http://anond.hatelabo.jp/20070304023650 匿名ダイアリーのエントリ(通称「増田」)。なかなか良いこと言うなあと思った。エントリの書き手も芥川も。 空も水も木もただそこにあるだけで何ら意味はない。しかし、人間は空や水や木に物語性を見出すことができる。あの空は自分たちのためにある、あの水は自分たちのためにある、と。旧約聖書を読むと、預言者たちの物語性への強い意志を感じる。例えばイザヤ書(id:ryoto:20080101#p1)。自分の身の回りに起こる出来事を神の意志によって起こったものだとして意味づけ物語(story)としてしまう。 しかし、一方で、そのような物語性を解いていくような思想もある。大乗仏教の仏教者たちはそのような物語性をできるだけ解くように思考する。例えば道元の「畢竟如何」。「結局これが何だというのだ」という問いである。そしてこの問いは「結
蒸し暑くくけだるく怠惰な昼寝の季節なので、コンビニのとろろ蕎麦を食った後、ぼんやりうとうとしていると、趙州とおぼしき老師が夢にやって来た。こりゃまずい。禅をなさず居眠りという時にやって来るとは。しかし、これも大悟の好機かもしれぬ。ここは教えを請うフリでもしていようと、小風、乍入電妄、乞う老師、指示せよ。老師いわく、喫薯蕷蕎麦、了や未だしや。小風いわく、了。州、老師いわく、簡便鉢盂を洗い不燃物とせよ。 目覚める。変わらないな、趙州禅師。無門関第七則、趙州洗鉢の現代版か。と、プラスチックゴミを簡単に洗って、不燃物ゴミとする。スタバのマイカップではないが、コンビニ用マイ弁当箱であれば、まさに鉢盂を洗い去れといったところだろう。 それから趙州洗鉢について少し考え込んだ。現代風に言えば、修行僧が趙州に教えを請うたところ、師は飯を食ったら茶碗を洗っておけ、ということ。無門関(参照)としてはここに禅の悟
リリース、障害情報などのサービスのお知らせ
最新の人気エントリーの配信
処理を実行中です
j次のブックマーク
k前のブックマーク
lあとで読む
eコメント一覧を開く
oページを開く