肥前はなぜ長崎と佐賀に別れたのか。 調べていく内に「佐賀は凄い!」と思い書くことにした。 これは謎でも何でもなく、明治政府の政治的決断であった。 明治になると廃藩置県というのが行なわれた。 地方統治を中央管下の府と県に一元化した行政改革である。 最初明治政府は肥前国は全体で一県が妥当と判断したらしい。 県になると、県庁所在地を決めなくてはならない。 県庁がどこに置かれるかが、その後の発展に大きくかかってくる。 長崎は天領であり、国際貿易の拠点となる。 政府は当然、長崎に県庁を置くだろうと佐賀県民は考えた。 その事に大いに反発した。 佐賀県は由緒ある国だった。 『肥前国風土記』に伝えられる、楠の木が生え盛るこの地を指して日本武尊が言った「栄の国」に由来する。(古名の佐嘉という名前に由来する説もある) 佐賀県の江戸時代には佐賀藩と唐津藩に別れていた。 佐賀藩は、勇猛な龍造寺氏の支配が続いたが、