ヒューマニズムと破壊衝動に引き裂かれながら、後者が前者を凌駕してしまう様がそのままスリリングに画面に貼り付いてしまう映像作家として、宮崎駿とスティーヴン・スピルバーグは双璧だと今でも思うし、それは一般的にも良く指摘されることでしょう。 宮崎監督について言えば特に、今世紀に入ってからは扱う題材をますますファンタジーの側に引き寄せながら、それに比例してドンドン抽象度を深めていくという、老齢にして発揮されるそうしたある種の過激さは、アニメーションに限らず世界中の巨匠と呼ばれる映像作家の中でも、特別頼もしく感じられる存在だと感じています。 しかし、抽象であることが常に歓迎されるものとは限らないし、抽象が具象よりも過激であるという理屈が存在するわけでもありません。 『風立ちぬ』では、例えば人声によるSEを得ることで、正しく「牙を剥くアニミズム」をストレートに爆発させた関東大震災の圧倒的に"新しい"描
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