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ブックマーク / hokusyu.hatenablog.com (8)

  • <剥き出しの生>と非常事態 - 過ぎ去ろうとしない過去

    3月11日の夜、菅直人首相は大震災の発生後、初めての首相会見を開いた。わたしはそれをテレビで見ていたのだが、強烈な違和感をもったことを覚えている。会見の内容自体は、震災直後に首相が発するコメントとしては無難なものだったと思う。問題は、その呼びかけ対象である。かれは、終始「国民」ということばを使っていた。「住民」でも「市民」でも、いろいろ選びようがあったはずなのに、である。少なくとも、東北地方に一人の外国人もいないなんてことはありえない。ぼくはそのうち外国人へのフォローがあるのだろうと見ていたのだが、結局最後までかれは、「国民」に呼びかけるのみで、それ以外のことばは一度も用いられなかった。 菅首相のコメントに呼応するかのように、次の日からあらゆるマスメディアでは「国民」あるいは「日」の文字がおどった。東北地方で起きた大震災および津波の被害は、何の留保もなく「(日)国民の危機」と同一視され

    <剥き出しの生>と非常事態 - 過ぎ去ろうとしない過去
    soylent_green
    soylent_green 2011/06/29
    うん
  • 約束された救済――『魔法少女まどか☆マギカ』奪還論 - 過ぎ去ろうとしない過去

    今、魔法少女―変身ヒロインとしての―概念は危機に晒されている。『魔法少女まどか☆マギカ』に群がるキモヲタとサブカル評論家たちは、魔法少女概念を蹂躙し、ずたずたに引き裂こうとしているのだ。それが最終回を迎える4月ごろには既に、この王国には荒れ果てた大地しか残されていないだろう。われわれは簒奪者たちの手から魔法少女概念を救出しなければならない。それも、正しい魔法少女概念を、である。そのためには、『まどか☆マギカ』の正しい批評が必要なのである。それは、政治的な批評でなければいけない。実証主義の良心は認めなければいけない。だが、啓蒙的な実証主義は、悪意に満ちた大衆の前では無力である。かといってわたしは、大衆向きにアレンジされた世俗的な神話体系のひとつであるところの、魔法少女概念の「偽史」を構築しようと欲するものでもない。それは自己欺瞞であり、批評のための批評にすぎない。重要なのは理念であり、理念に

    約束された救済――『魔法少女まどか☆マギカ』奪還論 - 過ぎ去ろうとしない過去
  • とあるアルファブロガーのSophisterei(詭弁)――あるいは正統的な暴力も暴力であることについて - 過ぎ去ろうとしない過去

    はじめに結論から書いておこう。「国家が暴力を独占する」の意味は、国家が自らの暴力の行使に対してのみ、正統性を付与するということである。国家というのは、征服によるものであれ、共和主義的な統合によるものであれ、その集団がある領域内を実効支配した時点で、定義上、その領域内には少なくとも国家に匹敵しうるような暴力を行使可能な集団は存在していないはずである。だが、国家はなお支配のために「暴力を独占」する。それは、自前の暴力組織にのみ正統性を与えることによってであって、そうやって正統性を与えられた暴力組織を「軍隊」や「警察」と呼ぶ。ウェーバーによればその正統性の源泉は、近代国家においては「合法性」である。その正統性(=合法性)に基づいてはじめて、政府は国家内の自律的な暴力集団を規制したり弾圧することができるのである。 軍隊や警察は、人を殺しうる力を持っている。たとえ侵略軍から「国家を防衛」するためであ

    とあるアルファブロガーのSophisterei(詭弁)――あるいは正統的な暴力も暴力であることについて - 過ぎ去ろうとしない過去
  • リフレ派とナショナリズム - 過ぎ去ろうとしない過去

    ■「人災」事件追記 http://matsuo-tadasu.ptu.jp/essay__100821.html この記事に限らず、 http://d.hatena.ne.jp/Apeman/20100816/p1 のコメント欄でしたぼくの「ナショナリズム」発言が問題になっているようなので、とりあえず自己フォローをしておきます。 まずぼくは、リフレ論がその内的論理の結果ナショナリズムに結びつくという議論をしているわけではありません。ナショナリズムは、その議論の内的論理だけでなく外形や議論のされ方によっても喚起されます。リフレ論に関して言えば、よく知りませんがマクロ経済っていうのの重要な指標のひとつにGDPってのがあって、それは普通国家単位で算出されるんですよね?さらに、日で行われてるリフレ(金融)政策論の中心は円という日国の通貨をどうするかという話であって、だから日銀どうする問題とかが

    リフレ派とナショナリズム - 過ぎ去ろうとしない過去
  • 柴村仁、見下ろす、落語 - 過ぎ去ろうとしない過去

    柴村仁が嫌いである。 いやまあ、人は「会えばいい人」なのかもしれないが、彼女の書いたものはことごとく嫌いなものが多い。 ぼくが読んだ限りにおいて、彼女の小説のスタイルについては次のような印象を持っている。つまり誰かが死んだこと、または何かが失われたことがまず強烈なインパクトとして存在していて、その事実を中心に物語が回っていく*1。『プシュケの涙』がまさに典型的だが、『我が家のお稲荷様』もそうで、あの話の構造は要するに死んだ母親の縁で胡散臭い奴らがわらわらやってきて、死んだ母親の話をして帰っていくというものだろう。死んだ母親が物語の中心にあって、ことあるごとに母親が死んでいるということが思い出さされるのだ。 それで、なぜそういった喪失を中心とした物語(くーきょなちゅうしん、とか言いたければ言えばいい)が嫌いかというと、そうした物語はたいてい「見下ろす視線」というものを構造として保有している

    柴村仁、見下ろす、落語 - 過ぎ去ろうとしない過去
    soylent_green
    soylent_green 2009/05/07
    読んだことはないが、落語のくだりでなんとなく理解した。
  • 東工大に行ったよー - 過ぎ去ろうとしない過去

    お山の上にあるんだねー とっても広かったよー 帰りにべたカレー屋さんおいしかったー 帰ったらなんかあがってた。 http://www.hirokiazuma.com/archives/000470.html いや、困った。 そもそも http://www.hirokiazuma.com/archives/000465.html 文字情報ばかりといえば、はてなブログでは、ぼくが公認してもいない速記の断片的引用ばかりがコピーされ「東浩紀、許さん!」とか言われているらしいのだけど、上記のように、ぼくからすればそれは授業の内容についても僕の立場についても明らかに誤解している。そもそも、そんなに真実が大事だと思うのならば、そのかたがたは実際にぼくの授業に来て質問したらいいのではないでしょうか。 というのがあります。ぼくはネットで東さんの南京発言を批判していたので、この「そのかたがた」にはぼくも含ま

    東工大に行ったよー - 過ぎ去ろうとしない過去
  • 「表現の自由」が欺瞞だとは言わないけれど - hokusyu’s blog

    このあたりに対するお返事かもしれないもの。 http://d.hatena.ne.jp/NaokiTakahashi/20080318#p1 http://d.hatena.ne.jp/buyobuyo/20080317#p1 参考文献 http://d.hatena.ne.jp/toled/20071211/1197417341 ここから題 http://b.hatena.ne.jp/entry/http://blog.livedoor.jp/dqnplus/archives/1104493.html 「表現の自由」を掲げる論者たちが、このようなものに対してどう考えるかです。ぼくはべつにいいと思います。ホコ天ちょっと占拠するくらいで、誰にも迷惑かけてないし。ところが、これに対して「やりすぎ」と言う人がいます。また、「こういう人がいるから規制しろという議論が出るんだ」と非難する人*1もい

    「表現の自由」が欺瞞だとは言わないけれど - hokusyu’s blog
  • 消極的自由は児童ポルノを擁護しうるか - 過ぎ去ろうとしない過去

    http://d.hatena.ne.jp/demian/20080314 例えばなんとなく自分に近い感じの男性がレイプされる映像表現や文章表現を見た場合、わたしは恐らく生理的な嫌悪感を覚えます。また、わたしが自分の意思に沿わない相手から性的な接触を強く迫られた場合に非常に嫌な気持ちになることが想像されます。そうでなくとも性的な視線でジロジロ見られるのも嫌なものでしょう(そして多くの女性が社会の中で「性的な視線でジロジロ見られる」ことで非常にキツイことになっている、という指摘がありましたね)。 児童ポルノ法改正論者にとって、このあたりが感覚的な橋頭堡のような気がしますね。わたしがどこかで性の対象になっているかもしれない恐怖。彼らがあのマンガに向けている性的な欲望は、実はわたしに向けられるはずだったのかもしれない恐怖。大人だったら、まあある部分で折り合いをつけなきゃいけないところがあるとして

    消極的自由は児童ポルノを擁護しうるか - 過ぎ去ろうとしない過去
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