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筒井党の没落と山城国一揆~大和武士の興亡(6) - 大和徒然草子
1477(文明9)年11月、大内政弘他、土岐成頼ら西軍諸将は東軍・幕府方へ帰参。 西軍諸将は京都から領国... 1477(文明9)年11月、大内政弘他、土岐成頼ら西軍諸将は東軍・幕府方へ帰参。 西軍諸将は京都から領国へ兵を引くことで、11年に及んだ大乱・応仁の乱は外形上は東軍勝利でようやく終わりました。 一方、応仁の乱の主たる原因であり、1454(享徳3)年から続く管領家・畠山氏の内訌は終わることを知らず、舞台を京都から河内、南山城そして大和に移して続きます。 京都で東軍優勢のうちに応仁の乱が収束したのに対して、京都を去った西軍・畠山義就は河内、大和で東軍・畠山政長を圧倒。河内、大和の国人たちは義就の支配下にはいりました。 大和では応仁の乱の開戦時から畠山政長を支えた筒井順尊や箸尾為国ら筒井氏を中心とする筒井党の国人たちが、本拠を放棄して東山中などへ逃亡し、義就方の越智家栄、古市澄胤ら越智氏を中心とする越智党が大和の国人衆を主導するようになります。 筒井党の没落 山城国一揆 10代将軍・足利義材の誕
2023/07/07 リンク