ブックマーク / martbm.hatenablog.com (25)

  • 猪瀬都知事の言ったこと - martingale & Brownian motion

    猪瀬都知事が、ニューヨークタイムズのインタビューに答えた内容が、トルコへの差別発言になるとして、問題になっている。 しかし、おかしなことは、むしろ、このことに対するネット上の反応であろう。 猪瀬知事は、最初、Facebook で、「弁明」をした。そこでは、自分の「真意」がねじまげられた、悪いのはニューヨークタイムズの方だ、という、 自分は悪くない という主張であった(しかも、日語だけ)。ところが、翌日、全面的に謝罪をした。 まず、自分がニューヨークタイムズで話すことによって、世界的な影響を及ぼせると考えて、インタビューに応じた、つまり、ニューヨークタイムズを利用しようとしたはずだと考えるなら、その内容を糾弾されることには、反論の余地はないであろう。むしろ、猪瀬都知事自身が、自分の真意が伝わっていないと言うのなら、 どのように誤解されているのか を各発言に対応させて説明すればいい。ところが

    猪瀬都知事の言ったこと - martingale & Brownian motion
  • 日下渉『反市民の政治学』 - martingale & Brownian motion

    一方において、民主化であり市民社会の「ルール」の重要性を強調しておきながら、他方において、貧富の格差が拡大することを資主義の宿命として「しょうがない」とあきらめることは、 矛盾 していないだろうか? 私はこれを市民社会の「道徳化」として考えてみたい。 例えば、こんな例を考えてみよう。ある貧しいながら田舎で生活をしていた家族があったとする。しかし、彼らには、まとまった土地がなかったので農業を続けることは難しいと考えて、一念発起して、都会に出てきて、生活の場を都会に移そうとした、としよう。 ところが、である。都会は物価が高い。家を借りるにも、彼らの払えるような金額ではない。しかし、言うまでもない。 彼らも生きていかなければならない。 じゃあ、どうしたらいいのか? 言うまでもない。「不法占拠」しか、ありえない。これが「スラム」である。もちろん、そのままにしていれば、警察に見つかり、いずれは追い

    日下渉『反市民の政治学』 - martingale & Brownian motion
  • 市民と国民 - martingale & Brownian motion

    以下のサイトを見ると、なるほど、市民と国民と人民には、いろいろな分類があるんだな、ということが分かる。 では、ここで、カール・シュミットにとって、市民と国民とは、なんだったのか、を考えてみたい。 市民とは、古代ギリシアにおける、アテネ市民という表現と同じものだと考えていい。 古代ギリシアは、奴隷制を採用していたこともあり、その市民=貴族のシステムに、現代の奴隷解放とのアナクロニズムを感じる人もいるかもしれない。 しかし、ここでの「市民」という場合のポイントは、違っている。古代アテネの「市民」とは、つまりは、 軍人 のことであった。つまり、市民と奴隷の大きな違いは、奴隷は、軍人ではないが、市民は軍人だった、ということである。つまり、市民と軍人は同じ意味だったのである。市民が都市国家を守っていた。市民とは、「徴兵制」をされる人、を意味していたわけである。 ナチス・ドイツが台頭してきた時期のドイ

  • 島薗進『精神世界のゆくえ』 - martingale & Brownian motion

    それにしても、近年のケータイやスマホについているGPSは便利だ。あの、渋谷の細い道が、まがりくねった所も、目的地を検索できれば、容易に「最短距離」を行くことができた。ちょっと便利すぎだなあ、と思わなくはない。 私が、東京で暮らし始めた頃、自転車を買っていた。ただ、最近はまったく乗らなくなったが。休日の日などは、その頃は、特に用事もなく、自転車で、家の回りをブラブラしていた。 その時に気付いたのは、東京の住宅街は、非常に細い道で、あまり、見た目も変わらないような家が、次々と続き、ほとんど 迷路 だな、と思ったことだ。その感覚は、最近も変わらない。当時は、まだGPSって感じではなかったから、当に、わけが分からなかった。次々と、あらわれる、公園でさえ、ろくに区別がつかなかった。 そうやって走っていると、当に、迷子になっている気分であった(もう大人ですから、どうとでも家に帰れるわけですけど)。

    島薗進『精神世界のゆくえ』 - martingale & Brownian motion
    t-hirosaka
    t-hirosaka 2012/05/02
    ニューエイジとボードリヤール
  • 宮台真司『愚民社会』 - martingale & Brownian motion

    (大塚英志との対談。それにしても、クリスマスに私は何を書いてるんですかね orz。) 結局のところ、日の「エリート」問題というのは、今後の「ユートピア」において、どのようになっていくことが望ましいのだろうか。 今までのように、日を背負っていく人を輩出しているような、東京にある有名進学校や有名大学で、優秀な成績を残したような人たちが、社会人経験もないまま、内輪だけで共感し合い、その感情をひたすら増幅させ、その感覚を内包したまま、とにかく、 大衆に選択させたら大変なことになる という(私に言わせれば、杞憂に思う)、危機意識ばかり肥大化させているような、そういった未来が、やはり今のように続いているのが、来たるべき「ユートピア」なのだろうか。 それとも、来たるべき未来の「ユートピア」は、もっと違った「秩序」によって、バランスされるようなものになるのだろうか。 私はなぜ、東浩紀さんが、あそこまで

    宮台真司『愚民社会』 - martingale & Brownian motion
  • 「一般意志2.0」はユートピアか? - martingale & Brownian motion

    ここのところ、何回かこだわって書いてきたのだが、結局のところ、東さんという人の「一般意志2.0」というが、なにが言いたいのか、または、どういった文脈でつぶやかれているのかが、今一歩分からなかった、というのが印象であった。 著者の論点のポイントがどこにフォーカスされているのかが分からないので、だったら、読者側が、なんとか(著者がどう読まれ「たい」かなどどうでもいいんで)読者側の視点で整理していくしかないんじゃないか。 こののポイントは、二つの側面から両面攻撃のように、議論されているわけだが、その二つの視点が、一般的なアカデミズムの思想とどのように、著者が対決しているのか、という所がポイントなのではないだろうか。 著者の今まで考えてきた持論(一種のフラットな人間観と、そこから導かれる、一種のエリート主義)。 それが「未来」の人類社会で「評価」されるという期待。 著者には、なにか昔から思って

  • ジョン・グレイ『ユートピア政治の終焉』 - martingale & Brownian motion

    掲題の著者のような、人が一般にどのように受け取られているのかを私は知らない。知らないんですけど、この掲題ののようなものを、「哲学」と呼ぶべきなんじゃないか、と思うんですけどね。 どうも日の哲学的な言論をする人たちって、いわゆる「哲学研究者」なんですよね。もっと言えば、哲学オタク。哲学とかいう以前に、そもそも歴史を学んでいない。自分は自分の専門分野以外のことは知らない、とか平気で答えちゃうような、ようするに、あなたはなにも知らないでしゃべってるのね、という感じだろうか。 グレイは、とりわけ、自由主義の政治哲学者、もしくは、政治思想家としての地位を確立する一方で、その思想的立場からさまざまな政治評論的な著作も書き続ける数少ない「公共的知識人」として名高い。 松野弘「監訳者あとがき ユートピア思想の誕生と蘇生」 掲題の著者については、例えば、以前紹介した、大澤真幸さんの『<世界史>の哲学』と

    ジョン・グレイ『ユートピア政治の終焉』 - martingale & Brownian motion
  • 子安宣邦『思想史家が読む論語』 - martingale & Brownian motion

    TPPの議論をどのように受け止めたのかで考えるなら、それは一言で、 世界市場 化といえるだろう。両雄相並び立たず。あらゆる「同一」性は、同一の「競争」によって、優勝劣敗を決せられる。一つのセービスを提供するのは、世界に一つでいい。 例えば、今の日には間違いなく、日経済圏と呼べるような、日内に閉じた市場がある。この市場で競っているのは、基的に日人同士であって、でもそれでも、ある程度は海外からも商品が入ってくる。 しかし、ここで「入ってくる」とは、何を言っているのか、と考えてみよう。海外の企業が日で商品を売りたい、と思ったとする。では、どうするか。日のさまざまな、小売店に物を置いてもらうことを考えるだろう(とりあえず、ネットで売るケースは考えていない)。しかし、その限られたスペースのどこに置ける場所があるのか。もし、置いておけるとするなら、それは今まであった、日商品の場所を除く

    子安宣邦『思想史家が読む論語』 - martingale & Brownian motion
    t-hirosaka
    t-hirosaka 2011/11/14
    「教育は、国民一律に「調教」するなにか、である。しかし、「学び」はそれを志したものが、実践するなにかである。」
  • 構造主義的ジャーナリズム論 - martingale & Brownian motion

    ネットではないマスコミで、原発問題が、安全厨と危険厨に完全に国民を二分した、あの311以降のネットの状況について分析したものを、寡聞にして私は知らない。 つまり、ああいった完全に「党派」が分かれてしまうというのは、これだけソーシャルネットが言われているのに、なぜ、その意見の「統合」。つまり、「対話」による、 分かり合い が起きなかったのかは、興味のあるところだ。多くの人たちは、自らをそのどちらかの党派に属させていることを忘れて、相手が反対の党派に属していることを、ののしり罵倒する。そして、自らを悲劇のヒーロー(ヒロイン)に重ねて、ソーシャルネットへの幻滅のパフォーマンスをさんざんやった後に、同じ党派の「戦友」たちに向かって みんなで「良い」ソーシャルネットを作っていこう! と呼びかけて、その人の溜飲が下がる。こんな場面を何度眺めたことか。 そう考えてみれば、なぜ、世の中には、いつまでも対立

    構造主義的ジャーナリズム論 - martingale & Brownian motion
  • BUMP OF CHICKEN「beautiful glider」 - martingale & Brownian motion

    カントの純粋理性批判を、ものすごく切り詰めて、一言で言うなら、 アンチノミーがアンチノミーとしてしかありえないのは、人間が「時間的・空間的」な存在でしかありえないからで、それを矛盾と考えてはいけない といったところだろうか。一見、対立した意見が共に成立しているように思えるアンチノミーは、それが私たちが人間を、「時間的・空間的」な存在、と 定義 したときに決まっていたことなので、むしろ問われなければならなかったのは、なぜそのように定義したのか、だったはずだ、と。 人間は「地域的」な存在であるのだから、暮らしている場所が違うのなら、体験する内容が違うのだから、同じ共感感情は結局は「完全」にはなりえない、ということになる。 人間は「時代的」な存在なのだから、結局は、過去の人たちが選んだ行動を「完全」に判断することはできないし、未来の人たちへの共感はどうしても自家撞着なものになってしまう。 つまり

    BUMP OF CHICKEN「beautiful glider」 - martingale & Brownian motion
    t-hirosaka
    t-hirosaka 2011/08/07
    カントとヘーゲル
  • 寺嶋秀明『平等論』 - martingale & Brownian motion

    「平等」という言葉は、近年において、新自由主義的な文脈において、左翼の残滓として、徹底糾弾されてきた歴史があるだろう。サッチャー・レーガンの新自由主義は、日では小泉旧自民党政策となり、その過程で、あらためて、戦前のアカ狩りと同列の視点として、「平等」とは旧ソ連のマルクス主義、社会主義、共産主義の「勧善懲悪」なイデオロギーであり、徹底して撲滅しなければ、日の不況からの脱出はない、と言われてきた。 しかし、多くの人たちが気付き始めているように、こういうことを言っている連中の言う通りの社会を実現すると大変なことになる、ということだろう。世界中に極端な貧富の差が生まれる。 ところが、こういうことを言っている連中にしてみれば、むしろ、 貧富の差をどこまでも拡大させ「なければならない」 と思っている。この差がどこまでも大きくなることが、彼らの考える理想社会が実現できていることの証明であって、そのこ

    寺嶋秀明『平等論』 - martingale & Brownian motion
  • 柄谷行人『世界史の構造』 - martingale & Brownian motion

    なんか、隔世の感がありますね。長年、この方の著作を読み続け、影響を受けてきた自分としては、一読者として、ただただ楽しめた。いつか、こういったものが読めないかとは多くの方が思っていたのではと思うけど、こうやってそれが実現されてみると、昔の頃のことから、いろいろ思い出されてきて、なんとも言えない気持ちになる。人生の中で、そんなふうに思えることって、そうそう、ないんじゃないだろうか。 このは、今まで、著者がいろいろ書かれていた論文と、一点で違っている。 二〇〇一年にいたるまで、私は根的に文芸批評家であり、マルクスやカントをテクストとして読んでいたのである。いいかえれば、自分の意見ではあっても、それをテクストから引き出しうる意味としてのみ提示したのだ。だが、このようなテクストの読解には限界がる。私の意見が彼らに反することが少なくなかったし、また、彼らが考えていない領域や問題が多かった。したがっ

    柄谷行人『世界史の構造』 - martingale & Brownian motion
  • 渋谷望『魂の労働』 - martingale & Brownian motion

    だれでも考えることは、個人に問題があるのであれば、その問題を、 上位機関 が面倒をみればいいのではないか、ということである。下が困っているのであれば、上がそのアラートをキャッチして、手当すればいい。 しかし、これは、逆についても言える。 働き:国家 --> 個人 働き:個人 --> 国家 国家が困っているなら、どうすればいいのだろうか? 個人が「下から」そのアラートをキャッチして、手当てをする。 いずれにしろ、この、相互関係を、もっとディープにしていく方向は、一つの方向性だろう。 例えば、国家財政が回らない。じゃあ、どうするか。個人に使うお金を減らせばいい。どうやって。今まで使っていたのは、それが必要だったから、であろう。その必要性が消えているわけでないのに、どうやれば減らせるというのか。 たとえば、医療費である。なぜ、医療費が発生するのか。患者が病気になるからである。だったら、人を病気に

    渋谷望『魂の労働』 - martingale & Brownian motion
  • 柄谷行人「仏教とファシズム」 - martingale & Brownian motion

    人によっては、一つ前のブログで、キリスト教について書いたので、今度は仏教だろう、と予測した人がいたのかどうかは、さだかではないが(そもそも、このブログを読んでる人なんているのか?)、正直に言えば、次に仏教について書こうと思って、前のブログを書いてた。 どうも、私は文章を「まとめる」というのが苦手だ。読みやすいように書くというのも苦手だ。漫然だらりと、思いつくままに、筆を進ませるのが性に合っているんじゃないかと思うのだが、そうすると、他の人がだれも読めない文章になってしまう。自分で読み返しても、この時何を考えていたのかすら分からない文章になりかねない。でも今回は、そんな文章にしてみたい。 掲題の論文において、まず書かれているのは、いかに仏教というのは来「排他的」な攻撃的な宗教であったのか、ということである。 インドに生まれた仏教は極めてラディカルな思想であって、それを「移植」することはやは

    柄谷行人「仏教とファシズム」 - martingale & Brownian motion
  • 成田良悟『バッカーノ!』 - martingale & Brownian motion

    ミハイル・バフチンは、ドストエフスキーの一連の小説群が、ある意味、奇妙な構成となっていることに注目する。 ドストエフスキーの関する厖大な文献を読んでいると、そこで問題にされているのは長編小説や短編小説を書いた一人の作家=芸術家のことではなくて、ラスコーリニコフとかムィシキンとかスタヴローギンとかイワン・カラマーゾフとか大審問官とかいった、何人かの作家=思想家たちによる、一連の哲学論議なのだという印象が生まれてくる。文学批評家の頭の中では、ドストエフスキーの創作は、彼の主人公たちが擁立するそれぞれの別個の、相互の矛盾した哲学体系に分裂してしまっているのである。作者自身の哲学思想は、そこではけっして中心的な位置を占めているわけではない。ドストエフスキーの声は、ある研究者にとっては彼のあれこれの主人公たちの声と融け合っており、別の者にとってはそれらすてのイデオロギーの声を独特に総合したものであり

    成田良悟『バッカーノ!』 - martingale & Brownian motion
    t-hirosaka
    t-hirosaka 2010/02/25
    バフチン『ドストエフスキーの詩学』ポリフォニーについて。
  • 丸鬼太郎『"超"格差社会・韓国』 - martingale & Brownian motion

    最近は、東アジア共同体、でかまびすしい。日中韓、に、北朝鮮(、モンゴルも?)、そして、東南アジア、各国になるのであろうか。 おもしろいのは、このアイデアの、日側の提唱者が、とにもかくにも、「経済的要求」から、来ていることだ。日の、ここ何年かの、低成長は、今のままでは、これからもずっと続くであろう。だとするなら、この日の「成長」とは、なにを意味していることになるのだろうか。 もちろん、今の、アジアの急成長と、グレーなまでに「区別がなくなる」ことであろう。日人は、まさに、「アジア人」ででもあるかのように、当然のように、このアジアの発展の現場に立ち会い、貢献を惜しみなく与える。そのことにより、信頼を勝ち得て、「アジアの一員」としての地位をまっとうする。 想像してみようではないか。東アジアが、もし、一つの国だとしたら。日人が、どうして、日「国内」だけに、その働き場を求めることなどあろう

  • ゴーストタウン / ワンダーランド - martingale & Brownian motion

    自民党は、まさに、椎名林檎が言ったように、「一度栄えし者でも必ずや衰えゆく」、そんな存在に、なり果ててしまった(そういえば、選挙前に、なんか、どーでもいい、表彰をしてましたね)。 あの、河野さんの、ヒステリックな、罵倒には、ずいぶんと評価があるようだ。しかし、そもそも、そういうことを言っている人は、こういうものを、公衆の面前でやるべきでない、とは考えないのだろうか。 もちろん、そういう意味でも、自民党の今の醜態は、ひどいものなのだろう。選挙の一票が平等であるように、たとえ、当選回数が何回だろうと、そのときそのときの、一票による当選は、平等なのである。当選回数の多さで、いばっていた、自民党のビックネームは、テレビ番組で、いっちょまえに、「党内政治」をうんぬんしていた姿の「醜さ」は、こと、こういう事態になって、よくわかる、というものであろう。政治の経験など、ほぼないに等しい、そんな民主党新人立

    ゴーストタウン / ワンダーランド - martingale & Brownian motion
  • 高野悦子『二十歳の原点ノート』 - martingale & Brownian motion

    最近は、60年代の、学生運動ブーム、のようである。屋では、新刊で、のきなみ、当時の「英雄」たちが、当時の、学生運動とは「なんだった」のか、と、定年間近かの、お偉い先生がたが、人生の先輩の、ありがたいお言葉を、生き生き、当時の「英雄列伝」を語る語る。その、かまびすしいこと。 しかし、ね。 わたしは、そういう、今では、たいへん、お偉くなられた、大学者になられました、おっさん、おばさんの、たいへんありがたい、お説教を、頭を垂れて、聞きながら、こう思うのです。 たしかに、ごもっとも、その通りで、ありゃんすね。そーですね。 でも、それって、「半分」じゃないですかね。真実の、半分の側面を言ってるだけじゃないですかね。 もちろん、その、残りの半分とは、この「ノート」である。 この、は、ある一定以上の人は、ほとんど知っている、というものなのかもしれない。1975年頃、ベストセラーとなる。 三冊に分かれ

    高野悦子『二十歳の原点ノート』 - martingale & Brownian motion
    t-hirosaka
    t-hirosaka 2009/08/16
    「彼らは、女性を必要とした。それは、彼らの活動が、男尊女卑なものであるこというレッテルをはられないようにするために、必要であったにすぎない」
  • 木下鉄矢『朱子』 - martingale & Brownian motion

    最近、出版されたですが、内容が、濃いですね。 著者は、このの最初で、大変強力な言葉で、今までの、朱子学の説明のされ方が、あまりに、「哲学的」であったことを、批判します。 それにしても思うのは、丸山眞男氏や司馬遼太郎氏は、例えば第1部第1章で紹介する朱熹の「社倉記」を読まれたことはないのだろうか。歴史的実在としての朱熹の生涯とその生の現場、そこに交錯する時代と歴史の現場に深い理解を持っておられたとは到底思えないのである。 書が企画するのは、「朱子」の語と尊崇されてきた言語テキストを「朱子学」の観点から読むのではなく、一人の人間として時代と歴史の中に生死した「朱熹」の側から捉え直すことである。「朱熹」と名付けられた人物のその生の現場、そこに交錯する時代と歴史の現場、そしてそこに現成する言語活動の現場から「朱子」を読み直すことである。 私は、戦後、日のさまざまな通俗的な認識を決定したのは

    木下鉄矢『朱子』 - martingale & Brownian motion
  • 萱野稔人「ナショナリズムが答えなのか」 - martingale & Brownian motion

    高橋哲哉さんとの対談。 こういう、ちょっと、ホンモノの人と対談してもらうと、萱野さんの議論が、どういう位置にあるかが分かる。 萱野さんは、以前から、ナショナリズムに対する、世間の低い評価に不満があるという。 今のグローバル経済の中では、資は、安い労働力を求めて、海外の辺境に進出する。その動きを止めることはできない。 もし、この動きにあらがって、「日人」の労働賃金の水準を維持していくには、どうすればいいのか。萱野さんの答えは、「ナショナリズム」、となる。 ナショナリズムによる以外に、「日」労働者を、他の外国人労働者に優先して、扱うことはできない。 ただ、そこから先は程度問題で、格差問題を解決するためにはナショナリズムが一定有効になるのですが、だからといってナショナリズムなら何でも肯定されるべきだとは思いません。 それに対して、高橋さんは、自分は、ナショナリズムの全否定をしているわけでは