豊臣秀長(とよとみひでなが)はあの「天下人」秀吉の弟で右腕、いやそれ以上の存在でした。秀長は兄の天下統一を見届けた直後に亡くなりますが、それは豊臣家終焉のはじまりでした。 よく「秀長が長生きしていれば豊臣家の天下は安泰だった」ということを言われますが、その通りかもしれません。 今回はそんな豊臣秀長を紹介します。
第六天魔王=他化自在天まず、第六天魔王とはどこのどなたなのか? 「六」があるなら「一から五」もあるのか、だったら「六番目」ってあんまり偉くないんでは……などといらぬ心配をしてしまうこの御方、別名を「他化自在天」とおっしゃいます。 我々人間の住む俗世に一番近い天界、欲天の最上階である第六天にお住まいの神様(天)で、欲天では一番偉い方です。 ちなみに第一~五の下の階層には、閻魔大王や弥勒菩薩、帝釈天など、有名どころの神様がたくさん住んでいらっしゃいます。そのさらに下が私達の住む俗世ですね。 でも彼は「天」ではなく「天魔」です。なぜ? それは第六天魔王の別名である「他化自在天」が表す彼の一風変わった性質によるものです。 他化自在天は「人間の望みを叶えたり快楽を与えて、それを自在に自分の快楽とする事ができる」神様で、趣味=仕事という全くうらやましい……、人間的にもありがたいことこの上ない神様です。
「島流し」と聞いて、どんなイメージが浮かぶでしょうか? おそらく、謀反のような重罪を犯したものの、死刑は免れるかわりに小島に送られ、そこで生涯を全うする―こういった印象を持つ人が多いでしょう。 そこでの生活は、派手ではないものの、つつましやかに暮らすことは許され、牧歌的ともいえる日々であったと想像するかもしれませんね。 しかし、その実情は、多くの罪人にとって「死刑のほうがまだマシ」といえそうなほど過酷な世界であったのです。 この記事では、流刑者が多かった江戸時代を中心に、島流しの伝説を紹介したいと思います。 日本初の流刑者は皇女だった 日本の流刑の歴史は古く、正史では日本書紀に出てきます。第19代天皇の允恭(いんぎょう)帝の治世というから、西暦では5世紀の話です。 允恭帝には9人の皇子・皇女がいましたが、皇太子の木梨軽皇子(きなしのかるのみこ)と妹の軽大娘皇女(かるのおおいらつめ)が近親相
石井良助が注目したのは、表の「冒頭部分」という項目です。表記の移り変わりがあることに気づきますね。年代順にしてみると、ここは三つに分けることができるようです。石井良助はこれを、第一期(表中1~5)・二期(6~21)・三期(22~26)に分けました。 まず「前右大将政所下文」という表記が続くのが、第一期(表中1~5)です。これは当時、頼朝の称号が前右近衛大将(前任の右近衛大将〔通称、右大将〕の意)であったことによります。 それでは第一期から第二期(表中6~21)に移りかわる原因は何なのでしょうか。これは、頼朝たちがきまぐれに書式を変更したわけではありません。第一期と二期の境目にあたる1192年6月~8月ごろに何があったか―それこそがまさに、頼朝の征夷大将軍就任なのです。 1192年7月12日、朝廷は、征夷大将軍に頼朝を任じる正式決定をします。その命令が鎌倉に届けられたのが、7月26日。そし
リリース、障害情報などのサービスのお知らせ
最新の人気エントリーの配信
処理を実行中です
j次のブックマーク
k前のブックマーク
lあとで読む
eコメント一覧を開く
oページを開く