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  • 古代ロマンと江戸の面影が残る伊勢本街道の宿場町、榛原・萩原宿~おすすめ散歩スポット - 大和徒然草子

    奈良県内には古代からの街道沿いに発展した宿場町が数多くあります。 今回紹介する宇陀市中心街の萩原宿もそういった町のひとつです。 場所はこちら。 大和高原南部に位置し、宇陀市の中心市街となっている場所です。 大阪と伊勢を結んだ伊勢街道沿いには、往時を偲ばせる町並みが今も残り、散歩にぴったりの町でした。 街道の交差点・萩原 新町界隈 墨坂神社 榛原空襲戦跡 札の辻 上町~墨坂伝承地 東町~金平稲荷神社 椋下神社~庚申堂の辻 参考文献 街道の交差点・萩原 さて、萩原宿は町村合併で宇陀市となった旧榛原町の中心市街でした。 榛原という地名がこの地に名付けられたのは明治になってからで、1889(明治22)年に町村制が施行されたとき、萩原村、福地村など12村が合併して村名を榛原村(はいばらむら)としたことが始まりです。 「榛原」の名は、『日書紀』に記された神武天皇が天地の神霊を祭ったとされる上小野榛

    古代ロマンと江戸の面影が残る伊勢本街道の宿場町、榛原・萩原宿~おすすめ散歩スポット - 大和徒然草子
    yamatkohriyaman
    yamatkohriyaman 2023/11/17
    現在宇陀市の中心市街で奈良県東部山間地域の玄関口になっている近鉄榛原駅の周辺は江戸時代に伊勢本街道の宿場町・萩原宿として繁栄しました。その跡を紹介します。
  • 筒井氏の近世大名化と中世大和の終焉~大和武士の興亡(18) - 大和徒然草子

    1559(永禄2)年以来続いた松永久秀と筒井順慶の大和を巡る抗争は、1577(天正5)年10月、久秀が信貴山城で滅亡して終結。 大和で順慶に従わない有力勢力は、箸尾為綱と吉野の願寺勢力くらいとなり、順慶は大和で比肩するもののない絶対的な実力者となりました。 織田政権の外様大名となった順慶は、松永氏滅亡後の大和でその支配権を伸ばし、順慶を通じて中世的封建支配は解体され、大和は格的な近世を迎えることになります。 筒井氏の近世大名化 能寺の変 順慶の死 参考文献 筒井氏の近世大名化 1577(天正5)年10月に信貴山城で松永久秀が滅亡すると、順慶は直ちに松永方国人の掃討に動きます。 信貴山城陥落から2週間後の同年10月24日、順慶は箸尾氏一族の箸尾唐院(現川西町の国人領主)を自害に追い込み、中和の有力勢力だった箸尾為綱への圧迫を強め、翌1578(天正6)年正月に為綱は順慶に屈服しました。

    筒井氏の近世大名化と中世大和の終焉~大和武士の興亡(18) - 大和徒然草子
    yamatkohriyaman
    yamatkohriyaman 2023/10/27
    松永氏の滅亡後、筒井順慶は織田氏、羽柴氏の傘下大名として近世大名化し、興福寺を中心とした中世大和は終焉を迎えます。
  • 思ってたんと違う(16)~1964年阪神対南海の関西ダービーは閑古鳥が鳴いていた!? - 大和徒然草子

    2023(令和5)年のプロ野球は、セリーグは阪神タイガースが18年ぶりのリーグ優勝を果たし、パリーグはオリックスバファローズが3連覇。 ともにクライマックスシリーズを制し、日シリーズはセパの関西勢同士が相まみえる2回目の関西ダービーとなりました。 前回、日シリーズで関西ダービーとなったのは1964(昭和39)年。 阪神タイガースと南海ホークスのマッチアップで、親会社のターミナル駅が梅田、難波だったことから、両駅を南北に結ぶ大阪のメインストリートに因んで「御堂筋シリーズ」とも呼ばれました。 史上初の関西勢同士の対決であり、さぞや盛り上がったのかと思いきや、実に意外なことに観客動員の面で史上最低の日シリーズだったのです。 日シリーズ観客数ワーストを記録した甲子園 閑古鳥の甲子園 阪神対オリックスは伝統の一戦!? 参考資料 日シリーズ観客数ワーストを記録した甲子園 1964年の日シリ

    思ってたんと違う(16)~1964年阪神対南海の関西ダービーは閑古鳥が鳴いていた!? - 大和徒然草子
    yamatkohriyaman
    yamatkohriyaman 2023/10/22
    59年ぶりに日本シリーズで関西ダービーが実現。関西では大きな盛り上がりを見せていますが、59年前の阪神、南海の日本シリーズは集客面で苦戦し甲子園での最終戦は日本シリーズで観客数ワーストを記録してしまいます
  • 筒井順慶の大和制覇~大和武士の興亡(17) - 大和徒然草子

    1559(永禄2)年に始まる三好氏重臣・松永久秀による大和侵攻で、父・順昭の代に大和を統一した筒井氏を率いる筒井順慶は城・筒井城を奪われて劣勢を強いられました。 1564(永禄7)年、三好長慶の死によって三好家中に内訌が発生すると、順慶は三好三人衆と組んで勢力を挽回。久秀を多聞山城に追い込み、筒井城を奪回します。 ところが1568(永禄11)年9月に織田信長が足利義昭を奉じて上洛を果たすと、かねてより義昭、信長と誼を通じていた久秀が再び勢力を盛り返して三好三人衆は阿波へ逃亡。 信長によって義昭への帰参を認められなかった順慶は、信長の援軍を受ける久秀によって再び筒井城を奪われ、東山中へと逼塞を余儀なくされました。 そして同年10月、三好三人衆と阿波三好氏に擁立されていた14代将軍・足利義栄が逃亡先の阿波で死去すると、信長や久秀、河内守護の畠山秋高によって擁立された義昭が15代将軍となったの

    筒井順慶の大和制覇~大和武士の興亡(17) - 大和徒然草子
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    yamatkohriyaman 2023/10/13
    1571年の辰市城の戦いで筒井順慶は松永久秀を独力で撃破し、その実力を信長に認められます。その後順慶は信長と婚姻を結び大和守護に抜擢される一方、冷遇された久秀は乾坤一擲で信貴山城に籠城することになります。
  • 筒井順慶、松永久秀の激闘~大和武士の興亡(16) - 大和徒然草子

    1559(永禄2)年8月、将軍・足利義輝をも凌駕する権勢を誇った三好長慶は、河内守護・畠山高政と安見宗房の対立による河内国内の内訌に介入。守護・高政方に付いて、安見宗房を大和へ駆逐しました。 さらに安見宗房追討を名目として、長慶は重臣・松永久秀を大和へ派遣し、宗房と同盟関係にあった筒井氏とその傘下国人たちへの侵攻を開始します。 その後、近江守護・六角氏と河内守護・畠山氏と対立するようになった三好氏は、南北から両氏の攻撃を受けて一時苦境に陥りますが、1562(永禄5)年の教興寺の戦いに大勝利して河内を支配下に収め、一時的に揺らいだ大和の支配も回復。 筒井党の主要国人であった井戸氏や、古くからの有力国人・十市氏が相次いで松永久秀に屈服し、少年大名の筒井順慶(当時・藤勝)は東山中の椿尾上城から国中(くんなか・現奈良県平野部)に戻れず、ゲリラ戦を展開するほかない状況でした。 窮地の筒井氏に1563

    筒井順慶、松永久秀の激闘~大和武士の興亡(16) - 大和徒然草子
    yamatkohriyaman
    yamatkohriyaman 2023/10/06
    筒井順慶と松永久秀の大和国内における激闘を畿内の戦国史とともに紹介する記事。戦国大和の戦況に大きな影響を与えたのが織田信長による上洛作戦でした。
  • 松永久秀の大和乱入~大和武士の興亡(15) - 大和徒然草子

    1550(天文19)年6月、大和一国を武略で平定した筒井順昭は28歳の若さで病死し、2歳の遺児・順慶が一門・家臣に支えられる形で筒井氏当主となります。 畿内では前年に筒井氏と友好関係にある三好長慶が、元の主である細川晴元と足利義晴、義輝父子を京都から追い出し、細川氏綱を細川京兆家当主と仰ぐ三好政権を樹立して、近江に逃れた晴元、足利将軍と対峙していました。 大和と関係の深い畠山氏が拠る河内では、実権を握る守護代・遊佐長教と守護・畠山政国が江口の戦い後に対立が起こり、政国は紀伊国宮原(現和歌山県有田市)へ逼塞。長教が事実上の河内国主となります。 筒井氏は当主が幼年ながら、周囲を友好勢力に囲まれていたこともあって大きな外冦の脅威はなく、1546(天文15)年に順昭が越智氏を降してからは平穏な時期に入っていました。 しかし、その平穏も1551(天文20)年から勃発する河内・畠山家中の内訌により打ち

    松永久秀の大和乱入~大和武士の興亡(15) - 大和徒然草子
    yamatkohriyaman
    yamatkohriyaman 2023/09/22
    筒井順昭亡きあとも幼主順慶を一門、家臣が支えていましたが畠山氏の内訌に巻き込まれそこに介入した三好氏の進攻を受けることになります。
  • 戦国大和の覇者・筒井順昭~大和武士の興亡(14) - 大和徒然草子

    畠山総州家の守護代から身を興し、河内大和を支配して畿内屈指の実力者に成長した木沢長政は、将軍・足利義晴擁立を目論み細川晴元に反逆しましたが畿内で孤立。1542(天文11)年3月、政敵・三好長慶に太平寺の戦いで敗れ、敢え無い最期を遂げました。 長政死後、同年12月には、細川晴元と細川京兆家当主を争って敗れた細川高国の養子で喜連城(現大阪市平野区)主だった細川氏綱(高国の従兄弟・細川尹賢の子)が旧高国派の勢力を糾合して挙兵。摂津、和泉、山城では細川氏の家臣団が晴元派と氏綱派に分かれ、再び細川京兆家当主の座を巡って争いが勃発するのです。 如願寺(境内は喜連城の主郭想定地) 一方、大和では木沢長政による支配がその死によって一瞬で瓦解し、長政と同盟を結んでじわじわと勢力を広げていた筒井順昭と、長政の侵攻に対抗して領土を広げていた十市遠忠が当時の大和国人衆の中では一歩抜きんでた状態となっていました。

    戦国大和の覇者・筒井順昭~大和武士の興亡(14) - 大和徒然草子
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    yamatkohriyaman 2023/09/08
    木沢長政が三好長慶との戦いに敗死した後、変わって大和の支配者となったのが筒井順昭。箸尾、十市、越智ら並みいる有力国人を武略で瞬く間に平定しました。しかし平定からわずか4年で28歳で病死します。
  • 木沢長政の大和侵攻と歌人大名・十市遠忠の奮戦~大和武士の興亡(13) - 大和徒然草子

    1531(享禄4)年に細川晴元は細川高国を敗死させ、細川京兆家の家督争い(両細川の乱)に勝利しました。 しかしその後、晴元がそれまで擁立していた堺公方・足利義維を切り捨て、12代将軍・足利義晴と和睦する方針を打ち出したことから、堺幕府内は和睦に反対する三好元長、畠山義堯と、元長の追い落としと画策する木沢長政、三好政長とで深刻な対立が発生。 1532(享禄5)年5月にはついに軍事衝突に至り、木沢長政は旧主・畠山義堯と三好元長、筒井順興に居城・飯盛山城を包囲され絶体絶命となります。 長政から救援要請を受けた細川晴元は、自分の意向に従わない三好元長と畠山義堯の討伐を決め、法華宗信者であった三好元長と深刻な対立を抱えていた山科願寺門主・証如に元長討伐を依頼しました。 飯盛山城における戦いは、来武家同士の争いでしたが、証如は「法華宗との最終決戦」と位置付けて畿内各地で一揆軍の蜂起と参集を呼びかけ

    木沢長政の大和侵攻と歌人大名・十市遠忠の奮戦~大和武士の興亡(13) - 大和徒然草子
    yamatkohriyaman
    yamatkohriyaman 2023/09/01
    木沢長政の大和進攻とそれに完全と立ち向かった十市遠忠。十市遠忠は多くの歌を残しているのでその心情に迫ることの出来る数少ない戦国武将です。
  • 柳本賢治の大和侵攻と天文一揆~大和武士の興亡(12) - 大和徒然草子

    1507(永正4)年の細川政元暗殺(永正の錯乱)から始まる細川京兆家家督を巡る争いで、ライバルの細川澄元を阿波へ撃退した細川高国は、10代将軍・足利義稙をも京から追い出して新将軍・足利義晴を擁立するなど、20年にわたって京都で政権を握りました。 しかし、家中の内紛から1527(大永7)年に高国政権は内部から崩れ、阿波に逼塞していた細川澄元遺児・晴元と三好元長が桂川原の戦いで将軍・義晴と高国を撃破すると、義晴、高国は近江へ逃亡。 高国政権は崩壊して晴元方が京都の支配権を握り優勢となります。 高国政権崩壊により高国の意向で結ばれた筒井氏と越智氏の同盟はほころびを見せ、1529(享禄元)年に筒井順興は領土的野心から河内の畠山稙長と結んで越智領へ侵攻。 再び筒井と越智の抗争が再燃しました。 柳賢治の大和侵攻 梟雄・木沢長政の登場 天文の大和一向一揆 参考文献 柳賢治の大和侵攻 桂川原の戦いで将

    柳本賢治の大和侵攻と天文一揆~大和武士の興亡(12) - 大和徒然草子
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    yamatkohriyaman 2023/08/25
    大和に新たな侵略者として柳本賢治が登場しますが畿内での戦いに破れてまもなく退場。新たなトリックスターとして木沢長政が頭角を現します。奈良では天文の一向一揆が勃発して再び大和国人は団結しました。
  • 大和国人一揆崩壊と薬師寺炎上~大和武士の興亡(11) - 大和徒然草子

    細川京兆家の家督を巡る細川高国と細川澄元の戦いは、1520(永正17)年5月の等持院の戦いで大きな区切りを迎えます。 この合戦で澄元方の主力を担った重臣・三好之長が敗死し、同年6月、澄元は再上洛を果たせぬまま失意のうちに阿波勝瑞城で失意のうちに病死。 三好之長、細川澄元の死で、畿内における細川高国の優位が確定しました。 河内では高国に与する尾州家・畠山稙長の優勢となり、大和では細川高国、畠山稙長の強い働きかけによって筒井順興と越智家頼が和睦。 翌1521(大永元)年に順興は越智氏の娘をに迎えて、再び大和国人一揆の体制が固まりました。 細川高国のもと畿内の情勢は安定化するかに見えましたが、1520(永正17)年の三好之長による畿内侵攻の際、細川澄元方へ鞍替えを図った将軍・足利義稙と細川高国の関係は修復不能なレベルまで悪化。 1521(大永元)年3月、足利義稙が追放同然に堺へ出奔すると、細川

    大和国人一揆崩壊と薬師寺炎上~大和武士の興亡(11) - 大和徒然草子
    yamatkohriyaman
    yamatkohriyaman 2023/08/18
    16世紀に入り筒井氏を戦国大名化させた筒井順興、そしてもっとも有名な大和国人である柳生氏が史料上姿を現します。再び筒井と越智の抗争が再燃する中、薬師寺は戦火に巻き込まれ白鳳時代から残る西塔が炎上します。
  • 細川京兆家の分裂と大和国人一揆の終焉~大和武士の興亡(9) - 大和徒然草子

    大和国内は南北朝の動乱以降、国人同士の争いが絶えず、領土の奪い合いは日常茶飯事でした。 しかし、支配地の移動はあくまで興福寺・春日大社の衆徒・国民間の中だけに限られてきました。 しかし1497(明応6)年、畠山尚順は敵対する畠山義豊に与した大和国人・万歳氏、布施氏の領地を攻め取ると、闕所となった両氏の所領を配下に与え、他国衆による大和への侵略は、興福寺と大和国人たちに大きな衝撃を与えます。 そして1499(明応8)年に始まる細川政元被官・赤沢朝経による大和侵攻を目前にして、ついに南北朝時代以来の宿敵同士である筒井氏、越智氏が同盟。 赤沢朝経に与した古市氏を除くほぼすべての大和国人が一揆を結んで他国衆に対抗します。 大和国人一揆は団結して赤沢朝経率いる京衆に立ち向かいましたが、2度に渡る侵攻は京衆の勝利に終わり、1506(永正3)年に国中(くんなか=奈良盆地)一帯は赤沢朝経の支配下に入りまし

    細川京兆家の分裂と大和国人一揆の終焉~大和武士の興亡(9) - 大和徒然草子
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    yamatkohriyaman 2023/08/04
    応仁の乱以来鉄の結束を誇った細川氏は政元の後継問題を切っ掛けとしてついに分裂。畠山氏家督を争う尾州家総州家の和睦も破談して大和国人一揆も崩壊。再び大和では畿内の情勢に連動した国人同士の抗争が活発化する
  • 大和国人一揆・赤沢朝経の猛威~大和武士の興亡(8) - 大和徒然草子

    応仁の乱以前から長らく続いた細川氏ー畠山尾州家ー筒井氏という同盟関係は、1493(明応2)年に勃発した明応の政変で細川政元が尾州家の畠山政長を切り捨て、総州家の義豊と連携したために完全に崩壊しました。 東軍勝利で終わった応仁の乱の結果とは裏腹に、河内、大和で旧東軍勢を駆逐した総州家と大和の越智家栄、古市澄胤は、明応の政変によって幕府との連携を深め、全盛期を迎えます。 しかし、その後河内では総州家内部の家臣同士の争いが起こり、大和では越智氏と古市氏の関係が次第に険悪化。 こうした総州家の綻びを見逃さず、1497(明応6)年に明応の政変で没落後に紀伊で反撃の機会をうかがっていた政長遺児の畠山尚順(尾州家)がついに挙兵し、河内へと進撃を開始します。 尚順の挙兵に呼応して、大和でも筒井氏が挙兵すると、叔父・成身院順盛の補佐を受けた若き当主・筒井順賢は、不和で連携の取れない越智家栄、古市澄胤らを打ち

    大和国人一揆・赤沢朝経の猛威~大和武士の興亡(8) - 大和徒然草子
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    yamatkohriyaman 2023/07/28
    信濃出身で細川政元配下の猛将赤沢朝経は勢力を盛り返した畠山尾州家勢力を討つべく京衆を率いて大和へ南下。大和は初めて本格的な他国勢力による侵攻を受ける事になりました。
  • 思ってたんと違う(15)奈良県を襲った空襲~奈良も戦災は免れなかった!? - 大和徒然草子

    奈良市戦災概況図~一部抜粋(国立公文書館蔵) 太平洋戦争末期、日全国の都市は米軍の激しい空襲に晒され、陸海軍基地や工場だけでなく多くの民家が焼かれ、銃後の人々が戦災で命を失いました。 そんな中、戦後「京都と奈良は空襲を受けなかった」という言説が、まことしやかに語られるようになりました。 曰く、京都と奈良は世界的に貴重な文化財があったため、米軍が爆撃を避けたのだと。 しかし、この言説は全くの神話にすぎません。 米軍はイタリアで、西欧文明の至宝が集まるローマを容赦なく爆撃しており、なじみの薄い日文化財消失に拘泥するなど到底考えられないことです。 米軍が京都、奈良に大規模空襲を掛けなかった原因は、単に重要な軍事施設がほとんどなかったことと、京都に関しては原爆投下の有力候補であったため、広島同様、市街地を焼き払うような爆撃が避けられたという説に説得力があるように思います。 実際に奈良県では1

    思ってたんと違う(15)奈良県を襲った空襲~奈良も戦災は免れなかった!? - 大和徒然草子
    yamatkohriyaman
    yamatkohriyaman 2023/07/24
    奈良は文化財が多いので空襲を免れたという神話がまことしやかに語られてきましたが、実際には焼夷弾の投下も含め多くの空襲を受けました。奈良の空襲の実態と被害を紹介します。
  • 明応の政変と越智氏の没落~大和武士の興亡(7) - 大和徒然草子

    1477(文明9)年に応仁の乱は東軍勝利で終結したものの、その原因となった畠山義就と畠山政長による畠山氏の家督争いは終わることなく続きました。 河内と大和を実力で切り取った義就は南山城にも進出。 山城守護にあった政長との間で、南山城は激しい係争地となりました。 こうした中、他国衆に荒らされた南山城の久世、綴喜、相楽三郡の国人たちは1485(文明17)年に国一揆を結成し、守護である両畠山氏を実力で追い出し、国人の合議制による惣国を建設します(山城国一揆)。 畠山氏の内訌は引き続き残ったものの、大規模な戦いは沈静化し、ようやく応仁の乱以来の畿内の戦乱は沈静化しました。 大和では西軍の越智氏、古市氏が東軍の筒井氏、十市氏を駆逐し、筒井氏当主の筒井順尊は、大和への帰国が叶わないまま1489(長享3)年7月京都で客死します。 1489~91年にかけては将軍・足利義尚、大御所・足利義政、そして足利義視

    明応の政変と越智氏の没落~大和武士の興亡(7) - 大和徒然草子
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    yamatkohriyaman 2023/07/21
    明応の政変で細川政元による前代未聞の将軍すげ替えが発生。大和国人も否応なしに畿内の混乱の中に巻き込まれていきます。
  • 丹波市界隈・天理市中心街を歩く~上街道散歩(3) - 大和徒然草子

    奈良県天理市というと、市内中央部に天理教の施設が集中する宗教都市のイメージが今ではすっかり定着していますね。 天理市は現在全国で唯一、特定の宗教法人の名称を冠する市ですが、1954(昭和29)年に奈良県で4番目に市制を施行した時、市名の由来について選定理由書には全国的に有名な天理教の中心地であるとともに「関係町村相携えて街を天下の理想郷たらしめるべく」とあります。 ところで現在の天理市中心部は、町村合併で市制施行されるまでは、丹波市町という名前でした。 丹波市は上街道沿いの古い歴史を持つ町で、実は現在も江戸時代以前の古い町並みが残されている地域です。 上街道沿いに続く丹波市の町とはどんな場所か、天理市中心街を散歩してきましたのでご紹介します。 山辺郡の中心地・丹波市 丹波市の町並み 北ノ町~中島町 町 仲之町 市座神社 天理駅前~天理通 天理教部 参考文献 上街道の散策スポット 山辺

    丹波市界隈・天理市中心街を歩く~上街道散歩(3) - 大和徒然草子
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    yamatkohriyaman 2023/07/14
    現在の天理市中心部のルーツは上街道沿いに発展した宿場町である丹波市。中世以来の町場は近世伊勢藤堂家の宿駅として整備され発展しました。永久寺との意外な繋がりなど独特な歴史を持つ町です。
  • 歴史・地域情報の紹介ブログ記事作成でおすすめ便利サイト - 大和徒然草子

    奈良県内を中心に地域の歴史や現在の情報を中心に発信してきた当ブログですが、お陰様で2023年7月9日で4周年を迎えました。 当ブログの記事は、実際に現地を足を運んで取材して書くことも多いですが、資料や絵図などを調べたり、集めたりすることも大変多いです。 今回は、筆者が記事作成するうえで利用している、おすすめの調べものや引用に便利なサイトをご紹介します。 国立国会図書館デジタルコレクション 国土地理院HP・地理院地図 奈良県立図書情報館・まほろばデジタルライブラリー 奈良盆地歴史地理データベース・小字データベース さいごに 国立国会図書館デジタルコレクション 国立国会図書館で保存・収取しているデジタル化された資料を検索・閲覧できるサービスです。 もはやこのサイトなしには記事が書けないというくらい利用させてもらっているサイト。 ネット上の情報には多種多様な情報があふれていますが、出所が不明だっ

    歴史・地域情報の紹介ブログ記事作成でおすすめ便利サイト - 大和徒然草子
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    yamatkohriyaman 2023/07/09
    お陰様でブログ開設から4年経ちました。今回は地域情報や歴史ブログを作成するのに便利なサイトをご紹介します。
  • 筒井党の没落と山城国一揆~大和武士の興亡(6) - 大和徒然草子

    1477(文明9)年11月、大内政弘他、土岐成頼ら西軍諸将は東軍・幕府方へ帰参。 西軍諸将は京都から領国へ兵を引くことで、11年に及んだ大乱・応仁の乱は外形上は東軍勝利でようやく終わりました。 一方、応仁の乱の主たる原因であり、1454(享徳3)年から続く管領家・畠山氏の内訌は終わることを知らず、舞台を京都から河内、南山城そして大和に移して続きます。 京都で東軍優勢のうちに応仁の乱が収束したのに対して、京都を去った西軍・畠山義就は河内、大和で東軍・畠山政長を圧倒。河内、大和の国人たちは義就の支配下にはいりました。 大和では応仁の乱の開戦時から畠山政長を支えた筒井順尊や箸尾為国ら筒井氏を中心とする筒井党の国人たちが、拠を放棄して東山中などへ逃亡し、義就方の越智家栄、古市澄胤ら越智氏を中心とする越智党が大和の国人衆を主導するようになります。 筒井党の没落 山城国一揆 10代将軍・足利義材の誕

    筒井党の没落と山城国一揆~大和武士の興亡(6) - 大和徒然草子
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    yamatkohriyaman 2023/07/07
    #応仁の乱 後もその原因となった畠山氏の内訌は続き戦いが止んだ京都とは対照的に大和と南山城では引き続き戦闘が続きます。旧西軍の畠山義就優勢のなかその戦いを止めたものは意外な勢力でした。詳しくは下記記事で
  • 古市城~風流を愛した国人・古市氏の夢の跡を歩く - 大和徒然草子

    奈良市中心部から南へ3キロ足らずの場所にある古市は、15世紀の応仁の乱前後に最盛期を迎えた大乗院方衆徒・古市氏の拠地です。 その居城であった古市城は中世城郭としては大規模で、応仁の乱の前後で古市氏当主となった古市胤仙とその子である胤栄・澄胤兄弟が当代きっての茶人・文化人だったことから、京都の公家や文化人らを招いて茶会、連歌会が開かれるなど、文化サロンともなった城郭です。 今は、奈良市南郊の田園に囲まれた静かな集落になっている古市城周辺ですが、その歴史と現在の様子を紹介します。 古市氏と古市城 古市城跡 城山 高山 上ノ段(主郭部)~古城(二の郭) 古市の町 参考文献 古市氏と古市城 古市城の場所はこちらで、東大寺前の交差点から真っ直ぐ3キロほど南下したところにあります。 古市は、元々福島市(ふくしまのいち)という興福寺の市場が置かれた場所でした。 鎌倉時代末期の乾元(1302~03年)頃

    古市城~風流を愛した国人・古市氏の夢の跡を歩く - 大和徒然草子
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    yamatkohriyaman 2023/06/30
    古市城は中世国人、古市氏の居城。城跡は団地や小学校になっており遺構は一部の堀切等を除いてほとんど残りませんが地形からかつての壮大な城館を偲ぶことができます。
  • 応仁の乱・激戦地の大和~大和武士の興亡(5) - 大和徒然草子

    1454(享徳3)年以来、管領家・畠山氏の家督を巡る畠山義就と政長の争い収まることなく続き、大和でも義就支持派の越智家栄を中心とする勢力と、政長を擁立支持する筒井氏出身の成身院光宣、筒井順永の一派に分かれて、混乱は深まるばかりでした。 畠山氏の内訌は幕府の主導権を巡る細川勝元と山名宗全の対立と結びつき、1467(文正2)年正月には室町御所を中心に、細川方と山名方の軍勢が睨み合う事態となります。 ここで将軍・足利義政は、畠山氏の内訌に他家の加勢を禁じ、義就軍と政長軍だけで合戦を行わせ、その勝者に家督を認めるという無定見極まりない姿勢を見せました。 細川勝元は将軍の命を守って政長に加勢しない一方、山名宗全は将軍・義政の命を無視して義就に加勢。 御霊合戦は義就が大勝して、宗全が一気に幕政を主導するようになります。 一方、政長を支援していた勝元は、「味方を見殺しにした大将」という不名誉を、宗全の命

    応仁の乱・激戦地の大和~大和武士の興亡(5) - 大和徒然草子
    yamatkohriyaman
    yamatkohriyaman 2023/06/23
    11年にわたり日本全国を巻き込んで続いた応仁の乱。その始まりから顛末を大和の情勢を中心に紹介します。
  • 宇陀松山~旧街道沿いの町並み散歩 - 大和徒然草子

    貴重な歴史的景観を保全するため指定される重要伝統的建造物群保存地区(以後、重伝建地区)。 現在奈良県内では、橿原市の今井町、五條市の五條新町、そして宇陀市松山の3つの地域が指定されています。 実は、県内の重伝建地区で最も指定地域の面積が広いのが宇陀松山。 現在は山間の静かな町ですが、近世以降、宇陀松山は商家町として賑わい、昭和40年代頃まで宇陀地方の中心地として栄えました。 今回は宇陀松山の町の概略と現在の様子をご紹介します。 宇陀松山とは 酒蔵通り 松山通り 上町通り 春日神社 松山西口関門 下町通り 道の駅・宇陀路大宇陀 関連情報 参考文献 宇陀松山とは 宇陀松山の場所はこちら。 近鉄榛原駅からバスで20分ほど、名阪国道針ICから自動車で30分ほどの場所にあります。 宇陀松山は、大阪から伊勢に至る伊勢街道と、和歌山から吉野を経由して伊勢に至る伊勢南街道を結ぶ旧松山街道沿いに発達した商

    宇陀松山~旧街道沿いの町並み散歩 - 大和徒然草子
    yamatkohriyaman
    yamatkohriyaman 2023/06/20
    宇陀市の松山地区は江戸から昭和にかけての歴史的景観が残る重要伝統的建造物群保存地区。中世秋山氏の城下町を起源とし福島氏、織田氏の城下町を経て街道沿いの商家町として栄えた。