まえから かこうと おもって かいていなかったのが、「社会的排除」とは どういうことかということです。何度も このブログで社会的排除を 批判してきたのですが、ちゃんと説明していなかった。 岩田正美(いわた・まさみ)『社会的排除─参加の欠如・不確かな帰属』有斐閣(ゆうひかく) いい本です。おすすめします。 岩田さんは「まず、社会的排除という言葉は、それが行われることが普通であるとか望ましいと考えられるような社会の諸活動への参加の「欠如」を、ストレートに表現したもの」としています(22ページ)。具体的には、つぎのように「空間的排除」と制度からの排除/制度による排除を あげています(28-32ページ)。 その一つは空間的な側面である。すなわち、社会的排除は、しばしば特定の集団を特定の場所から排除し、その結果排除される人々が特定の場所に集められる。また、その結果として、特定の場所それ自体が、排除さ
はてなグループの終了日を2020年1月31日(金)に決定しました 以下のエントリの通り、今年末を目処にはてなグループを終了予定である旨をお知らせしておりました。 2019年末を目処に、はてなグループの提供を終了する予定です - はてなグループ日記 このたび、正式に終了日を決定いたしましたので、以下の通りご確認ください。 終了日: 2020年1月31日(金) エクスポート希望申請期限:2020年1月31日(金) 終了日以降は、はてなグループの閲覧および投稿は行えません。日記のエクスポートが必要な方は以下の記事にしたがって手続きをしてください。 はてなグループに投稿された日記データのエクスポートについて - はてなグループ日記 ご利用のみなさまにはご迷惑をおかけいたしますが、どうぞよろしくお願いいたします。 2020-06-25 追記 はてなグループ日記のエクスポートデータは2020年2月28
【1976年1月14日】 ・ですから、規律的メカニズム体系が私たちの自由を奪うという事態に対し、つまり科学的知と結びついた権力の台頭に対して、私たちが持っている一見堅固な唯一の拠りどころとは、まさに主権をめぐって組織されたあの旧い原理につながる法に訴えること、法への回帰であるというような状況に私たちは現在置かれているのです。じっさい規律実践や規律実践に結びついた知と権力のすべての効果に対し、私たちが何らかの反対を唱えたいとき、私たちは具体的に何をするでしょうか。ひとは実際に人生において何をするでしょうか。司法官組合やその他の同様の団体はどうするでしょうか。まさしく、ほかでもないあの形式的でブルジョワ的な方散る、じっさいは主権法である法律に訴える以外何ができるでしょうか。私は思うのですが、ひとはこのような首をしめられる袋小路にいて無限定にこうしたことを続けていくことはできないのです。規律に対
1954年11月1日未明に突如としてアルジェリア各地で起こった武装反乱は、フランス政府やアルジェリア総督府から「少数のテロリスト」またはひとにぎりの「暴徒」の仕業と決めつけられたけれども、これも一世紀以上の抵抗の伝統をひきつぐものだった。そしてやがてこの「テロリスト」ないし「暴徒」は、民族解放戦線(FLN)という政治組織と、軍事組織(ALN)を持ち、広汎な住民の支持を得ていることが、徐々に判明していったのである。 武装ゲリラたちは、人民の大海にかくまわれ守られて、フランスに抵抗した。これに対してフランスは現地の軍隊を増強して徹底的な弾圧を行ない、不審な者と見れば片っ端からとらえて拷問を加え、自白を強要した。*1 フランツ・ファノン。西インド諸島マルチニック島に生まれ、フランスで精神医学を学んだ彼は、精神科医として赴任したアルジェリアで、革命に身を投じ、FLNのリーダーの一人となった。植民地
登校拒否解放の(不)可能性 前編の最後を、僕は次のように結びました。 登校拒否は病気だ。登校拒否は暴力を生む。登校拒否はひきこもりにつながる。登校拒否は不自由だ。そして、そのようなものとしての登校拒否を肯定するのだ…。 これに対して、Mallkuさんからコメントがつけられました。Mallkuさんいわく、 そんなに大げさなもんかなあ。たかが学校に行かなかったぐらいで、あとは普通の人間やんか。時々メンヘルになったりするのも「普通」の範畴だと思うけどね。 彼はさらに続けます。 ひきこもり、メンヘル一般はその辺で不登校と関係なく普通に起こっている出来事。「登校拒否=ひきこもり、メンヘルです、異常です」というのは、実態と異なるんではないか。 まあそれと、卑近だけどぼくを持ち出して「ひきこもり、メンヘル」というのは、いつそうなるかわからないけど現状としてはなんか違うじゃない。「=」が成り立つケースはい
責任という虚構 作者: 小坂井敏晶出版社/メーカー: 東京大学出版会発売日: 2008/08/01メディア: 単行本購入: 2人 クリック: 234回この商品を含むブログ (32件) を見る 『責任という虚構』(小坂井敏晶 2008年東京大学出版会) 人間は主体的存在であり、自分のことは自分で決めて行動する。また自分で考えて自分で行動するからこそ、自分がやってしまったことについては自分で責任をとらないといけない。自分で責任をとってやっていかいないといけない。まぁ、それが一般に近代的な人間像であり、障害者の自立生活運動でもよしとされる人間像だ。障害者が自分で決めないと、自分で考えろよ、自分で決めてくれよ、とまわりからつっこまれることも、しばしば見かける光景だ。 ある人から聞いた話では、先日とある由緒ある障害者団体の総会で、70年代から自立生活をしているが結局「自己決定が何だかわからない」、と
数ヶ月前に松本智津夫さんのお子さんの一人の「未成年後見人」になった江川紹子さんが、辞任することを希望されているそうです。江川さんのサイトには、「未成年後見人の辞任について」と題された文章が掲載されていて、そこにはマスコミ向けに発表された文書も含まれています。 http://www.egawashoko.com/c006/000237.html 全国の難しいお子さんを抱える親の皆さんの中には、江川さんに羨望の念を抱く人もいるかもしれません。親は辞めれないけど、「未成年後見人」というのはイヤになったら辞めていいんですね。ま、裁判所に辞任を申し立てたということなので、簡単なものではないのかもしれないですが。 僕は、江川さんが件の未成年女性とどのような関係にあったのかということは知りません。また、アカの他人の「後見」などを引き受けることは一生ないだろうと思われる僕は、今回の江川さんの行動を非難する
登校拒否, シリーズ:自由と強制と(無)責任の政治学 逃げ方、避け方、守り方 (id:reponさん) いじめに耐える必要なんか無い。学校なんか行かなくていい。嫌な集団に取り入る必要はない。そんな集団に属さなくても、その子が生きられる集団はいくらでもある。それが、今のその子には見えていないだけなんだ。http://d.hatena.ne.jp/repon/20080407#p1 逃げ上手は生き上手 (小飼弾さん) まずは逃げろ。追っ手の手の届かぬところまで。そして自分を変えろ。強くたくましく。順番を違えてはならない。つらい現実にいても、それに耐えているだけで自分を変える余裕はなくなる。そうしているうちに、逃げる余力さえなくなってしまう。かっこ悪くてもいい。卑怯者でもいい。まずは、逃げろ。http://blog.livedoor.jp/dankogai/archives/51031057.h
子どものころに、何かの科学雑誌で見た近未来都市は、ちょっと角が取れた感じのビルが建ち並び、その間を透明な丸いパイプ状の空中歩道が通っていた。 丸い、流線形をしたものを見ると、そこに未来的な何かを感じてしまうのだが(僕だけ?)、これは一体なぜなのだろうか。 こんな疑問に答えてくれそうな書籍を見つけた。早稲田大学・原克(はら かつみ)教授の書籍『流線形シンドローム―速度と身体の大衆文化誌』だ。 そもそも流線形とは、大辞林によると、「先端が丸く、後端がとがり、全体として細長い形。流れの中に置くと、後方に渦(うず)をつくらず、流体から受ける抵抗が非常に小さい。魚のからだの形がその例」とある。本書によると、こんにちの意味で「流線形」という言葉がはじめて使われたのは1911年。アメリカの科学雑誌の、最新の自動車ボディーを紹介する記事でのことだった。 それ以前は、ものが進むときに最も抵抗が少ないのは、先
表現の自由を脅すもの (角川選書) 作者: ジョナサンローチ,Jonathan Rauch,飯坂良明出版社/メーカー: 角川書店発売日: 1996/09メディア: 単行本 クリック: 59回この商品を含むブログ (22件) を見る 公共的批判の原理 id:takanorikidoから読むようにすすめられた本。現在は絶版のようだけど、図書館で借りましたにゃ。いろいろと興味深かったし、あとあと絡んでくる論点も多そうなので、先に紹介しておきますにゃ。 まず、この書籍で目指されている方向性は、科学における学問共同体をモデルにした公共圏構築なのだと考えられますにゃ。ローチ(筆者)のいう「自由科学の社会、批判的社会」とは「お互いの誤りを探す人々の共同体(P105)」なのですにゃ。 「こうした懐疑論的倫理の台頭とその最後的勝利ということは、一体何がそんなに重要なのであろうか。その答えはこうである。懐疑哲
ハイクにつらつらと書いてるうちに、先日のエントリ(「反日上等」について)では触れていなかったことなども出てきたので、一応貼っておきます。ブックマークコメントやコメントへの応答になる部分もあるかと思いますので、ひとまずこれをもって応答の代わりにしたいと思います*1。 「同胞として受け入れて欲しいだけ」の外国人もいるよ、とか言うけど、本当に日本社会に虐げられ恐怖を抱き、「同胞として受け入れて欲しい」とも言えないまま怒りや戸惑いやつらい歴史を抱えつつ、それでも日本で生活してる外国人がいるわけでしょう。また実際に、明確に「反日」的な暴力行為に及んだ非-日本人もかつていて、そういう人たちのある者は逮捕されて運動体からも追われ、またある者は死刑判決を受けすぐに執行された。外国人の間に「同胞として受け入れて欲しい」だけの人と、そうでない「反日」的な人がいるという見方そのものもかなり怪しいと思うけど、日本
⇒2009.6.5: 日記 佐藤亜紀様 ファトワと自力救済はそれは違います。これは、日本の法の問題です。問題は、ある書物を翻訳した日本の翻訳家がおそらくはそのことを理由として日本国内で殺害され、そしてそれは事件解決へと至らなかったことです。つまり、「ムスリム対ヨーロッパ」の文脈を私は問題にしているのではない。『悪魔の詩』を引き合いに出しておいてそれはないだろう、という指摘は受けます。しかしそもそも強姦ゲームの問題は「排他的な信仰に基礎を置く二つの文化が、相互の不信感と敵意は消え去ることがないとしても、当座は潰し合いに至ることなく休戦状態を保つこと」の問題ではないと私は考えるので、その点について、『悪魔の詩』を引き合いに出したことに対する誤解については、正させてください。 言明する必要があると思うので言明しますが、この問題の筋論については、私は所謂「西」の世界――つまり「自由で寛容な社会」を
藤子F不二雄(ふじこ・えふ・ふじお)のSF短編マンガは、繰り返し同じ世界を描いています。それは「人間」がマイノリティーとなる世界です。それは、いわゆる「ディストピアもの」と言ってもいいでしょう。たとえば、「絶滅の島」という作品(1985年)(注1)では、人類が絶滅の危機に瀕した地球が舞台です。地球は毛むくじゃらの巨大な「宇宙怪物」たちに突如攻撃され、圧倒的な軍事力の差に、地球人はほとんど殺戮されてしまったのです。生き残った主人公の少年は言います。「戦争なんてものじゃなかった 一方的に焼き尽くし、破壊しつくし、殺しつくし……。 人間をまるで雑草か何かのように……。」彼を含む27人は、「秘島ツアー」で孤島にやってきていたため殺戮をまぬがれ、生き残ったわずかな人間です。しかし、その人々も宇宙怪物に見つかってしまい、襲撃を受けます。人々は武器をもって抵抗しますが、次々に捕らえられ、残虐な仕方で殺さ
■なぜレベル0が設定されたのか レベル0に設定した「遷延性意識障害(せんえんせいいしきしょうがい)」。 俗にいう植物状態のことです。 遷延性意識障害 - Wikipedia http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%81%B7%E5%BB%B6%E6%80%A7%E6%84%8F%E8%AD%98%E9%9A%9C%E5%AE%B3 以下抜粋。 日本脳神経外科学会による定義(1976年)。 自力移動が不可能である。 自力摂食が不可能である。 糞・尿失禁がある。 声を出しても意味のある発語が全く不可能である。 簡単な命令には辛うじて応じることも出来るが、ほとんど意思疎通は不可能である。 眼球は動いていても認識することは出来ない。 以上6項目が、治療にもかかわらず3ヶ月以上続いた場合を「植物状態」とみなす。 wikiに書かれている図をみるとくわしいが、植物状態と宣言され
生きている具体的な個人というものは、どんな場合にもある一つのカテゴリーだけにすっぽり収まるものではない。たとえば、川田龍平さんがエイズ患者であるとしても、彼のすべてがそのことに還元されるわけではないし、乙武さんが障害者だとしても彼の存在のすべてがそのことだけで説明されるわけでもない。 だからこそ、彼らがエイズ患者であり、あるいは障害者であったとしても、それとは別に、個人としての彼らを批判すること自体にはなんの問題もない(その内容や方法の是非はともかくとして)。 同様に、ある人が現に「派遣社員」であって、そのことが今の彼にとって非常に重い意味を持っているのだとしても、その人の存在は、そういうカテゴリーだけに収まるものではないだろう。もし、彼が自分で自分をそのように考え、そのように主張しているのだとすれば、それこそがおかしな話である。なぜなら、それは、自分は「派遣社員」であるということを除いて
リリース、障害情報などのサービスのお知らせ
最新の人気エントリーの配信
処理を実行中です
j次のブックマーク
k前のブックマーク
lあとで読む
eコメント一覧を開く
oページを開く