1905年(明治38年)近江商人の士官学校と言われた滋賀県県立商業学校(現・滋賀県立八幡商業高等学校)を軸とする英語教師として赴任。ここで、多くの近江商人を目指す若き青年たちと出会うことになる。ところが課外に自主的に開催していたバイブルクラスに生徒たちが多く集うようになったことが、仏教の色濃いこの地域と宗教的な対立を生むことになった。これが原因で2年後の契約更改時に教師の職を解かれることになってしまう。 だが、ここで話は終わることはなく、彼と近江商人の卵たちとの熱き「絆」は、彼を生涯近江八幡の地に留めることになった。