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ブックマーク / nomura-keiichi.seesaa.net (6)

  • 2009-03-13 私が学んできた曲-番外編-音楽史を学ぶ-02  ロマン派の憂鬱 : 野村茎一作曲工房 音楽コラム

    音楽史は、基的に音楽そのものから考えるべきである。 他の分野にまたがる膨大な資料を詳細に調査することも意味がないとは言えないが、その資料から真実を見いだすのは容易ではなく、音楽史に関する研究書・書物の一部は事実の混乱した羅列に終わっているようにも思える。 ロマン派を理解するキーワードは「芸術至上主義」の一言で足りるだろう。 1.芸術至上主義がもたらしたもの ハイドンは、その迷いのない音楽構築性によって、来ならば古典派形成の功績が讚えられるべき前古典派の作曲家たちの作品を表舞台から駆逐してしまった。そして、そこから真の古典派音楽界が広がろうとした時、モーツァルトが誰にも真似のできないような完成度の作品を書いて、他の作曲家によるハイドン的古典派発展の芽はなくなってしまった。そこへ、間、髪(かん、はつ)を入れず現れたベートーヴェンは形こそハイドン的な部分を持っていたが、彼はそれまで誰も考えた

    ushiwatat
    ushiwatat 2009/09/23
    |ドビュッシーの音楽はショパンの考え方を非常に厳密に受け継いでいるから| この点、ラヴェルは古典主義に近いか?ドビュッシー-ショパン、ラヴェル-モーツァルトという線?
  • 音楽コラム 2009-09-17 多声部を聴き取ると: 野村茎一作曲工房 音楽コラム

    私を含め、無理解と勘違いが服を着て(たまに裸かも知れないが)生活しているのが人間なので、人は事実に触れるたびに驚いたり学んだりする。 ここで言う“驚く”とは、事実が予想とは異なっていたことに直面した時の感情である。 作曲家は、多くの場合ピアノが弾ける(形だけでも)ので、大部分の人がピアノ曲を書ける。右手の単旋律に左手の和声伴奏が付けば形の上ではピアノ曲になる。スカスカでも音楽には聴こえる。それを延々30分を要する曲として仕上げても、“長い曲”ではあっても大曲とは言わないだろう(ただし、サティのような特殊な才能があれば、楽譜上はスカスカでも音楽的には緻密なものが書けることは考慮しなければならない)。 曲が長いだけでなく、楽器編成が大きくなれば大曲だろうか。確かに大編成のオーケストラによる長大な作品は無条件に大曲と呼んでしまいそうである。ここでは、その問題について作曲する側からの考察を記す。

    ushiwatat
    ushiwatat 2009/09/23
    |レッスンをしていて、学習中の誰もがぶつかる難題のひとつが多声部化の壁||ヴォーン=ウィリアムズの第3番がどんなに見事に多声化を実現していたとしても、幻想交響曲以上にファンを集めることはないだろう|
  • 音楽コラム 2009-05-12 注意深く聴くこと その2: 野村茎一作曲工房 音楽コラム

    モーツァルトを聴くと、それだけでIQが上がるという研究がある。「音楽を聴いただけでIQが上がるわけがない」と思われる方もいらっしゃるだろうが、実際には音楽を聴くということは脳を総動員しなければならない行為である。念のために断っておくと、ここで言う「音楽を聴く」とは音楽が流れている空間にいるということではなく、聴く人の脳内で音楽が再構成されて認識されているという状態をさす。 別にモーツァルトでなくともよい、と脳科学者の茂木健一郎さんは仰っている。要するに、単なる空気の振動の中から“音楽”を認識するという行為が重要なのである。 モーツァルトが例に出されたのは、誰にでも分かりやすいからだろう。ところが、このモーツァルトでさえ、当に聴こうとすると大変な集中力が必要となる。 ピアノを習って少し上手になると弾く機会の多いK.545ハ長調ソナタ第1楽章を例にとろう。ドーーミーソー/シードレドー/~とい

    ushiwatat
    ushiwatat 2009/07/12
    モーツァルトの|K.545ハ長調ソナタ第1楽章|の分析。
  • 2009-03-15 私が学んできた曲-番外編-音楽史を学ぶ-04  音楽史から学ぶ<やってこなかった未来>: 野村茎一作曲工房 音楽コラム

    駆け足音楽史も今回で最終回である。バッハ以前の時代に関しては、またいずれ機会をあらためて書きたいと考えている。 ところで、皆さんはドビュッシーをどのように聴かれただろうか。 私が中学生の頃、とある音楽史年表の印象派の欄にドビュッシーとラヴェルが並記されていた。ドビュッシーとラヴェルが同じように聴こえた音楽学者もいたのだろう。ドビュッシーは全く新しい音楽世界を切り拓いたが、ラヴェルは伝統に忠実な新古典主義者だった。ただし、ラヴェルは響きに関して言うならばむしろドビュッシーよりも前衛的であり、両者のスタンスが大きく異なるためにラヴェルとドビュッシーを同じカテゴリーで語るには無理がある。2人の有名な弦楽四重奏曲の第1楽章のスコアを見比べただけでも、その違いに驚くことだろう。ドビュッシーが新しい弦楽四重奏曲を生み出そうとしているのに対し、ラヴェルは主題労作をして綿密な部分動機作法によってベートーヴ

    ushiwatat
    ushiwatat 2009/07/05
    |無調以外の作曲家は「時代遅れ」であるとされ(“調性の後進性”について、おそらく誰も根拠を示せないことだろう)、音楽(芸術)において最も重要な“精神性の高さ”と“表現手段の先進性”がすり替わって|
  • 2009-03-14 私が学んできた曲-番外編-音楽史を学ぶ-03  近代の音楽 作曲家たちはドビュッシーをどのように聴いたか : 野村茎一作曲工房 音楽コラム

    1862年、ロマン派の閉塞感を一気に打ち破る感性を持った作曲家、ドビュッシーが誕生した。過去と断絶したかのように見える作風だったが、非常に重要な部分だけは何一つ欠けることなく持っていた。彼はショパンと同等の、完璧と言い得(う)る“ペリオーデ”に対する鋭い感覚を持っており、また、ピアノに関しては“ビロード・タッチ”と呼ばれる「ハンマーを意識させない」ほどの音色を持っていた。 ピエール・ブーレーズは、現代音楽の始まりを「牧神の午後への前奏曲」から、と述べているが、私も同じ考えである。とくに「牧神」冒頭のフルートがcisから始まっていることが象徴的である。なぜなら、正しく整音されたピアノで静かに打鍵すると、牧神冒頭のcis(エンハーモニックではdes)は一種独特な音がすることに気づくかも知れない。フルートでもcisは全てのカップを開放するので、他の音とは異なる音色となる。これは、ストラヴィンスキ

    ushiwatat
    ushiwatat 2009/07/05
    |フルートでもcisは全てのカップを開放するので、他の音とは異なる音色となる。これは、ストラヴィンスキーが「春の祭典」の冒頭にファゴットの通常音域外の高いcのロングトーンで始めたこととも通ずる|
  • 2009-03-12 私が学んできた曲-番外編-音楽史を学ぶ-01   古典派の果たした役割: 野村茎一作曲工房 音楽コラム

    音楽大学で音楽史を学んだからといって、人前で音楽史について語れるとは限らない。それは、高校で世界史や物理の単位を取得したからといって、それらをマスターしたわけではないのと似ている。 そこで一念発起して音楽史を学ぼうと志を立て関連書物をひも解いても、いまいち身体に染み込んでこない。というようなことを経験したかたもあることだろう。そんな時に役立つ音楽史理解のヒントを数回に分けて不定期連載したいと考えているが、気まぐれな性格ゆえ、次回がいつになるか当てにならないので気長にお待ちいただければ幸いである。なお、私とは意見を異にする音楽史家の方も少なくないと思われるので、他の音楽史も併読することをお薦めします。 初回は古典派の理解である。 西洋音楽歴史を通じて、古典派ほど特異で、かつ影響力の強い時代はなかったと言える。それは次の4点に集約される。 1.演奏形態の規格化 2.楽式の規格化 3.音楽の前

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