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近現代音楽の嚆矢と目され、いまだに鮮烈な輝きを失わないストラヴィンスキーのバレエ音楽《春の祭典》。この傑作の構造を作曲家の川島素晴氏が分析します。 文・川島素晴(作曲家) リズム法の革命 従来の西洋音楽は、強拍と弱拍の交代で4拍子が形成されるように、循環的なリズムを前提としていました。ムソルグスキーが《展覧会の絵》の冒頭で示した5+6拍子や、チャイコフスキーが《アンダンテ・カンタービレ》で示した拍子の交代は、西洋音楽の伝統でいうなら革命的だったわけですが、彼らはそれを、実に素朴な「うた」として導入しています。ロシアから、リトアニアなどの東欧寄りの旧ソ連に属していた地域では、そのような循環的なリズムを持たない旋律も多く歌われており、自国の音楽に取材した要素を取り入れる国民楽派の系譜に自然に連なるものとして、これらの変拍子の導入はなされました(日本人としては、「あんたがたどこさ」を思い出すと、
この曲は、1909年から1915年にかけて作られた作品です。20代のバルトークが書いたもので、友人のセーケイのヴァイオリンとピアノのための編曲をはじめ、1917年に自身によって小管弦楽のために編曲している他、イ・ムジチ合奏団が演奏している弦楽合奏版やイギリスのオルガニスト、ヘーリックによるオルガン版まであるほどの人気作品です。 六曲の小さな小品の組曲ですが、全曲が民族的な素材(リズムとモード)によっています。モードとは旋法のことで、古い教会旋法と同じものです。もちろん使い方はグレゴリオ聖歌などとは違いますが・・・。 第1曲 棒踊り Danse au bâton 上行と下降で音階が少しだけ異なりますが、基本的にはA音を基音とするドリア旋法と言うべきでしょう。
2014-02-06 聴くことの困難をめぐって 仲山ひふみです。久しぶりにブログを更新します。といっても、すでにあるところで閲覧者を限定して公開したものなのですが、もっと多くの人に読まれるべきだろうという勧めを受けたのでこちらに転載します。 ところで、この記事のタイトルはダブルミーニングになっています。最後まで読めばその意味は察せられるでしょう。 *** 広島出身で聴覚障碍を抱えた独学の作曲家、佐村河内守の作品の作曲を、彼が実質的にデビューしてから現在にいたるまで、ほぼ無名の現代音楽作曲家である新垣隆が代行していたことについて書く。 最初にことわっておくと、僕は佐村河内の音楽を主に『鬼武者』のサントラで聴いて知っているが、別段評価に値するものだとは思っていなかった。それは当時も今も変わらない。こうした日本的情緒を織り込みつつベートーヴェンからストラヴィンスキーまでのクラシック音楽の語彙を
被爆二世、独学で音楽を学んだ全聾の天才作曲家と謳われた佐村河内守氏のほぼ全作品が、実際には桐朋学園大学の講師を勤める現代音楽作曲家・新垣隆氏の手になるものだった、という衝撃的な事件が世間を賑わせている。これに関連して、少し自分の思うところを書いておきたい。 メディアや音楽出版社のあり方、またはポリティカル・コレクトネスについての議論はほかに譲るとして、音楽そのものについての話になる。今回の事件はかなり根源的な問題まで浮き彫りにした、というのがもっぱらの認識のようだ。人は音楽にいったい何を聴き、何を根拠に評価しているのかということ。また純粋に音楽を聴くのはいかに難しいかということ。そんな問題についてだ。ここで私は、純粋に音楽を聴くことなど不可能であるのは当然として、そんなことを目指す必要さえない、という主張を述べたいと思う。 私が初めて佐村河内氏の名前を知ったのは昨年、おそらく例のNHKスペ
「両耳が聞こえない作曲家」として知られている佐村河内守(さむらごうち・まもる)さんの楽曲の「ゴーストライターをしていた」として、大学講師の新垣隆(にいがき・たかし)さんが2月6日、都内のホテルで会見を開いた。会場は100人以上の記者やカメラマンでごった返し、ものすごい熱気。「日本のべートーベン」とまで呼ばれた人物の真相についての関心の高さを伺わせた。
「フーガ」はある規則に従った模倣様式で、一定の形式をもちません。逆にフー ガ様式を様々な音楽形式・様式に持ち込むことができます。すなわちフーガに よるソナタ、フーガによる舞曲などを作ることが可能です。「フーガの技法」の中 にも、フーガ様式とカノン様式の融合が見られます。フーガは2声部以上の多声 部で作曲され、主題はその声部間で相互に模倣されます。 フーガは、「主題」と呼ばれる旋律の模倣によって構成されます。主題の長さや 音域に制限はありませんが、後に述べる応答の導入をスムーズにするため、多 くの主題は主音または属音に始まります。また主題の多くは、いくつかの特徴 的な旋律の組み合わせで構成されています。
私を含め、無理解と勘違いが服を着て(たまに裸かも知れないが)生活しているのが人間なので、人は事実に触れるたびに驚いたり学んだりする。 ここで言う“驚く”とは、事実が予想とは異なっていたことに直面した時の感情である。 作曲家は、多くの場合ピアノが弾ける(形だけでも)ので、大部分の人がピアノ曲を書ける。右手の単旋律に左手の和声伴奏が付けば形の上ではピアノ曲になる。スカスカでも音楽には聴こえる。それを延々30分を要する曲として仕上げても、“長い曲”ではあっても大曲とは言わないだろう(ただし、サティのような特殊な才能があれば、楽譜上はスカスカでも音楽的には緻密なものが書けることは考慮しなければならない)。 曲が長いだけでなく、楽器編成が大きくなれば大曲だろうか。確かに大編成のオーケストラによる長大な作品は無条件に大曲と呼んでしまいそうである。ここでは、その問題について作曲する側からの考察を記す。
前回は少し音楽理論のことに触れましたが、今回はその続きです。 西洋音楽の作曲理論はおおざっぱに言って、和声法、対位法、楽式に分かれます。クラシックの作曲を目指す人は、これを勉強するわけですが、まずは和声法からやって、対位法、楽式に進むといいのかもしれません。でも私が思うに、和声法を2年、対位法を1年、楽式1年を順番にやるよりも、まずはさらっと読めるくらいのテキストを一通り読んでみて、それから深く勉強する方が、音楽を総合的に学び作曲するという点ではよいのかもしれません。 では、最初のテキストとすればどれが良いのかというとこれもまた難しい。最低限の楽譜のルールをまずは覚える必要があって、これには楽典を読むことからはじめないといけません。でもこれを全部やるとかったるいですね。大事な部分は、長三度とか完全5度とか増4度とかいった音程の読み方と、エンハーモニックチェンジとかいった少しテクニカルな部分
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