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ブックマーク / chnpk.hatenablog.com (2)

  • 「しつけ」について - よそ行きの妄想

    先日の記事の補足として。 愛があればラブイズオッケーか まず最初に言っておきたいのは、赤ん坊や子供がグズったときのあの不快感について。 子供は昼夜を問わずあるとき突然グズり出す。原因はなにかあるのだろう。眠いときが多いような気がするが、腹が減ったとき、のどが渇いたときなどいろいろあるのだろう。「だろう」と言うのは、赤ん坊の場合、当然すべての不快感を泣き声としてアウトプットするから、聞いてるこちらとしては、その泣き声がどの不快感に紐づいているのかは皆目わからないからだ。さらに言えば、おそらくグズっている当人自身も、なにが不快感の源泉なのかを把握してはいないだろう。泣き叫ぶ子供のオムツを替えてやり、ミルクを与え、抱きかかえ、あやし、思いつく限りのあらゆる対処を施しても一向に泣き止まないことはざらにある。子供は、私の献身的な態度に何かを感じることもなく、ただひたすらに泣き、喚き、ときに罵ってくる

    「しつけ」について - よそ行きの妄想
    wstd_d
    wstd_d 2009/05/06
    しつけと所謂「虐待」の明確な違い、それは親が行為にどれだけ自覚的であるか、の一点に尽きる。裏を返せば、自覚的な親の軽い体罰のようなものはスキンシップだし、無自覚な親の(言葉の)侮辱は暴力(低温火傷を想起)
  • 親になるとはどういうことか - よそ行きの妄想

    4年前に子供ができてから結構ずっと考えてることなのだが、親になるとはいったいどういうことなのだろうか。(注:オチなし) タイトルは問題提起としては抽象的過ぎるので、以下の3つに分ける。 親としての権利とはなにか 親としての義務とはなにか 親と子のコミュニケーションにおけるメディアはなにか 親としての権利とはなにか いくら親と言えど、子供を「熱湯を入れたベビーバスに1分ほど入れ、両足に重症のやけどを負わせ」る権利などないことは、少し考えれば誰にでもわかるだろうが、一方で「悪いことをしたらケツを叩く(又はご飯抜き)」などの勝手ルールの1つや2つはどこの家庭にもあり、社会的にも許容されているように思う。 これらはいずれも子供に対する権力及び暴力の行使に他ならないわけだが、何が違うかと言えば、前者が親の遊び半分であることに対して、後者は子供が悪いことをしたためであり、子供のためを思った”しつけ”*

    親になるとはどういうことか - よそ行きの妄想
    wstd_d
    wstd_d 2009/04/30
    子供には年相応の(許)容量があって、容量以上の何かを注ぎ込もうと工夫しても無駄な気が。その時々の容量を親が見極めて、適量までスムーズに注ぐのが理想かと。所謂「中二」を過ぎたらガチンコでもOKだと思うけど
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