並び順

ブックマーク数

期間指定

  • から
  • まで

1 - 18 件 / 18件

新着順 人気順

戦争遺跡の検索結果1 - 18 件 / 18件

タグ検索の該当結果が少ないため、タイトル検索結果を表示しています。

戦争遺跡に関するエントリは18件あります。 戦争沖縄歴史 などが関連タグです。 人気エントリには 『いまも残る加害の歴史、日本の「戦争遺跡」を見つめ直す(Yahoo!ニュース オリジナル 特集)』などがあります。
  • いまも残る加害の歴史、日本の「戦争遺跡」を見つめ直す(Yahoo!ニュース オリジナル 特集)

    終戦から75年以上を経て、いまも国内には戦時に使用された施設の跡が残っている。その中には空襲跡のような被害の歴史だけでなく、日本が積極的に戦争を推し進めていた加害の記憶もある。本土決戦に備えて「大本営」司令部や仮の「皇居」の移設まで予定していた長野県松代市の地下壕群など、3か所の「戦争遺跡」を訪ねた。(取材・文:神田憲行/撮影:小禄慎一郎/Yahoo!ニュース オリジナル 特集編集部) 《「外相、もうあと2千万、2千万の特攻を出せば、日本は、かならず、かならず勝てます!」》 《「いや、もうあと2千万、日本の男子の半分を特攻に出す覚悟で戦えば――」》 これは「日本のいちばん長い日」(岡本喜八監督、1967年)という映画に出てくる大西瀧治郎海軍中将が、日本の降伏を止めようとして外務大臣に迫るせりふだ。SNSでは映像の一部とともに紹介されることも多いので、見たことがある読者もいるだろう。末期にあ

      いまも残る加害の歴史、日本の「戦争遺跡」を見つめ直す(Yahoo!ニュース オリジナル 特集)
    • 横浜中心部の「戦争遺跡」旧平沼駅 京急線の高架にその痕跡を探す | 乗りものニュース

      京急本線の横浜~戸部間に存在した平沼駅は、駅廃止後、横浜大空襲により被災。その後長らく屋根の骨組みなどが残っていましたが、老朽化により撤去されてしまいました。現在、高架下から駅跡は確認できるのでしょうか。 横浜大空襲で被災 元号が令和に変わり、昭和の時代はますます遠くなろうとしています。鉄道における昭和の遺構といえば、廃線や廃駅の跡など様々なものがありますが、昭和は戦争の時代でもありました。 拡大画像 旧平沼駅の階段(2019年4月、河嶌太郎撮影)。 首都圏における身近な鉄道の戦争遺跡のひとつに、京浜電気鉄道(駅廃止時は東急電鉄、現在の京急電鉄)の旧平沼駅(横浜市西区)があります。平沼駅は、京急線が横浜駅まで乗り入れた翌年の1931(昭和6)年12月に開業。しかし太平洋戦争中の1943(昭和18)年6月に営業を休止し、戦争が激化した翌1944(昭和19)年11月に廃止されてしまいます。わず

        横浜中心部の「戦争遺跡」旧平沼駅 京急線の高架にその痕跡を探す | 乗りものニュース
      • 戦争遺跡@加西鶉野飛行場跡 : Pentax Heaven

        加西市の郊外。 広い田園地帯にだだっ広いこんな空き地が。 これ、実は滑走路跡。 鶉野飛行場跡。 太平洋戦争さなかの昭和17年 ここに建設された旧日本海軍の施設。 当時は海軍航空隊が駐留し訓練基地として活用されたが 後に、特別攻撃隊の出陣基地になる。 ここで訓練を受けたのは17歳から25歳までの若者320名。 昭和20年には白鷺隊(神風特攻隊)が編成され、63名の若い命が失われた。 (詳細 以下リンクより) その飛行場跡にできた備蓄倉庫には 当時ここで製造された紫電改の原寸の復元模型が展示されている。 飛行場跡近くに遺されている防空壕跡。 飛行場跡の傍らに建つ平和祈念の碑。 当時の若者たちはいったいどんな思いでこの滑走路を飛び立っていたのだろう…。 上記リンク先のサイトから、飛行場跡のパンフレットや白鷺隊の遺書遺詠がダウンロードできます。

          戦争遺跡@加西鶉野飛行場跡 : Pentax Heaven
        • 山の上に残る戦争遺跡-七糎高射砲陣地跡- 福岡県北九州市若松区大字小石 - 日々の”楽しい”をみつけるブログ

          前回の記事では、北九州市若松区の石峰山に残る「電波標定機基礎」のことについてご紹介しました。今回の記事では、電波標定機基礎がある地点から南南東へ約400mいった場所にのこる「七糎(センチ)高射砲陣地跡」についてご紹介します。 おおよその位置を、下の地形図で示します。「七糎高射砲陣地跡」は地点②です。 地点①から地点②へいくには、下のような砂利道を南下します。この道はむかしの軍用道路です。この道を利用して石峰山各所にある軍の拠点に物資をはこんでいたと考えられます。 下の写真は地点(33.901517,130.767093)です。 三叉路となっています。「七糎高射砲陣地跡」にいくには「藤ノ木方面」へ歩をすすめます。 上の三叉路看板から約100mすすむと↓下のような標高280mの広場へと着きます。この広場が「七糎高射砲陣地跡」です。 場所:福岡県北九州市若松区大字藤木 座標値:33.900849

            山の上に残る戦争遺跡-七糎高射砲陣地跡- 福岡県北九州市若松区大字小石 - 日々の”楽しい”をみつけるブログ
          • 山の上に残る戦争遺跡-電波標定機基礎- 福岡県北九州市若松区大字小石 - 日々の”楽しい”をみつけるブログ

            福岡県北九州市若松区に標高302.5mの石峰山(いしみねやま)があります。その石峰山山頂から西北西へ約720mいった地点に、これまた標高233mほどの、ちいさな峰があります。下の地形図で示すと地点①の場所です。 この地点①に、電波標定機…つまり火器をさがしだすためのレーダーを設置していた基礎がのこっています。 場所:福岡県北九州市若松区大字小石 座標値:33.9043697,130.7646111 火器…つまり戦闘機を探しだすためのレーダーが、いつの時代につかわれていたのでしょう。こちらのサイト「石峰山高射砲陣地」を参照させていただくと、この照空灯の南南東420m地点の「七糎高射砲」が昭和16年12月に設置…とされています。昭和16年(1941年)といえば、太平洋戦争がはじまった年です(参照:『もういちど読む 山川日本史』P.307)。 七糎(センチ)高射砲はさいだいで11000mの高さに

              山の上に残る戦争遺跡-電波標定機基礎- 福岡県北九州市若松区大字小石 - 日々の”楽しい”をみつけるブログ
            • 場所を明かせぬ秘密基地は…戦争遺跡 東京に残る掩体壕:朝日新聞デジタル

              ","naka5":"<!-- BFF501 PC記事下(中⑤企画)パーツ=1541 -->","naka6":"<!-- BFF486 PC記事下(中⑥デジ編)パーツ=8826 --><!-- /news/esi/ichikiji/c6/default.htm -->","naka6Sp":"<!-- BFF3053 SP記事下(中⑥デジ編)パーツ=8826 -->","adcreative72":"<!-- BFF920 広告枠)ADCREATIVE-72 こんな特集も -->\n<!-- Ad BGN -->\n<!-- dfptag PC誘導枠5行 ★ここから -->\n<div class=\"p_infeed_list_wrapper\" id=\"p_infeed_list1\">\n <div class=\"p_infeed_list\">\n <div class=\"

                場所を明かせぬ秘密基地は…戦争遺跡 東京に残る掩体壕:朝日新聞デジタル
              • 海軍赤江飛行場に残る戦争遺跡④・宮崎特攻基地慰霊碑(宮崎市) - 日刊  おっさんの人生これから大逆転だぜえ!(日本史+史跡+旅情報)

                宮崎空港の西側の一角に、 「宮崎特攻基地慰霊碑」が建っています。 (特攻基地赤江飛行場) 宮崎空港は、太平洋戦争中は海軍の航空基地・赤江飛行場で宮崎海軍航空隊がありました。 戦争末期には、赤江飛行場は、特攻隊の出撃基地となり、ここからも海軍の特攻兵たちが飛び立っていきました。 下の写真は、宮崎特攻基地慰霊碑の案内板に書かれていた特攻で赤江を出撃した飛行機です。 (遺族や関係者が慰霊碑を建立) 1983年(昭和58年)、この赤江飛行場の近くに、元特攻隊員や遺族、地域住民らが「宮崎特攻基地慰霊碑」を建立しました。 海軍赤江飛行場から出撃した特攻隊員など385柱と宮崎出身者でここ以外の飛行場から 出撃した414柱の合計799柱の英霊が合祀されています。 敷地には鎮魂碑のほか赤江飛行場から出撃した隊員・宮崎県出身戦没者墓の名前が刻まれた碑がありました。 (今も残る当時の門柱) 霊碑の入り口には赤江

                  海軍赤江飛行場に残る戦争遺跡④・宮崎特攻基地慰霊碑(宮崎市) - 日刊  おっさんの人生これから大逆転だぜえ!(日本史+史跡+旅情報)
                • 第32軍司令部壕、公開求める声高まる 首里城地下の戦争遺跡、再建に併せ「平和のとりでに」 /沖縄 - 毎日新聞

                  第32軍司令部壕の第5坑道内部。かなりの補強工事が進められているが、風化の足跡も感じさせる=2015年6月 焼失した首里城の再建に向けた支援が広がる中、地下にある日本軍の第32軍司令部壕の公開を求める声が高まっている。1996年、県の第32軍司令部壕保存・公開検討委員会の委員長として公開を決めた名桜大前学長の瀬名波栄喜さん(91)=那覇市=もその一人。瀬名波さんは「首里城と司令部壕は不可分の関係にある」と首里城再建と併せて改めて司令部壕公開の必要性を訴える。 32軍司令部壕の公開を巡っては、元外務省主任分析官の佐藤優氏が本紙コラムで提案したことで、賛同する声が広がっている。 司令部壕について、県は沖縄戦を象徴する存在だとして93年に本格的な調査を開始。名桜大教授だった瀬名波さんが委員長を務めた保存・公開検討委員会が95年11月に設置され、翌96年に「公開」を決定した。その後の基本計画検討委

                    第32軍司令部壕、公開求める声高まる 首里城地下の戦争遺跡、再建に併せ「平和のとりでに」 /沖縄 - 毎日新聞
                  • 語り続ける戦争遺跡:中日新聞Web

                    軍需工場や旧日本軍の施設が集まっていた東海地方には戦災を伝える「戦争遺跡」がいくつか残っています。この特集では、各地の遺跡を動画でめぐるほか、「デジタル地球儀」に所在地を示しました。また、風化が進む現状を記録に残すため、可能な限り3Dスキャンしモデルを作成しました。

                      語り続ける戦争遺跡:中日新聞Web
                    • 亀島山地下工場跡地を訪れて 岡山の貴重な戦争遺跡:山陽新聞デジタル|さんデジ

                      外はうだるような暑さなのに、地下に広がるトンネル内はひんやりと肌寒かった。倉敷市水島地区にある「亀...

                        亀島山地下工場跡地を訪れて 岡山の貴重な戦争遺跡:山陽新聞デジタル|さんデジ
                      • 長野・安茂里の旧海軍造成地下壕 地元の戦争遺跡を次代に 住民ら見学会 | 信濃毎日新聞[信毎web]

                        長野市安茂里小市地区の住民らでつくる「昭和の安茂里を語り継ぐ会」が23日、旧海軍が造成し、地区内に残る地下壕(ごう)の見学会を開いた。地区外を含む一般向けに開いた初の機会で、30人余が参加。語り継ぐ会は今後も不定期で見学会を開き、地元の戦争遺跡を伝え続けていく考えだ。 地下壕は高さ2・5メートル、幅3メートルほどで、奥行きは掘削当時100メートルほどあったとみられるが、現在は20メートル余。語り継ぐ会は6月に周辺整備を始め、壕に続く階段や案内看板を設けた。 メンバーはこの日、地下壕入り口で掘削の大半がスコップやつるはしによる作業で、枠板を使って内部を補強したことなどを説明。参加者は10キロほど離れた長野市松代町の松代大本営地下壕の方向を見て位置関係を確認した。 長野市下氷鉋小学校5年の宮本大輝君(11)は「地下壕の中は広くてびっくり」。一緒に訪れた近くの祖父(75)は「孫には今の平和な社会

                          長野・安茂里の旧海軍造成地下壕 地元の戦争遺跡を次代に 住民ら見学会 | 信濃毎日新聞[信毎web]
                        • ラピュタ感漂う穴場!和歌山市加太に近い戦争遺跡「深山砲台跡」 | 和歌山県 | トラベルjp 旅行ガイド

                          ジブリ映画のアニメ『天空の城ラピュタ』のような世界観が見られるスポットとして、いま人気を集めている友ヶ島(和歌山県和歌山市)。でも、対岸の加太に近い深山(みやま)にも戦争遺跡(深山砲台跡)が残り、自然を楽しむハイキングコースが整備され、コースの入り口には無料の駐車場もあります。深山砲台跡でも、友ヶ島と同じ砲台跡の雰囲気が漂い、ラピュタの世界観を感じたい方にもおすすめ。「深山砲台跡」をご紹介します。 昨今の状況により、施設等の営業日や営業時間などに変更が生じている場合がありますので、施設や各自治体のホームページなどで最新情報をご確認ください。お出かけの際はしっかりと新型コロナウイルスの感染予防および拡大防止対策をして行動しましょう。(トラベルjp) 「深山砲台跡」があるのは、和歌山県和歌山市加太(かだ)の北側に位置する深山。加太周辺は、万葉の時代から、「潟見の浦(かたみのうら)」と詠まれてい

                            ラピュタ感漂う穴場!和歌山市加太に近い戦争遺跡「深山砲台跡」 | 和歌山県 | トラベルjp 旅行ガイド
                          • 戦争遺跡、進まぬ保存 文化財指定へ調査7県のみ - 日本経済新聞

                            NIKKEI Primeについて 朝夕刊や電子版ではお伝えしきれない情報をお届けします。今後も様々な切り口でサービスを開始予定です。

                              戦争遺跡、進まぬ保存 文化財指定へ調査7県のみ - 日本経済新聞
                            • 摩文仁の断崖や割けた岩石は自然由来ではなく「戦争遺跡」 最新の研究で明らかに(沖縄テレビOTV) - Yahoo!ニュース

                              79年前の沖縄戦の激しい艦砲射撃や爆撃は地形や海岸線の姿をも変えていたことが新たな研究でわかりました。 沖縄戦の実態を物語る新しい戦争遺跡の発見です。 糸満市の平和祈念公園にある摩文仁の丘の断崖です。 巨大な岩石が連なり壮大な景観が広がっていますが、これが自然に生み出されたものではないことが新たな研究でわかりました。 琉球大学工学部・仲座栄三教授 「これが1945年の艦砲射撃による砲弾の炸裂によって発生したということを突き止めまして」 79年前の沖縄戦でアメリカ軍は艦船からの激しい艦砲射撃を地上に向けて浴びせました。 琉球大学工学部の仲座栄三教授の研究では沖縄戦の激戦地となった摩文仁の丘の断崖の崩壊や鋭く割けた岩石は、艦砲射撃の砲弾の破裂で割れたものだということがわかりました。 琉球大学工学部・仲座栄三教授 「自然の風化で岩が割れることない。人工的な何らかの爆風によりと破壊されたと判断でき

                                摩文仁の断崖や割けた岩石は自然由来ではなく「戦争遺跡」 最新の研究で明らかに(沖縄テレビOTV) - Yahoo!ニュース
                              • 海軍赤江飛行場に残る戦争遺跡③・本郷地区掩体壕:中攻用掩体壕(宮崎市) - 日刊  おっさんの人生これから大逆転だぜえ!(日本史+史跡+旅情報)

                                天孫降臨の地・宮崎の空の玄関口・宮崎空港。 現在宮崎空港があるこの場所は、太平洋戦争中は海軍の赤江飛行場がありました。 この周辺には今も当時使用した掩体壕(中攻用・小型機用)およびその関連施設が 残っていて見ることができます。 赤江飛行場のように、1つの地域に大小の掩体壕が数多く集まって残っているのは 全国的に珍しいそうです。 そこで今回は 本郷地区にある中攻用の掩体壕を紹介します。 本郷地区には下の写真のように住宅地の中に4か所中攻用の掩体壕が点在しています。 宮崎県の資料を基に、 写真右の壕から、1号基と番号を付けています。 (1基は一般公開開始) 本郷地区にある4基の中攻用掩体壕は、まず、現地に行くとその大きさに驚きます。 大きいんですよ!! 下の写真は、一般公開されている掩体壕・3号基です。 写真左下に車が止めてありますが、この車の大きさと比較すると掩体壕の大きさが わかると思いま

                                  海軍赤江飛行場に残る戦争遺跡③・本郷地区掩体壕:中攻用掩体壕(宮崎市) - 日刊  おっさんの人生これから大逆転だぜえ!(日本史+史跡+旅情報)
                                • 海軍赤江飛行場に残る戦争遺跡②・海軍関連施設(宮崎市) - 日刊  おっさんの人生これから大逆転だぜえ!(日本史+史跡+旅情報)

                                  天孫降臨の地・宮崎の空の玄関口・宮崎空港。 現在宮崎空港があるこの場所は、太平洋戦争中は海軍の赤江飛行場がありました。 この周辺には今も当時使用した関連施設が残っていて見ることができます。 そこで今回は 赤江にある海軍飛行場関連施設を紹介します。 (弾薬庫??) 太平洋戦争末期には海軍赤江飛行場は、沖縄戦の特攻隊出撃基地になり、ここから多くのパイロットが出撃しました。 現在は宮崎空港に隣接する畑になっていますが、ここにコンクリートでできた 建物が2つ、ポツンとあります。 案内板には弾薬庫と説明されています。 この2つのコンクリートでできた建物を見てみましょう。 下の写真の右奥と左手前の2つあるのがわかります。 2つの建物とも同じ作りです。 手前の建物はすぐ前に竹藪があり撮影が難しかったので奥の建物を見てみます。 けっこうしっかりしている作りのようです。 入り口にまわると。。 中はこんな風で

                                    海軍赤江飛行場に残る戦争遺跡②・海軍関連施設(宮崎市) - 日刊  おっさんの人生これから大逆転だぜえ!(日本史+史跡+旅情報)
                                  • 海軍赤江飛行場に残る戦争遺跡① 小型機用掩体壕(宮崎市) - 日刊  おっさんの人生これから大逆転だぜえ!(日本史+史跡+旅情報)

                                    天孫降臨の地・宮崎の空の玄関口・宮崎空港。 現在宮崎空港があるこの場所は、太平洋戦争中は海軍の赤江飛行場がありました。 この周辺には今も当時使用した掩体壕(中攻用・小型機用)およびその関連施設が残っていて見ることができます。 赤江飛行場のように、1つの地域に大小の掩体壕が数多く集まって残っているのは 全国的に珍しいそうです。 そこで今回は 現存する小型機用の掩体壕を紹介します。 (3基残る小型機用掩体壕) 赤江飛行場で使用し、今も残っている小型機用の掩体壕は3基あり、近くに固まって いました。 撮影した時が逆行だったので見にくくて恐縮ですが、下が現地に掲げられていた案内板です。 では現地にあった案内板の写真をもとに現存する小型機掩体壕を見て見ます。 なお、①と⑤は現存しないので②.③.を見ていきます。 なお④は時間の都合上行きませんでした。お許しください。 (図②の小型機用掩体壕:赤江五号

                                      海軍赤江飛行場に残る戦争遺跡① 小型機用掩体壕(宮崎市) - 日刊  おっさんの人生これから大逆転だぜえ!(日本史+史跡+旅情報)
                                    • 築城に残る戦争遺跡 - 日刊  おっさんの人生これから大逆転だぜえ!(日本史+史跡+旅情報)

                                      福岡県行橋市の築城(ついき)。 築城は、瀬戸内海や関門海峡を控えた内海航路の要衝であり、また洋上爆撃や電撃作戦や訓練がやりやすいとうこから太平洋戦争中の1943年(昭和18年)6月に海軍航空隊が宮崎から移転しました。 築城飛行場の面積は145万㎡で、長さ1800m、幅50mの滑走路が、周防灘に向かって 伸びていて、ここで戦闘機乗組員の訓練や教育が行われました。 (稲童1号掩体壕) 筑城飛行場の周囲には敵の空襲から飛行機を格納する、掩体壕が複数作られました。 その1つが稲童1号掩体壕です。 【稲童1号掩体壕について書いたブログはココ】 (地下通信司令部壕) 飛行場の周辺には、情報通信機能を守る通信指令号も数カ所造られました。 その1つは、稲童1号掩体壕のすぐ近くにあり、今もその姿を見ることができます。 稲童1号掩体壕から右に出て最初の道を左に進むと信号がある大きな道の手前に車1台が通るような

                                        築城に残る戦争遺跡 - 日刊  おっさんの人生これから大逆転だぜえ!(日本史+史跡+旅情報)
                                      1

                                      新着記事