徳島県穴吹町舞中島(現・美馬市)出身[5]。東京帝国大学医科大学卒業後は外科教授であったユリウス・スクリバの勧めで外科医[6]となる。徳島市内の外科病院で5年ほど勤務したのち、ドイツへ留学してブレスラウ大学のミクリッチ(ミクリッツ、Jan Mikulicz-Radecki)に師事し[1]、胆石症の研究を行った[7][8][9][10]。 帰国後、35歳の時に大阪府立医学校(現在の大阪大学)の付属医院外科医長、続いて京都帝国大学、福岡医科大学(現在の九州大学医学部)に赴任した。その後再度ドイツへ留学し、1904年、38歳の時に福岡医科大学教授となった。この翌年の1905年10月には日本で初めて脳腫瘍手術に成功している[11][12]。1910年に九州帝国大学初代外科部長に就任した[1]。 終戦の年の5月に岡山市にいた長男の三宅博の家に身を寄せて疎開したが、岡山大空襲に遭い1945年6月29日