沖縄の2日目は、地元の方にご案内いただいて、首里~那覇の街歩きでした。 御嶽などの沖縄の文化と、湧水・樋川(井戸)にたくさん触れる15kmの道のりでした。 首里の地形がどのように出来たのかについては、帰ってから学んだことも多く、また行きたいなあと。
沖縄の2日目は、地元の方にご案内いただいて、首里~那覇の街歩きでした。 御嶽などの沖縄の文化と、湧水・樋川(井戸)にたくさん触れる15kmの道のりでした。 首里の地形がどのように出来たのかについては、帰ってから学んだことも多く、また行きたいなあと。
【まちのすがた】国際通りは那覇ではなかった!?近代の那覇市街成立から崩壊を追う―国際通りから見える”那覇”:第1回 もう暦の上では秋になり、暑さもそろそろ和らごうかという時期になってきました。夏休みはリゾートに出かけた方も多いのではないでしょうか。 やはり日本でリゾートとして名高いのは「沖縄」です。1975年の沖縄海洋博以来、繰り返しPRされてきた「沖縄=リゾート」というイメージは多くの人に根付いているようです。 その沖縄で観光の玄関口となるのは沖縄県の県都・那覇です。中でも目抜き通りの「国際通り」は沖縄の戦災復興・経済成長の象徴として「奇跡の1マイル」とも呼ばれ、今日も多くの観光客が訪れています。 一方で、国際通りは戦災復興・経済成長の象徴としてだけではなく、これまでの那覇のまちに関わる様々な事柄の起点にもなります。そこで、今回から3回にわたって、「国際通り」から見える様々なまちの表情を
お忙しい中、時間を割いていただき、意見交換の場をつくっていただいたことに感謝を申し上げたい。 官房長官からも話があったが、沖縄は全国の面積のたった0・6%に74%の米軍専用施設が置かれている。まさしく戦後70年間、日本の安全保障を支えてきた自負もあり、無念さもある。今、官房長官からそういったことに対して大変理解のある言葉をもらった。そうであるならば、去年の暮れ、あるいはことしの初め、どんなに忙しかったかは分からないが、こういった形で話をする中で「物事を粛々と進める」ということがあったら、県民の理解ももう少し深くなったと思う。 私は日米安保体制が重要だというのは、私の政治の経歴からいっても十二分に理解している。しかし、日本の安全保障を国民全体で負担するという気構えがなければ、今、尖閣の話もあったが、たった1県のこの沖縄県に多くの米軍施設を負担させて日本の国を守るんだと言ってもよその国から見る
事の始まりは1996年4月にさかのぼる。一部報道を受ける形で時の首相、橋本龍太郎がモンデール駐日米大使とともに普天間飛行場の返還合意を発表したとき、地元沖縄を含め、日本中が驚きに包まれた。大学や民家が密集する市街地のど真ん中に位置する普天間飛行場は、「世界一危険な基地」と言われながら具体的な返還計画もない中、「まさか」の劇的な返還合意発表だったのである。 この時なぜ日米政府は動いたのか。事態を動かす契機となったのは、前年1995年9月に地元の少女が複数の米海兵隊員に暴行されるという悲痛な事件が起きたことだと理解されることが多いが、それは必ずしも正確ではない。 「冷戦後」が生んだ普天間問題 今となっては隔世の感があるが、米ソ冷戦が終結したとき、世界的に流行した言葉は「平和の配当」であった。それまで冷戦のために費やされてきた資源や労力を軽減し、あるいは別の用途に振り向けるという「配当」が期待さ
撮影:初沢亜利 はじめに 本稿では、2014年の衆議院選挙に関する細かな分析は完全に割愛した。選挙において私たちがどのような行動をとるかは、私たちが社会をどのように解釈するか次第だ。このため、本稿は沖縄社会の基本的な構造についてのモデルを提示する構成となっている。沖縄選挙区に関心のない読者には適さないようにも見えるが、「沖縄問題はそのまま日本問題の縮図であり、日本と沖縄は入れ子構造になっている」、という前提で捉える場合は一定の意味を持つだろう。本稿は、提示した社会モデルが正しいと主張するためのものではなく、仮にこの社会モデルによって沖縄が直面する問題の多くを説明できるのであれば、読者はどのような意見を持つだろうか、どのような行動をとるだろうか、と問いかけるためのものだ。 サイレント・マジョリティ 2014年の沖縄県知事選挙は翁長雄志氏の圧勝で幕を閉じた。現職仲井真弘多氏との実質的な一騎打ち
沖縄戦の組織的戦闘が終結してから69年がたった。戦没者の名前を刻む「平和の礎」(糸満市摩文仁)には毎年、一人ひとりの新たな名前が刻まれる。今も、どこで、どのように亡くなっていったのか、分からない人たちがいる。 沖縄タイムス社は、激戦地だった具志頭村(現八重瀬町)出身者の死亡地域を落とし込んだ地図から、彼らの足跡をたどった。地図は戦没者名簿を基に、GIS沖縄研究室(渡邊康志主宰)が作成。米軍が上陸後の4月から戦闘終了の7月にかけての時系列と、具志頭、新城、後原、港川の出身字ごとの戦没地分布図を公開する。 彼らの足取りは、沖縄国際大学の吉浜忍教授に解説してもらった。 戦後に生きる者として、生きることができなかった声なき声に耳を傾け、彼らが残した足跡をたどる鎮魂のグラフィックとする。 1945年3月23日、米軍が上陸に備え、沖縄本島への爆撃を開始した。硫黄島で日本軍が全滅し、大本営が沖縄作戦に重
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Library > Fact Sheets > COMMENTARY - "Thank You" is not necessary; U.S. forces honored to help reopen Sendai COMMENTARY - "Thank You" is not necessary; U.S. forces honored to help reopen Sendai Posted 4/8/2011 Printable Fact Sheet 4月3日、仙台空港の27番滑走路から800メートルほど離れた砂浜で、松の大木を並べて描かれたARIGATO(ありがとう)のメッセージが見られた。同空港は3月11日の地震と津波により壊滅的被害を受けたが、嘉手納基地から派遣された第353特殊作戦群の支援を受け、3月16日に運用が再開され、人道支援活動の拠点となった。(写真 ロバート・トス
メディアの建前はちょっとおかしい ──取材の波が引いたニュースの現場を訪ねていった『からくり民主主義』(草思社刊の単行本の初版は2002年)という本の中に、沖縄の基地問題を扱ったルポがありますが。住民は、基地問題だけを考えて生きているわけではないというのが分かって、メディアの熱気との落差が面白かったです。 高橋氏■当たり前のことですが、「基地はどうあるべきか」という問題より「どう暮らしていくか?」ということのほうが切実です。誰でもそうだと思うんですよ。「基地についてどう思いますか?」と聞かれたら、「反対です」と答えるしかないんでしょうけど。本にも書きましたが、たまたま辺野古の反対運動の小屋で『NEWS23』の取材とかちあったことがあったんです。わたしが前日まで取材をしていたときには、基地に反対の運動をされていた人たちは普通の格好をされているのに、筑紫さんが来るというと、女性はみんな化粧され
さる11月12日、沖縄県知事選が告示された翌日に、那覇に住む友人から僕のもとへメールが届いた。受け取りようによっては、やや唐突で一方的な意思表示とも思える内容が、そこには書かれていた。よけいな語句がひとつもない、僕の携帯の画面では5行にわたる、ごく簡潔な文面だった。 「もう、これ以上の失望はしたくない。結果はどちらに出るかわからないが、沖縄県民として、民意の声を大和に届けることだけはしたい」 どちらに出るかとは、言うまでもなく仲井真弘多氏(現職)と対立候補である伊波洋一氏(前宜野湾市長)の、どちらに軍配が上がるか、ということだ。問題の普天間飛行場を始め、東洋一の規模をもつ嘉手納基地など米軍施設の多くが集中する中部と、普天間飛行場の移設先候補として挙がっている辺野古(名護市)を擁する北部では、伊波氏が一歩リードしていると伝えられる。基地と直接的な関わりを持たない那覇市を始めとする南部では、仲
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