もちろん意地悪な解釈であって、伊田さんが読めば「全然違う」と言うということは、だいたい想像が付くけどさ。 社会保障制度の議論において、家族を最小の単位とする制度から個人を単位とする制度に変えようという意味の「シングル」単位論なら分からないでもない。でもそこに「スピリチュアル」がつくと突然「<たま

    「スピリチュアル・シングル論」は、マイノリティをダシにしたマジョリティのための自己啓発セミナーだ - macska dot org
    sarutora
    sarutora 2006/05/30
    権力性とは社会構造のことであり意識の有り様ではない。マジョリティが「男性」「異性愛」という自覚に揺らぎを覚えたところで世の中の何が変わるというのか。個というものは他者との関係性の網の上に規定される。
  • 2006-05-22

    http://d.hatena.ne.jp/swan_slab/20060521/p1 親は、子供の成長を阻害するような害悪を加えないかぎり、思い上がっていてもいいし、逆に謙虚であってもいい。科学的な態度である必要はないし、科学的な研究の知見を前提にする必要もない。しかし、一度その思い上がりによって子供を傷つけていることに気がついたときには反省をすべきである 御意。 それが科学的でない、という批判は結構。しかし、それだけで主観的な判断を禁止することはできません。子供に明らかな害がない限り、親は子に良かれと思うことを施す自由がある。そして、外野にはそれを批判する自由がある*1。 自由とは批判を受けないことではないし、批判とは「力」で禁止することではない。 このあたりの感覚が昨今なんだか曖昧すぎるように思います。まあ、昨今、ではないのかもしれませんね。 日では「(集団による)批判」と「空気に

    2006-05-22
    sarutora
    sarutora 2006/05/23
    >自由とは批判を受けないことではないし、批判とは「力」で禁止することではない。このあたりの感覚が昨今なんだか曖昧すぎるように思います。
  • + C amp 4 +

    去る09年7月16日のトムラウシ山での遭難事故で亡くなられた方へ心よりご冥福をお祈りいたします。 はじめてご訪問の方はこちら(自己紹介および投稿リスト等)をご覧ください。

    sarutora
    sarutora 2006/05/23
    >”子供に有害”とは、端的にいえば親の生き方や価値観からすれば美しくない事柄です。これは多様な価値観を持つ者同士が共生するための戦略であって
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