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マルチチュードに関するsarutoraのブックマーク (2)

  • マルチチュード論はアナーキズムか? - 猫も歩けば...

    柄谷行人さんは『世界共和国へ』(岩波新書、isbn:4004310016)でネグリとハートの「マルチチュード」論を批判していた。 今回、読み直してみると、柄谷さんの批判は、ネグリとハートの「マルチチュード」論は、プロレタリア革命論のプロレタリアートを「マルチチュード」に置き換えたに過ぎないもので、その国家廃棄論はプルードンのアナーキズム(柄谷さんは「アナキズム」と書く)の過ちを繰り返すものに過ぎない、ということだ。 しかし、ネグリとハートは、『マルチチュード』で、自分たちの「マルチチュード」観はアナーキズムではないと書いている。 私は柄谷行人やネグリやハートほどものを読んでいるわけでも知っているわけでもないけれど、両方のを読んでみると、どちらの言い分にも半分賛成で半分反対というところだ。でも、少なくとも柄谷さんのについては、ネグリとハートをまじめに相手にするのであれば、もっとちゃんとそ

    マルチチュード論はアナーキズムか? - 猫も歩けば...
    sarutora
    sarutora 2006/11/30
    柄谷の批判に対する批判
  • 「遠い目標」で満足できるか? - 猫も歩けば...

    というわけで、柄谷行人さんの「マルチチュード」論を読んでみて(id:r_kiyose:20060911)、もういちどネグリとハートの「マルチチュード民主主義」論を読み直してみないとな、と思って、読み返してみた。 で、感じたのは、やっぱりもう一つよくわからないな、ということだった。個々の部分に書いてあることはそんなにわかりにくくはない。しかし、じゃあ、「マルチチュードの民主主義」って何なのか、それはどうやって実現するのかということになると、なんかよくわからないというのが実感だ。 まず、「〈帝国〉」状況のなかで、「代表」制が機能しなくなっているという現状分析は、これは理解できる。 「〈帝国〉」とは、全世界をつなぐネットワークの上に成り立つ権力だ。全世界に成立しているのでその「〈帝国〉」には外部が存在しない。 で、その「〈帝国〉」はどう支配されているかというと、単独超大国のアメリカ合衆国があり、

    「遠い目標」で満足できるか? - 猫も歩けば...
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