言わないと私の精神状態が危機に陥るので。 猫猫塾に来た男子。某私大を出てかなりいい大学の院に入ったという子で、論文も活字にしている。先日、夏目漱石から話が正岡子規になって、俳句の歴史を訊いたら、何も知らなかった。俳諧連歌の発句が独立したということさえ知らず、私が連歌以来の歴史を説明して、菟玖波集は日本古典文学大系にも入っている、と言ったら、日本古典文学大系を知らなかった。そのくせ、子規の「俳諧大要」なんかは読んでいるらしい。 別に某私大だからというのではない。近代日本文学を専攻していて、古典について何も知らないという学生が増えている。それで大学院まで行ったりする。これは教員が悪い。「日本文学史」の授業で、自分の専門だけ教えていたりする。これは、教員自身も無能で知らなかったりするからである。 デリダやフーコーは読んでいるが古典文学について何も知らない(レトリックではなくて本当に)というのが、
母親の肺に影が見つかり、癌(がん)を告知され、その最期を看取るまでの一年間の出来事を静かな筆致で描いた私小説である。 すべてが初めてのことばかりで戸惑う主人公と病院側との行き違い、治療を巡るやりとりなどが季節を追って克明に書かれ、ときおり差しこまれる回想によって父親との確執を中心とした家族史が編み込まれてゆく。 いわゆる「闘病小説」であるにもかかわらず、この小説は「わかりやすく泣かせる」結構をもたない。例えば主人公が泣くのは母親が癌かも知れないと言葉で知った冒頭あたり――つまり生命力を湛(たた)えた、まだこちら側の人間である母親に対してのものであり、癌が進行するにつれ、どんどん死者に近づいていってしまう母親を直視することはもちろん、涙を流すことすらも難しくなってしまう。そのあたりの心情の吐露は描写というよりはもはや記録に近く、風景も感情も事実もすべてを並列に扱おうとする小説全体を覆うような
坂本満津夫の『私小説の「嘘」を読む』があまりに奇書だったのでアマゾンレビューを書いておいたが、一つ書き落とした。坂本は花袋の『田舎教師』がモデル小説であることに気づいていないのだが、主人公が中学校卒で小学校教師になっているのを「当時既に師範学校はあったし代用教員であろうか」(大意)などと書いているのだが、そもそも当時、夏目漱石のように、帝国大学を出て中学校教師になるのが異例だったし、松岡譲なんか東大卒で小学校の教師になろうとして驚かれている。まあ今でも東大卒の小学校教師というのはあまりいないだろう。 - http://blogs.yahoo.co.jp/cavallino_f105c/6139010.html 俺も段林とか井原誠也とかに被害に遭ってるからなー。なぜかどっちも大阪の弁護士だ。
住所が分からないので勤務先へ送っておいたからまだ見ていないかもしれないので公開書簡にしてしまう。 拝啓 ようやく暑さも和らぎ始めたようですが、いかがお過ごしでしょうか。 さて、平川祐弘先生より、先生の書かれた『へるん』の文章の複写を送ってこられました。いくつか、事実誤認がありますので、拙著二冊とともにお手紙さしあげます。 たとえば、私がまるで昭和天皇の戦争責任を追及しているようにお考えのようですが、そうではありません。私は身分制に反対なだけです。また平川先生を「天皇崇拝家」と「非難」はしていません。平川先生は、近著『日本語は滅びるのか』を見れば分かる通り、森有正のようにフランス文化に心酔してフランスに居ついてしまった人はバカにするのに、ハーンは礼讃するのですから、明らかにウルトラ民族主義者です。平川先生は、アーサー・ウェイリーの『源氏物語』英訳が出たことで、チェンバレンの名声が地に落ちた、
私が本を手にするのは、八割方は調べるためで、当該個所を見たら終わりである。あと必要に応じて引く。 そうでなくて「読む」場合、古典的な作品は一応読む。50pくらい読んでも全然面白くなかったら放り出す。 最近の本で何か賞をとったというようなものの場合、重要なのは内容であり、小説の場合は文章も加わる。評論であれば、内容をまず確認する。一応最初の1ページくらいは読む。面白そうなら続ける。面白くなさそうだったら、ぱっぱっぱとページをめくり、やっぱり面白くなさそうだったら放り出す。 小説の場合、映画化されていることがあるから、もし映画を先に観ていたら、文章を確認するだけだ。1ページくらいはちゃんと読む。あとは筋を確認するため飛ばし読みである。ここは重要そうだと思ったらそこだけちゃんと読んだりもする。 もし、飛ばし読みした後で、誰かが何かを言うのを聞いて、おや見落としたかなと思うことがあったら、またそこ
http://www.pipeclub-jpn.org/column/column_01_detail_75.html 久しぶりのパイプクラブ寄稿。連載であります。 - シナ文学者・九大名誉教授の合山究は、『紅楼夢』の主人公賈宝玉は性同一性障害ではないかという説を立てている(『東方』2009)。しかしひとつ抜けているのは、もしそうだとしても、同性愛の性同一性障害、つまり心は女で女を愛するのではないかという考察であろう。 - (活字化のため削除) - 例のバカな編集者くんは福岡伸一の『できそこないの男たち』の担当もしているらしいのだが、こういうタイトル。要するに生物は元はメスでそれがオスになるってだけの話を、こういう奇抜なタイトルにして人目を引こうとするわけ。げんなりする。同じ新書でも宮下さんのウォーホルなんかまともなタイトルなんだがね。で、俺の本も危うく変なタイトルで出されるところだったわ
金×淳×も、『ユリイカ』などに著書の広告が出てはや二年。今私たちの興味関心は、これが三周年を迎えるか、どうかである。 私は三十歳の頃から、周囲の人たちを、編集者に紹介して著書を出させようとしてきた。今思えば、親切なようで、恩に着せようとしていたのだろう。だが、うまくいかないことのほうが多く、うまく行ったのは、既に著書を出している人の例であった。 さる英文学者が、今はなきカッパブックスで、シェイクスピアのソネッツに関する本を書きたいなどと言っていて唖然としたことがある。まあそれはそれとして、初めて本を出す時は、一冊分原稿を揃えて売り込まなければまず問題にならない。金×のようなのは、上×千×子だか誰だか知らないが、よほどの大物が押し込んだ結果としか思えないのである。その上×が、90年代初めに、日本で初めて男性同性愛について博士論文を「書いた」と言って興奮していたように記憶する古××は、実際は博
数年前から、文筆家も確定申告で消費税を支払うことになった。それが、二年後の支払いで、収入が一千万を超えた場合に支払うというのである。それで、なんで二年後なのかなあとぼんやり思ってはいたが、税金のことは考えたくないので放っておいた。それで私は二年前には一千万を超えたが去年は超えなかった。しかし二年前が基準なので払わないといけないというので、税務署員(個人課税課)に、なんで二年後なんだ、と問うたら、こいつがまったく要領を得ない。いっぺん、電話を切って誰かに訊いてからかけ直してきたのに、さっぱり分からない。最初は「法で決まっている」と言うから、「だからなぜ二年後なのか」。ついで「いちがついっぴにはまだ分からないわけですよね」「それなら三月の確定申告の時には分かるじゃないか」の繰り返し。ひたすら「立法の趣旨」とか言うだけで、お前は頭が悪いのかと怒鳴りつけた。 たとえば、こんなのもある。 http:
はい、東さん、三島由紀夫賞受賞だそうで、おめでとうございます。あれは面白い小説でした。 「任期付き」といっても人気があるようなので更新されるのでしょう。30代で早大教授。なに、東大でなくてもいいではありませんか。 何も一回りも年下の人相手に勝ったの負けたのやらなくてもいいようなものですが、私なんぞ小説を書いても芥川賞も三島賞も候補にすらならないし、もう教授になる見込みなんかないんだから、もうこれは負けた、でしょう。 いくらデリダやポストモダンが学問的詐欺でも、東が留学もしたことがなくても、人気のある者が勝ちなのであります。まあ東さんは東大学術博士(しかも私と同じ超域文化科学)だから文句ありませんが、もう今や、漫画やアニメ評論をやっていれば、大学院なんか行ってなくても大学教授になれるご時世です。何? 大学にこだわるお前は権威主義だ? 冗談言っちゃいけません。給料がもらえるほうがいいに決まって
http://d.hatena.ne.jp/maonima/20100102/1262442473 早稲田を出たから早稲田的というわけではない。加藤典洋や柴田元幸、庄司薫なんか東大卒でも早稲田的だ。 アーウィン・ショーの「夏服を着た女たち」なんか早稲田的だな。 村上春樹がもちろん今では最も早稲田的。『東京人』や『本の雑誌』は早稲田的。坪内祐三。武藤康史は慶應だが早稲田的。俵万智。古くは尾崎士郎、五木寛之。平田オリザはICUだが早稲田的。呉智英さんもああ見えて早稲田的。平岡正明。四方田犬彦もちょっと早稲田的。立松和平。 ヘミングウェイも早稲田的。フィッツジェラルド。ドス=パソスは違う。野崎歓は東大准教授でも早稲田的。直木賞は早稲田的。高橋源一郎。ジャズ。ウィスキー。山口瞳。山田風太郎。 大塚さんが誤解しているようだが、別に嫌なものと限ったわけではない。しかも早稲田的なものは嫌われているのでは
水月昭道君の『アカデミア・サバイバル』は、大学院生ならたいてい心得ていることしか書いてないのだが、逆に、どうしても納得のいかない個所もある。その最たるものが、学会の懇親会で、偉い先生に論文をおねだりする、というところだ。(172p) 専門とか、大学のレベルとかによって違いがあるのかもしれないが、まず学会の懇親会へ行くべきだというのは正しい。しかし、「大先生」が一人でぽつんと立っているなどということは、まずない。たいてい取り巻かれているか、若くてきれいな女性学者をつかまえて話している。 仮にアプローチができ、名刺を渡せたとして、さてその院生はその先生の著書を読んでいるのだろうか。むろん世の中には、著書もないが権力はある、という先生はいる。しかし「論文、欲しいんです」ってそれはどういうことか。院生はその先生の論文を読んだことがあるのか。だいいち今日び、論文など国会図書館から取り寄せられる。かつ
芥川賞・直木賞の贈呈式に行ってきた。他の文学賞は割とほいほい招待状が来るのだが、これだけは今回が初めてで、それはたぶん北村さんが招待者に入れてくれたからで、たぶん今後このような機会があるとは思われないので話の種に。 えらく来賓が多いのは当然として妙にビジネスマン風の人が多く、出版業界の重役さんかなあと思っていたら、磯崎憲一郎の会社から80人来ているというので驚いた。エリート会社員というのはそんなに多くの人とつきあいがあるのか。 前方左手には「磯崎家」「北村家」と書かれたテーブルがあって、まるで披露宴のようだ。モブ・ノリオの時は「モブ家」だったのだろうか。だいたい北村さんって本名じゃないし。 そこで見るとどうやら磯崎父らしき老人がいて、磯崎新ではなかった。しかし65年生まれの長男の父にしては70代後半に見えた。 選考委員の挨拶は黒井千次と北方謙三。黒井は自分も会社員作家だったから、もし五年後
『ノルウェイの森』がベストセラーになったから自分は攻撃されるようになったと村上春樹が言っていると目にしたような気がするが、まあそれはそうだろう。『失楽園』がベストセラーになってから、渡辺淳一をバカにしてもいいという空気が醸成されて、渡辺がエロティックな小説を出して売れるたんびにそれが増幅されていく。 『失楽園』は私は少ししか読んでいないし、あとのは全然読んでいない。もちろん渡辺にはそれ以前に伝記小説のいいものなどたくさんあるが、『野わき』などから、中年男と若い女の性愛を描く傾向はあった。だから『野わき』当時渡辺を批判していた人はいいのだが、もはや現在、これほど「渡辺淳一はバカにしてもいい」という空気が支配している中でせっせと渡辺淳一をバカにしようとするのは、ある種の愚かさなのである。 それは『失楽園』やら『愛の流刑地』がいいかどうかとは関係なく、「××をバカにしてもいい」という空気が充満し
今日で前期が終りである。東大を雇い止めになって、家にこもって書いているだけでは精神衛生上良くないということ(と小遣い稼ぎ)で始めた塾で、いろいろ大変なこともあったが、妻が万事やってくれたので助かった。 - アマゾンのレビューで、私が低い点をつけるとたいていコメントをするキチガイがいる。「あ」とか名乗っているが、見ると「syama0811」というやつらしく、ヤフーの知恵袋でもキチガイぶりを発揮している。これが盛岡の野田鍼灸治療院のアドレスと一致しているのは偶然なのだろうか。 - 「とっぽい」という言葉の意味を私は以前誤解していて、「素人っぽい」の略だと思っていたら、十年ほど前に「気障な、気取った」という意味だと分かった。 ところが、いったい世間ではその意味で流通しているのかどうか、疑わしい。加藤典洋が、柳美里の『石に泳ぐ魚』を論じた文章で、「自覚の弱さ、鈍感さ、いわば『トッポさ』」と書いてい
猫間中納言の姫君が何か書いて消してしまったが、 私は自分の書いたものを誰でも読んでいる、などとは思っていない。しかし、たとえば私に、単行本執筆とか連載とかの仕事を頼んできた人が、私に「××」という著書があることを知らなかったりしたら、それはちょっとむっとする権利はある。 以前、前野みち子さんという名古屋大の先生の『恋愛結婚の成立』が面白かったので、手紙を書くかしたのだが、前野さんは私の名前も知らなかった。まあちょっと苦笑したが、比較文学会員とはいえ、駒場とは関係ないし、西洋研究ひとすじの人だし、そういうのは別にいい。 しかしデビッド・ノッターのごとく、私の著述のごく一部だけ読んで「混乱している」などと言ったらそりゃあ抗議してしかるべきだし、実際ノッターは以後何の返事もよこさない。 それから前に若林幹夫という人が、漱石に関する本を送ってきたのだが、中には私の論考などひとつも参照されていなくて
『びんぼう自慢』といえば古今亭志ん生の自伝である。「不幸自慢」というのもあって、割とたしなめられたりするが、私は不幸自慢が好きである。それから無知自慢というのが私には顕著らしくて、なに太田光って誰とか、レム・コールハースだのメビウスだの知らないと言って、騒ぐ人がいるのを見るのが楽しいのである。なに、今どき調べればすぐ分かるのだが、わざと言うのである。建築とかSFには興味がないのである。 『中公新書の森』で武藤康史氏が上笙一郎の『満蒙開拓青少年義勇軍』を挙げて、「あの人物は生きていたのか! と終章近くでびっくりしたことが忘れられない。耳もとでシンバルが鳴った気がした」と書いていたから、だれだれ、と図書館で見てきたら、加藤完治とかいう天皇制農本主義の人が1967年まで生きていたということらしいが、そんな人知らない。 武藤さんからは、『俳句』という雑誌に89年から、池田弥三郎の息子の池田光が「父
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