倫理に関するt-hirosakaのブックマーク (21)

  • 「道徳」の教科化、前倒しを検討…文科省 (読売新聞) - Yahoo!ニュース

    文部科学省は、道徳教育を学校の正規の教科とする時期を、2018年の学習指導要領改定時から前倒しする方向で検討する。 いじめ問題解消につなげる狙いがあり、4月上旬に設置する有識者会議「道徳教育の充実に関する懇談会」で具体的な時期などを詰める。 懇談会は13年度中に提言をとりまとめ、下村文科相に提出する。文科省内には、15、16年度には教科化すべきだとの意見も出ている。 道徳を巡っては、政府の教育再生実行会議が今年2月、「他者への理解や思いやり、規範意識」などを育むために教科化が必要であるとした提言を安倍首相に提出。文科省はこれを受け、10年に1度の学習指導要領改定にあわせて道徳教育の教科化を目指すとしていた。

    t-hirosaka
    t-hirosaka 2013/03/26
    ああ馬鹿馬鹿しい。
  • ララビアータ:トロッコ問題 - livedoor Blog(ブログ)

    最近、サンデル教授の影響であろうか、倫理的難問が一見具体的な例題として問われることが多い。その典型例が、トロッコ問題と言われるもので、たとえば暴走するトロッコがあって、切り替え線で二つの線路に分かれているとする。一方に行けば多くの人を犠牲にするが、他方に行けば犠牲は一人で済む。その場に居合わせた者は、トロッコをどちらに導けばいいか?と問われるのである。この場合は、かけがえのない人命が功利主義的考慮に対象にされてよいかが問われているわけであり、我々はその問題状況をこの事例で明確に理解できるわけである。 しかし、果たして倫理問題がこのような形で当に理解できるものであろうか? 事例の説明が、判断できるにはあまりにも粗雑ではないだろうか?その場に居合わせた人がどのような立場の人間か問題にしなくてもよいのか?それぞれの線路の先にいて犠牲になる可能性のある人がそれぞれどのような人なのか、自分の家族や

  • サービス終了のお知らせ

    サービス終了のお知らせ いつもYahoo! JAPANのサービスをご利用いただき誠にありがとうございます。 お客様がアクセスされたサービスは日までにサービスを終了いたしました。 今後ともYahoo! JAPANのサービスをご愛顧くださいますよう、よろしくお願いいたします。

  • 自由・恥辱・礼 - heuristic ways

    漢軍が滎陽(けいよう)で楚軍の包囲下に陥り苦境にあったとき、漢王(劉邦)は陳平を呼び、打開策を尋ねる。このときの陳平の答えが、実に遠慮のない、あけすけな、忌憚(きたん)ない物言いで、思わず笑ってしまう。*1 漢王は陳平を呼んだ。「この動乱は、いつになったら落ち着くのだろうか」「項王のもとには、慎み深くて部下思いの人柄を慕って、礼を好む廉節(れんせつ)の士が多く集まります。だが、その項王も論功行賞となると、出し惜しみがはげしく、ために士が離れていってしまう。大王の場合、傲慢不遜(ごうまんふそん)なお振舞が多く、廉節の士は集まりませんが、気前よく爵位や封邑(ほうゆう)をお与えになりますので、変わり者で利につられやすく恥知らずな連中が多く集まっております。両者の短所を去り、長所をあわせてこそ、天下はお指図のままに落ち着きましょうが、大王が相手かまわず人を侮(あなど)られるかぎり、廉節の士は集まっ

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    t-hirosaka 2010/07/28
    「史記」より、礼について
  • はてなブログ | 無料ブログを作成しよう

    ハリイカの焼売と中華炒め ハリイカをよく、見かけるようになりましたよ。生け簀で、泳いでいたものを一杯購入しました 立派な大きな墨袋や肝は冷凍保存して 柔らかな身は季節のお豆、お野菜と合わせて中華の炒めものに。新鮮なにんにくの茎は刻み、香り高く欲そそられますね 下足はミンチにし…

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  • 今日買わなかった書籍 - はやくブロガーになりたい

    目白押し! や、買えないんですけど。 倫理学の地図 作者: 篠澤和久,馬渕浩二出版社/メーカー: ナカニシヤ出版発売日: 2010/03/29メディア: 単行購入: 1人 クリック: 24回この商品を含むブログ (6件) を見る 小田中先生のを読み終えた頃に買うかも。 版元のサイトから目次コピペ。 <目次> はじめに 序 章 「倫理/倫理学」の基課題 ――「現存最古の倫理学地図」を読む―― 第1章 倫理世界の地図の読解法 ――メタ倫理学の問い―― 1 道徳的に「よい」とはどういう意味か ――認知説と非認知説―― 2 Why be moral? ――道徳は幸福の手段か―― 3 道徳はどのような意味でリアルか ――自然主義と自然主義を越えて―― 第2章 剱岳の測量記録としての義務論 ――偽証か死か―― 4 幸福な人生が「よい人生」なのか ――義務論としてのカント倫理学―― 5 ?幸福にな

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    t-hirosaka
    t-hirosaka 2010/03/24
    「白押し!」確かにどれも面白そう。
  • 情けは人のためならず - 恐妻家の献立表blog

    私は『孟子』の「惻隠の心」の同心円的波及に、ベルクソンが「魂を全く主知主義的に理解することに由来する先験的な推論である」と評した考え方を連想した。 「われわれの共感は、このような漸進的進歩によって拡大し、同一のままで増大し、ついには人類全体をも包含することになろう」という発想をベルクソンは批判している。『孟子』の「惻隠の心」は世間一般によく見られるこの考え方にそっくりだと思ったが、参考にした『道徳を基礎づける』でジュリアンはルソーの「憐れみの感情」と比較して「ルソーは孟子とそっくりである」と言っている。 わたしたちの行ないの中にあるこの根源的な心の動きがどう広がるかを見ると、両者の比較を最後の地点まで推し進めることができる。ルソーが言うには、「一般化され」、「全人類に広がる」ことで、この初発の心の動きは公正さへと開かれる。中国では、すでに見た通り、「人間らしさ」(仁)と「公正さ」(義)が対

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    t-hirosaka
    t-hirosaka 2009/04/26
    自分のためにメモ
  • 誰かの善意 - 恐妻家の献立表blog

    x0000000000さんより、仁の端を家族から友人・同僚、地域社会の隣人、やがてはすべての人びとにまで、同心円的に波及させていく孟子の発想について、面白いコメントをいただいた。 http://d.hatena.ne.jp/x0000000000/20060319/p2 x0000000000さんによれば「現代にも全く同じタイプの人間がいる」そうだ。「彼の名は「空想的サヨク君」」。いや、たしかに、そういわれてみれば思い当たる節がある。善意が先走っている人、世界の平和は一人一人の心から!みたいなスローガンを臆面もなく言える人、たいていは真面目で正直な愛すべき人物なのだが、ちょっとスピリチュアル系のトンデモな思い込みがあったりして、ときにけむったい感じも周囲に与えてしまう人、一昔前なら小さな親切・大きなお世話と言われてしまうような、そういう人のことを指すのだろう。 そして、x000000000

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    t-hirosaka 2009/04/26
    自分のためにメモ
  • 『孟子』の「惻隠の心」 - 恐妻家の献立表blog

    孟子は、幼い子どもが井戸に落ちようとするのを見かければ、誰しも思わず助けようとするだろう、と言い、その気持ちこそが仁の萌しだという(惻隠の心は、仁の端なり)。(『孟子』岩波文庫、p141) この仁の端を、家族から友人・同僚、地域社会の隣人、やがてはすべての人びとにまで、同心円的に波及させていくのが孟子の考える仁の実践である。 ジュリアンは、『道徳を基礎づける』で次のように言っている。 これらの例から、普遍的な原則が導かれる。「誰もが、他者の身に起こることに忍びざるものがある(人皆有所不忍)」。この忍びざる感情を、他者の身に起こりながら忍びうるものにまで及ぼすこと、それが「仁」の感情である(尽心下31[達之於其所忍、仁也])。誰にとっても、他人が不幸に沈んでいる時に、無関心でいられず、反応を引き起こすものがあるということ、それが「仁」なのだ。 〈中略〉したがって、中国的な観点からすると、道徳

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    t-hirosaka 2009/04/26
    自分のためにメモ
  • 呪文のような… - heuristic ways

    t-hirosaka
    t-hirosaka 2009/03/09
    「ねばならない」という義務が新たな可能性の空間(「できる」)を切り開くという風に考えると、義務に従うところに自由があるということの意味が理解できる。
  • 本の備忘録

    の備忘録

  • 本の備忘録

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    ハリイカの焼売と中華炒め ハリイカをよく、見かけるようになりましたよ。生け簀で、泳いでいたものを一杯購入しました 立派な大きな墨袋や肝は冷凍保存して 柔らかな身は季節のお豆、お野菜と合わせて中華の炒めものに。新鮮なにんにくの茎は刻み、香り高く欲そそられますね 下足はミンチにし…

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  • 道徳感情の複合性 - Apeman’s diary

    とにかく殺すのは悪い 先に殺した方が悪い 殺すのをやめない方が悪い たくさん殺した方が悪い 正当な理由なく殺した方が悪い 無抵抗な(ないし圧倒的に弱い)相手を殺すのは悪い 違法な殺害は悪い 残虐な、あるいは汚い手段で殺すのは悪い …… このリストは暫定的なもので網羅的でもなければ分析しつくされたものでもないけれど、ともあれ「殺人」という現象を前にした時に私たちのうちに立ち上がる道徳感情は、こうした複数の原則が複雑に相互作用しあった結果だということはできるのではないか。意識的に特定の原則に全面的にコミットすることを選択した人(例えば絶対的非暴力主義者)以外は、上記の原則のいずれか一つだけにしたがってすべての「殺人」を評価することには困難を覚えるはずだ。例えば、「残虐な、あるいは汚い手段」での殺人であっても、殺される側が「先に殺した」「正当な理由なく殺した」という条件を満たしてしまっている場合

    道徳感情の複合性 - Apeman’s diary
  • 正戦論の倫理思想家マイケル・ウォルツァーのガザ攻撃正当化について:パレスチナ情報センター:Staff Note

    Posted by :早尾 貴紀 イスラエルのガザ侵攻をめぐって、いろいろと貴重な発言、良心的な発言が翻訳紹介されています。 しかしもちろん、こういった発言が世論の主流を占めているわけではなく、稀少だからこそ拾われて紹介されているということでもあるわけです。 ここで反対に、ひじょうに巧妙にイスラエルの軍事攻撃を正当化する議論を紹介します。論者はマイケル・ウォルツァー(Michael Walzer)。アメリカ政治思想・倫理思想の研究者で、日でも、その主要な著作が次々と(もう10冊も!)翻訳紹介されている人気の思想家です。共同体の倫理と人権の理論で知られます。 そして彼は、〈9・11〉のときも、アメリカの軍事行動を正当化する代表的イデオローグとして名を馳せました。 それだけではありません。ウォルツァーは、もはや古典とも称される正戦論、『正しい戦争と不正な戦争』を1977年に刊行し、とうとう

  • 続・暴力や虐待について - Arisanのノート

    先日、暴力とか虐待についての記事を書いたけど、このテーマは書きにくいし考えにくい。 もう少しすすめてみる。 なんとなく人間には、というより自分の中には、自分や他人の(精神的にも)弱い部分や柔らかい部分を攻撃したくなる衝動があるような気はする。それがフロイトの言う「攻撃衝動」だとすれば、それは自分の「中に」あるとも思える。 しかし、そういうものが発動するときに、自分のなかで何かが遮断されているようでもある。だから、その衝動は自分の「外」から来る、という感じもある。 フロイトはそこを、人間の内部にある「欲動」として捉えたのだろうが、内部にあるとは言い切れない、というのがぼくの実感である。 しかし、内部にあるものだろうと、外から来るものだろうと、それが自分がこの世界で(他人の中で)存在することにおいて質的な要素(力)をなしていることは否定できないのではないか、とも思う。 その力の、ひとつの現れ

    続・暴力や虐待について - Arisanのノート
  • 意志への自由 - モジモジ君のブログ。みたいな。

    いろいろと思ったことを、整理せずに書いてみる。 まず、ネットのあちこちで語られ(かつ批判された)被害者の自己責任を言う言説は、沖縄の中でもそこかしこで語られる。米軍基地との距離も、地域によって随分違う。那覇近辺であれば、米軍の存在感は随分と小さい。少なくとも最近は。堂々と言うかコソコソと言うかの違いだ。いずれにせよ、「沖縄」という一枚岩の政治的主体が存在するかのような語り方は、少し考えなおして欲しい気はする。*1 今回の事件に関連して、あちこちの自治体から抗議決議が出されている。県民集会も開かれるらしい。こういう動きを被害者自身が喜んで受け止めたりするわけがない、とは思う。連日の報道の中で、ああ、自分のことが語られている、ということ、そのことは多分、痛いことのはずだ。ただ、地位協定がある限り、地域社会は沈黙を許されないだろう。地域社会の行動だけが、「運用改善」を担保している。これは先日も指

    意志への自由 - モジモジ君のブログ。みたいな。
  • デスノートはどこにあるのか - モジモジ君のブログ。みたいな。

    とりあえずLと月の対決のお話としてはよくできてて面白かったけれども、それとは別に、法と正義について。>あらすじは公式サイトをどうぞ。 我々の社会が持つ「法」と夜神月の目指す「正義」の対決が一つのモチーフなんだけれども、法とは区別された正義の話をしだすと、すぐ、夜神月みたいなサイコな正義──「デスノートの力で抹殺する」という恐怖によって悪を抑止する──になってしまうのは、なんだかなぁ。これに対して夜神月の父・総一郎はこんなセリフを叫ぶ(うろ覚え)。「法律は不完全だ。それは人間自身が不完全だからだ。しかし、法律はその人間が何千年かけて積み上げてきた知恵だ。お前(月)がしたことは、断じて正義ではない」。ふむ、なるほど。 しかし、この対立の構図は陳腐すぎる。たとえば、次のように考えてみよう。私たちが「デスノート管理委員会」なるものを作り、誰をどのような理由で殺すかについて民主的に討議し、その決定に

    デスノートはどこにあるのか - モジモジ君のブログ。みたいな。
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    仲春はゆっくりと通り過ぎる 寝て起きたら3月である。今日の東京の最高気温は20度を超えている。正月のインフルエンザが完治して、これでやっと健康で文化的な年度を始められるぞ、と意気込んだのも束の間、今度は原因不明の高熱を出して1週間寝込んだ。 脳がグツグツ煮える音が聴こえそうなほど…

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    我が家のダグウッド ダグウッドとはハナミズキのことである。昔、日からポトマックリバーの桜の苗木を送った返礼として、アメリカから送られて来たのが日での始まりで、アメリカ原産でアメリカヤマボウシともいうらしい。 最近では日でも、あちこちで、街路樹であったり、庭木であっ…

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