ベルリオーズ:幻想交響曲、序曲「ベンヴェヌート・チェッリーニ」、序曲「ローマの謝肉祭」 アラン・ロンバール指揮ストラスブールpo. Erato R25E-1028 私の育った西の辺境では、「もみ上げ」のことを「鬢」といっていた。多くの人がそれは古語と認識するはずの「鬢」。しかし私の故郷では一般語として通用する。多分今でも。理髪店でもみ上げなしを「ノービン」という。間違いなく「No 鬢」であろう。2012年の今ではオードリー春日のみに残るテクノカットが流行った20年前、理髪店に行くと「ノービンにしますか?」と必ず聞かれていたものである。地元の人は接続詞「けん」や逆説の「ばってん」、形容詞の語尾「~か」、目的の助動詞「ば」、そして主語の「の」はどうやら方言らしいと知っているが、「鬢」が方言であるとは思っていない。 方言というものは、都の流行り言葉が伝播して辺境の土地に残ったものが多い、というの
ファウストの劫罰(ベルリオーズ) La damnation de Faust (Berlioz) 作品紹介(ファウストの劫罰) 「キリストの幼時」が、ベルリオーズらしからぬ穏やかで慈愛に溢れた作品であるなら、この「ファウストの劫罰」は、めっちゃベルリオーズらしい、彼ならではの狂気に満ち満ちた作品です。「幻想交響曲」と同じ、彼の天才と狂気が炸裂した傑作。 この曲もキリストの幼時同様「劇的物語」と名付けられていて、オペラではありませんので通常は演奏会形式で上演されます。しかし時々オペラ形式で上演されることもあり、確かにオペラ化しないのはもったいない作品です。 原作はゲーテの「ファウスト」なので、グノーのオペラ「ファウスト」とほぼ同様のストーリーです。原作は長大な物語ですが、取り上げたのはグノーもベルリオーズも同じ「グレートヒェン悲話」の部分。 ただ、自由人のベルリオーズですから、勝手にいろいろ
パリ音楽院管弦楽団(パリおんがくいんかんげんがくだん、Orchestre de la Société des Concerts du Conservatoire、直訳すると「(パリ)音楽院演奏会協会管弦楽団」)は、1828年にパリに設立されたオーケストラ。パリ音楽院の楽友協会によって運営され、パリ音楽院の教授や卒業生をメンバーとして19世紀から20世紀前半まで、フランス楽壇の中心的位置を占めてきた。1967年に解散し、今日のパリ管弦楽団へと改組された。この際に団員の2/3が去っており、楽団のカラーもアンサンブル重視の近代的なものに一変したため、アメリカのNBC交響楽団などと並び「今は存在しない名オーケストラ」の代表として語られることが多い。 フランスとドイツの血を引く初代首席指揮者フランソワ=アントワーヌ・アブネックはベートーヴェンをレパートリーの中心に据え、1828年の設立後、1832年
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新・ベルリオーズ入門講座 第8講 キリストの幼時 (1854) “モーツァルトがいなかったら、何の躊躇もなく言おう。これこそこの世におけるたった一つの宝石であると。” ベルリオーズの諸作品中でも、際立って異彩を放つ作品である。データ欄を読む限りでは、ごく普通の(むしろやや大掛かりな)編成に見えるが、実は、金管と打楽器は、ほとんど沈黙を守っているのである。響きも古雅を極め、「なるほど、ベルリオーズといえども、他の(ほとんどあらゆる)作曲家たちと同様に『晩年形式』に傾斜するものであるのだなぁ」などと感心すると、莫迦を見る。 バロック風に響くのも当然。これは、悪意に満ちた偏見と先入観に基づく酷評に悩まされたベルリオーズが、ひとつ先入観の無い批評を聞いてやろうじゃないかと、自分の名を伏せ、「パリの宮廷礼拝堂の楽長であったピエール・デュクレが1679年に作曲した、古風なオラトリオの断章」として発表し
なんという、素直で伸びやかな楽想か! 幻想交響曲の固定観念の、屈折した、まとまりのない旋律線(それがあの曲のダイナミズムの源泉ではあるが)とは比較にならない。特に6小節目に付せられたII7の和音が、甘酸っぱい、青春の追憶を呼び起こす。このII7の和音の用法は、メンデルスゾーン(この時期に、ベルリオーズと交友関係(と言っても、こと対ベルリオーズに限って言えば、相当裏表があった人物の様ではあるが、まぁいい[;^J^])を結んでいる)の「春の歌」の、あの懐かしい感傷を想い起こさせる。 第1楽章では、序奏部でこの主題が呈示/確保されたのち、ソナタ形式による活気のある主部に移る。風景の描写というよりは、幸福感を表現している。第2楽章は、巡礼の行進曲。和声とリズムに関する、革新的とは言わないまでも、確かに新しい感覚がある。第3楽章は、ひなびたセレナード。第4楽章は、ベルリオーズが生涯を通じて得意とした
私を含め、無理解と勘違いが服を着て(たまに裸かも知れないが)生活しているのが人間なので、人は事実に触れるたびに驚いたり学んだりする。 ここで言う“驚く”とは、事実が予想とは異なっていたことに直面した時の感情である。 作曲家は、多くの場合ピアノが弾ける(形だけでも)ので、大部分の人がピアノ曲を書ける。右手の単旋律に左手の和声伴奏が付けば形の上ではピアノ曲になる。スカスカでも音楽には聴こえる。それを延々30分を要する曲として仕上げても、“長い曲”ではあっても大曲とは言わないだろう(ただし、サティのような特殊な才能があれば、楽譜上はスカスカでも音楽的には緻密なものが書けることは考慮しなければならない)。 曲が長いだけでなく、楽器編成が大きくなれば大曲だろうか。確かに大編成のオーケストラによる長大な作品は無条件に大曲と呼んでしまいそうである。ここでは、その問題について作曲する側からの考察を記す。
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