武王(ぶおう、拼音: Wǔ Wáng)は、周朝の創始者。殷を滅ぼし、周を立てた(殷周革命)。文王の次男。 同母兄に伯邑考、同母弟に管叔鮮・周公旦・蔡叔度・霍叔処・康叔封らがいる。子は成王・唐叔虞[1](晋の開祖)・邘叔・應叔・韓叔[2]ら。 経歴[編集] 周王朝創立まで[編集] 父の西伯・昌が死んだあと文王と諡し[3]、呂尚(太公望)や周公旦を左右に父の事業の継承に励んだ。 殷の紂王は暴虐な振る舞いが多く、これを討つために兵を挙げて盟津まで兵を進めた。武王は文王の木主(位牌)を戦車に載せ、自らを太子発と呼び、この遠征が父の意思によるものであると宣言した。この時、周軍に瑞兆がいくつも現れ、諸侯が武王の元に馳せ参じ、その数は800に達した。これを見た諸侯達は「今こそ殷を倒す時です」と意気込んだが、武王は時期尚早と見て兵を引き上げた。 2年後、紂王の暴虐はますます酷くなったので再び兵を挙げた。こ
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