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ブックマーク / shinsho.kobunsha.com (10)

  • 終章:夢破れて、傷つき果て。それでも、なお……——『教養としてのパンク・ロック』第38回(最終回) by 川崎大助|光文社新書

    終章:夢破れて、傷つき果て。それでも、なお……英エリザベス女王の逝去 ここまでの文章に登場してきた人々のうち、すでに鬼籍に入った人は少なくない。原稿の準備中、あるいは連載中に訃報に接したことも幾度かあった。なかでも社会的にとりわけ大きな衝撃を呼んだのが、22年の9月8日の、英エリザベス女王の逝去だった。 若きセックス・ピストルズが、あたかも爆弾を抱えて特攻するかのようにして、代表曲「ゴッド・セイヴ・ザ・クイーン」を世に放ったのが77年の5月だったことは、すでに記した。その時期はちょうどエリザベス女王の戴冠25周年(シルヴァー・ジュビリー)を祝賀する一連の行事の真っ最中だったのだが、しかし女王および王室の権威は、ピストルズの「体当たり」ごときでは、びくともしなかった。同曲のシングルも「天下」は獲れなかった。パンクスの熱い支持は集めながらも、全英チャートでは(不正な操作が疑われはしたものの)結

    終章:夢破れて、傷つき果て。それでも、なお……——『教養としてのパンク・ロック』第38回(最終回) by 川崎大助|光文社新書
    stonedlove
    stonedlove 2023/05/05
    PUNKS NOT DEAD
  • 1:日本パンクのゆりかごは、『ポパイ』と『ミュージック・ライフ』と原宿だった——『教養としてのパンク・ロック』第33回 by 川崎大助|光文社新書

    第5章:日は「ある種の」パンク・ロック天国だった1:日パンクのゆりかごは、『ポパイ』と『ミュージック・ライフ』と原宿だった「東京ロッカーズ」 最後に日におけるパンク・ロック受容史をまとめてみよう。端的に言って、非英語圏であり非欧米圏でもある国と地域のなかで、ここまで巨大なる「広義の」パンク・ロック文化が花開いた例はほかにない。ある意味一時期の日とは、豊かすぎる「パンク天国」だった。それは後述する「日ならでは」の特性が大きく作用したせいだった。 そんな日におけるパンク・シーンの「最初」について評するならば、音楽アーティスト、DJ、文筆家の高木完の簡潔なこのひとこと以上のものはない。 「日におけるパンク・ロックなるものは、最初からポストパンクだったと言える」 雑誌『インザシティ』第十七集・高木完「ロックとロールのあいだには、、、」 第9回/ビームス・2017年より これは1978

    1:日本パンクのゆりかごは、『ポパイ』と『ミュージック・ライフ』と原宿だった——『教養としてのパンク・ロック』第33回 by 川崎大助|光文社新書
  • 4:プロトパンクの「傑物」たち——『教養としてのパンク・ロック』第25回 by 川崎大助|光文社新書

    第3章:パンク・ロックの「ルーツ」と「レシピ」とは?4:プロトパンクの「傑物」たちヴェルヴェット・アンダーグラウンド プロトパンクの「プロト(Proto-)」とは、「初期のもの」という意味だ。だから試作品や原型という意味の「プロトタイプ(Prototype)」同様、パンク・ロックとして世に認知される前の段階にあった「パンクの直接的なご先祖様」がプロトパンクとなる。この「プロト」の流れのなかで、「これぞ」と呼ぶべき大物を、いくつかご紹介したい。順番として、まずは「最も古い」アーティストというと――。 パンク・ロックの「直系のご先祖様」の出発点は、ヴェルヴェット・アンダーグラウンドだということになっている。1964年にニューヨークで結成され、アンディ・ウォーホルに「発掘」された彼らは、言うなれば「闇の帝王」みたいな存在だ。エルヴィス、ビートルズ、そこからたとえばレッド・ツェッペリン、アメリカ

    4:プロトパンクの「傑物」たち——『教養としてのパンク・ロック』第25回 by 川崎大助|光文社新書
  • 3:そしてロンドンには、モッド・ポップと「牛肉心」が……——『教養としてのパンク・ロック』第24回 by 川崎大助|光文社新書

    第3章:パンク・ロックの「ルーツ」と「レシピ」とは?3:そしてロンドンには、モッド・ポップと「牛肉心」が……セックス・ピストルズの「素材やレシピ」 では、ロンドン・パンクのトップランナー、セックス・ピストルズの「素材やレシピ」とは、基礎的な音楽アイデアとは、いかなるものだったのか?  すでに書いたとおり、ストゥージズらアメリカのガレージ・バンドからの影響がある。ほかにアメリカ方面からは、「プロトパンク」バンドの雄、ニューヨーク・ドールズからの影響もある。とくにギタリストであるジョニー・サンダースからの影響を、スティーヴ・ジョーンズのなかに見ることは容易だ。ラモーンズからの影響は、音楽的にはたぶん、ほとんどない――というのがピストルズ・サイドの言い分なのだが、一方のラモーンズ側では、そうではない。 ラモーンズの側には、じつは、屈があった。サード・アルバム『ロケット・トゥ・ロシア』(77年1

    3:そしてロンドンには、モッド・ポップと「牛肉心」が……——『教養としてのパンク・ロック』第24回 by 川崎大助|光文社新書
  • 2:ブルースなんて、知らないよ——『教養としてのパンク・ロック』第23回 by 川崎大助|光文社新書

    第3章:パンク・ロックの「ルーツ」と「レシピ」とは?2:ブルースなんて、知らないよガレージ・ロックの「二重屈折」構造 『ナゲッツ』に収録されているバンド、あるいはそれ以外の60年代の「ガレージ」連中がお手としたのは、まず最初にビートルズが先導した第一次ブリティッシュ・インヴェイジョン、つまりはマージー・ビート(日で言うリヴァプール・サウンド)につらなる「UKのビート・バンドたち」だった。 そして濃淡はあれど、その波のなかにあるかなり多数のイギリスのバンドがアメリカのロックンロールのみならず、ブルースやR&Bから直接的な影響を受けていた。ローリング・ストーンズやヤードバーズのように、黒人音楽に没頭し、学徒としての長い道のりを真面目に歩む(あるいは、歩もうと志す)バンドも、少なからずいた――のだが、とにもかくにも「アメリカのガレージ連中」は、そんなイギリス人バンドから影響を受けた、というわ

    2:ブルースなんて、知らないよ——『教養としてのパンク・ロック』第23回 by 川崎大助|光文社新書
  • 3:エルヴィスも、ビートルズも、ローリング・ストーンズも、1977年には……——『教養としてのパンク・ロック』第17回 by 川崎大助|光文社新書

    第2章:パンク・ロック創世記、そして、あっという間の黙示録3:エルヴィスも、ビートルズも、ローリング・ストーンズも、1977年には……  1977年の夏のロンドンは、寒かった。Tシャツ1枚でいられるような陽気の日は数えるほどしかなく、僕はたいてい、薄い上着をひっかぶっていた。 イギリス人ならば「例年どおり」だったのかもしれない(76年は猛暑だったらしいが)。しかし日からやって来た子供である僕にとっては、なんともしみったれた、夏らしくない夏だった。深夜になるまで陽が沈みきらない、白々とした「夜もどき」も、じつに落ち着かなかった。そして街じゅうのどこであろうが、古びて、すすけて、壊れかけていた。 後年、崩壊直前のソ連邦のサハリンを旅したとき、僕は、このときのロンドンを思い出した。つまり77年のイギリスとは、あたかも長く続いた共産主義体制の末期であるかのように、あらゆる社会システムが機能不全に

    3:エルヴィスも、ビートルズも、ローリング・ストーンズも、1977年には……——『教養としてのパンク・ロック』第17回 by 川崎大助|光文社新書
  • Q10「パンクにはなぜ『敵』がいるのか?」——『教養としてのパンク・ロック』第14回 by 川崎大助|光文社新書

    第1章:なぜなにパンク・ロック早わかり、10個のFAQ〈11〉Q10「パンクにはなぜ『敵』がいるのか?」悪いのはパンク側  平たく言うと、これはほとんど「パンク側のせい」だと言える。まず(1)自らの姿勢や態度のせいで「次から次へと敵を増やした」から。(2)そもそもが「許せない敵がいたゆえに」反発心を胸に立ち上がったのがパンクスだったゆえ、態度が悪くて当然だったから――このふたつについて、説明しよう。 前述したとおり、とくにロンドンで、テディ・ボーイズがパンクスを敵視していた。なかでもとくにセックス・ピストルズが、さらにはジョニー・ロットン(ライドン)が「とくに」目の敵にされて、幾度も襲撃された。テッズに代表される右派の不良とパンクスの対立は、60年代のロッカーズ対モッズの抗争よろしく、大衆紙ダネになる乱闘事件を何度も引き起こした。テッズに続いて、スキンヘッズもパンクスと対立した。 と、こん

    Q10「パンクにはなぜ『敵』がいるのか?」——『教養としてのパンク・ロック』第14回 by 川崎大助|光文社新書
  • Q6「パンクは左翼なのか?」——『教養としてのパンク・ロック』第10回 by 川崎大助|光文社新書

    第1章:なぜなにパンク・ロック早わかり、10個のFAQ〈7〉Q6「パンクは左翼なのか?」  そうだ――と言い切りたいところなのだが、しかしかならずしも、そうではない。もし全世界のパンク・ロック支持者全員に統計をとってみることができたならば、おそらくは左派やリベラル派が多数を占めるだろう、と僕は想像するが――だがパンク・ロック音楽家にもファンにも、少なからぬ数の右翼もいることは、歴史が証明している。 たとえば今日、極右や人種差別主義者、ネオナチの代名詞と化している感のあるスキンヘッズ(=頭髪を五分刈り以下程度の坊主頭にする、もしくは完全に剃り上げるストリート・スタイル)は、伝統的に、パンク・ロックと浅からぬ因縁を有する。そもそもはイトコ同士だったのに、モメて袂を分かってしまったぐらいの関係性だろうか。 また「パンクは政治的なのか?」と問われると、これも前述同様の、玉虫色の答えとなる。総じて見

    Q6「パンクは左翼なのか?」——『教養としてのパンク・ロック』第10回 by 川崎大助|光文社新書
  • Q4「パンク・ファッションは『ブランド服』なのか?」——『教養としてのパンク・ロック』第8回 by 川崎大助|光文社新書

    第1章:なぜなにパンク・ロック早わかり、10個のFAQ〈5〉Q4「パンク・ファッションは『ブランド服』なのか?」 少なくともまず、セックス・ピストルズは、まぎれもない「デザイナーズ・ブランド」の一丁羅を身に着けることが、よくあった。マネージャーのマルコム・マクラーレンの「業」が洋服ブティック経営であり、店の宣伝のために、出入りしていた若者たちに声をかけ、彼が「結成させた」バンドこそが、セックス・ピストルズだったからだ。後述するが、バンド名もマクラーレンが「勝手に考えて、押し付けた」ものだった。 ゆえに、ピストルズの面々にはつねに「店の商品」をマネキンかモデルよろしく着続けるという任務があった。当時マクラーレンのパートナーだったデザイナー、ヴィヴィアン・ウエストウッドの手による奇抜な衣装の数々を。ウエストウッドはのちに自身の名を冠したブランドなどを成功させ、06年には英王室よりデイム・コマ

    Q4「パンク・ファッションは『ブランド服』なのか?」——『教養としてのパンク・ロック』第8回 by 川崎大助|光文社新書
  • Q1「どんな音楽がパンク・ロックなのか? 実例を」後編——『教養としてのパンク・ロック』第5回 by 川崎大助|光文社新書

    パンク・ロックなのだが、レゲエなのだ。いや、レゲエなのに、熱き血潮たぎるロックであり、そしてまぎれもなくパンク――という1曲がこれだ。クラッシュの専売特許である必殺技「パンクな精神にて楽曲に取り組めば、元来それがどんなジャンルであろうとも、パンク・ロックになり得る」が、目に見えて発揮され始めたのは、ここらへんからだった。 歌詞が玄妙だ。オールナイトのレゲエ・コンサートをハマースミス・パレスに観に行った主人公が、思いついたことをつらつらつぶやく、という外枠なのだが、これが――大袈裟に言うと、まるでプルースト『失われた時を求めて』のマドレーヌ効果のごとく――寂れゆくイギリスの「現在」の、かなり広い範囲を次から次へとで素描していくことになる。この点で当曲は、クラッシュの代表曲のひとつとして、またパンク・ロック史に残る名曲として、多くの人に記憶されている(レゲエなのに)。 主人公は、社会に幻滅はし

    Q1「どんな音楽がパンク・ロックなのか? 実例を」後編——『教養としてのパンク・ロック』第5回 by 川崎大助|光文社新書
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