野口 尚一(のぐち ひさかず、1888年(明治21年)12月23日 - 1986年(昭和61年)9月27日)は、日本の機構学者。東京帝国大学教授、工学院大学初代学長。日本機械学会、日本クレーン協会の各会長。『穀粒層を通過する気流に関する研究』で工学博士(東京帝大)[1]。 東京に生まれる。父野口坤之の長男であり、会津会会員である。一高[2]を経て東京帝大に進み、1912年(明治45年)に機械工学科を卒業した[3]。鉄道院技手を経て母校に戻り1917年(大正6年)助教授に就任。1937年(昭和12年)に教授、1949年(昭和24年)に名誉教授となる。この間特許局技師を兼ねる[4]。同年工学院教授となり[5]、同校の新制大学移行に伴い初代学長となる[6]。1971年(昭和46年)まで在任し、この間に学科の拡充や大学院設置を進めた。学外では第24代日本機械学会会長[7]、日本クレーン協会会長を務
豊田佐吉は、1906(明治39)年に「環状織機」を発明し、翌1907年に特許を取得した。次いで、1924(大正13)年には「環状織機の綜絖装置」「環状織機の杼推進装置」「環状織機の織布巻取装置」を発明し、翌年それぞれについて特許が与えられた。通常の織機は、杼が往復運動してよこ糸を入れるのに対し、環状織機は杼の円運動によってよこ糸を入れるため、エネルギー損失が少なく、作動による騒音の発生を低く抑えることができた。 それと同じ発想から、1914年には蒸気機関のピストン往復運動を円運動に改良した「環状単流原動機」を発明し、特許を取得した。さらに、これを改良した「環状原動機」を1917年に、「環状単流原動機」を1920年に発明し、特許を得ている。1佐吉は、往復運動よりも円運動のほうがエネルギー効率が良いと考え、「元来、現在往復運動に據るものよりは、循環運動に據るものこそ私どもの理想とする織機であら
独自理論のニューラルネットワークAIを組み込んだ3D格闘ゲーム『NekoFight』について語る金子さん(2009年の第参回天下一カウボーイ大会より) インタビューの後編は、平木敬教授と、同じく金子勇さんと親交の深かった稲葉真理准教授を交えてお届けする。金子さんが取り組んでいたニューラルネットワークのアルゴリズムは、NekoFight(物理演算とAIを組み込んだ3D格闘ゲーム)の対戦相手に組み込んでテストされていたほか、ある別のレースゲームにも組み込まれ、着実に成果をあげ始めていた。 金子さんにとってWinnyに代表されるP2Pネットワーク構築はすでに“終わった話”で、興味の中心はニューラルネットワークに移っていたと稲葉准教授は言う。 金子さんのものづくりのスタイルと、独自の発想がどういう方法論から生まれてくるものだったのかをお二人の言葉から探る。 (前編の記事はこちらから読めます) ■「
エンジン設計のキーポイント探究 Piston Reciprocating Gasoline Engine 〔改訂版〕 平成13年 (2001) 6月1日発行 非売品 この本編は、岡本さんが生前に執筆された遺作で、非売品で出版されたものです。あまりにも内容が興味深いものですので、ご本人にはお断りしていませんが、掲載させて頂くことにしました。 文章に関しては殆どアップロードしましたが、表・図などはホームページ用としてまだ作成していませんし、細かい箇所のチェックが行き届いておりませんので、完全なものではありません。また読みやすいような工夫がなされておりませんので、読みづらいと思いますが悪しからず・・・・時間がとれたら手を加えていきます。 ご意見ご感想がありましたらメール下さい。 岡本さんのご冥福をお祈り申し上げます。 戸島 敏明
星型5気筒エンジンの試運転の様子です。
(2015/09/01追記:この記事は私がW社に在籍した2013年4月から2014年4月までの間の個人的な経験に基づくものです。就職の参考にされる方は、その後W社の社風や開発者の扱いに変化があったかどうか等についてご自身で最新の情報を得ていただければと思います。) (2019/08/17追記:社名を「W社」に置換しました。) 記事タイトルの通り、W社を退職したので、退職エントリを書く。 (最近雑文に対していろいろと予防線を張ることが流行っているらしいので、一応これもポエムだと書いておく。役に立つことは書いていない) 今日が最終出社日だった。 ちょうど 1 年ぐらい勤めたことになる。 2 社連続で 1 年で辞めたことで、自分が社会不適合者であることが誰の目にも明らかになってしまった。 これから先の人生の見通しは暗い。 その間に子供が生まれたのだが、不憫でたまらない。 いい話というのは、Goo
ドイツの高級車メーカー、ポルシェ(Porsche)の創業者フェルディナント・ポルシェ (Ferdinand Porsche)氏の故郷、チェコのブラティスラビツェ(Vratislavice)の生家にある記念碑(2014年2月27日撮影)。(c)AFP/MICHAL CIZEK 【4月1日 AFP】ドイツの高級車メーカー、ポルシェ(Porsche)の名は長い間、スポーツカー愛好家を熱狂させてきた。しかし創業者フェルディナント・ポルシェ (Ferdinand Porsche)氏がナチ(Nazi)党員だった過去をめぐり、同氏の故郷であるチェコの町では論争が起きている。 チェコのブラティスラビツェ(Vratislavice)は2010年、ポルシェ氏の記念施設を開設した。100万ドル規模をかけて造られた超近代的な建物は町役場に隣接。ドイツに本社があるポルシェも、創業者の技術的才能を知らしめる展示を支援
桜井 眞一郎(さくらい しんいちろう、1929年4月3日 - 2011年1月17日[2])は日本の自動車技術者。株式会社エス・アンド・エス エンジニアリング取締役会長。日本自動車殿堂入り、オーテックジャパン初代代表取締役。神奈川県出身。戸籍上の氏名は、櫻井 眞一郎。 旧プリンス自動車工業時代より日産自動車時代に渡るまでスカイラインの開発に携わる。2代目の途中[1]からは開発責任者(主管)として7代目の開発終盤まで長期間携わっていたことから、「GT-Rの生みの親」「ミスタースカイライン」「スカイラインの父」として知られている。 清水建設に勤務していた時代に「日本で初めてバッチャープラントとコンクリートミキサー車(生コン車)を開発した」と伝えられるが、これについては異論も出されている[3]。 以下、参考文献は「出典」欄に示す[4][5][6][1]。それぞれを照らし合わせ、微修正した。一次資料
開発主査(チーフ・エンジニア)とは トヨタ自動車の開発主査は、自動車産業の研究者により重量級の開発主査と呼ばれている。 開発主査は通常技術系の部長経験者から選ばれる。レクサス/セルシオの開発には3700人のエンジニアが携わり、これを束ねるのが開発主査の仕事である。 これらの人びとを遅滞なく動かして成功に導く義務を負っている。 つまり、車体を構成する多くの設計部門、デザイン部門、性能の試験評価部門、生産技術部門、販売部門などと接点を持ちながら、これらのチームをまとめつつ1台の車を作りだしていくのが要求される職能である。 開発主査は直属の部下を5、6人しか持たず、なんら人事権なしに職務を遂行しなければならない。 したがって、開発主査には強いリーダシップが要求される。 つまり、“責任だけ持たされる苦労の多い職責”ということにになる。 でも開発した車には主査のパーソナリティが投影した何かがあると
Dr. Zyun Koana Special Exhibition, The University of Tokyo 朱夏の夏は2009年夏の夏。 いまは伝説となった展覧会が、東京は駒場で開催された。 特別展「小穴純とレンズの世界」展。 会場は、東京大学大学院総合文化研究科・教養学部駒場博物館。 会期は、2009年7月18日から9月23日。 工業用ニッコールレンズ研究家の秋山満夫にとっては衝撃の展覧会だつた。 2009年6月下旬、展覧会の開催を知った私は東大駒場博物館に、 レンズコレクションの提供も含めて何かお手伝いできることはないかと申し出た。 東京大学大学院総合文化研究科広域科学専攻相関基礎科学系 の准教授・岡本拓司先生から丁寧な返信が届いた。 展示品については、 すでに膨大な小穴純コレクションからセレクトし構成済みであるとのことで 辞退したいとのお話であったたが、 続
広島県福山市出身[2][3]。小学生からカメラを分解し組み立てるというカメラ少年で、これが病みつきになり福山中学(現・福山誠之館高校)を学業半ばにして上京[4]。 機械知識を生かして光学精密機械の輸入商社に出入りしたのが切っ掛けで映画の世界に入り、映写機関係の仕事に身を託した[4]。この期の技術習得が実を結び、昭和の初めには映写機の修理、改良の域を脱し、製作にも手を伸ばしていた[2]。日本初の本格的なトーキー映画といわれる『マダムと女房』(1931年)で使われた土橋式の録音機は土橋武夫・土橋晴夫兄弟の製作した物であるが、再生機は吉田が中国の上海で買って来た物が使われたという[3]。 この時期の映写機は全て外国製であったため、製品の買い付けや部品調達に上海に何度も足を運ぶ[4]。その折、アメリカ商人から「お前の国には素晴らしい軍艦がある。あれだけの軍艦をつくるんだったら、この機械だってつくれ
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