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ブックマーク / blog.livedoor.jp/easter1916 (6)

  • ララビアータ:物語 - livedoor Blog(ブログ)

    社交が苦手だという人がいるが、こんな場合、私が推奨したいのは物語の修練である。日々の生活の中に、何か話のネタになることを探し、それを記憶し、またそれを人に語る習慣を身につけること。 もっとも、日常で経験する瑣末時を語れば、それだけで物語になるわけではない。あらゆることを、あらゆる細部もそのままに語り続けるのでは、井戸端会議のおしゃべりと変わりはない。そんな人たちは、他人の話にもよく耳を傾けないものである。自分の経験や関心から距離を置くことができないから、互いに独白しあうようなもので、他人の経験には無関心なのだ。そこでは、相手の話を糸口にして、何とか自分の話に持ち込もうとするだけである。 物語のためには、事実の羅列ではなく、何らかの意味の発見が不可欠である。さもなければ、“so what?”ということになる。だから他人に耳を傾けてもらえるように話ができるために必要なのは、ほのかな意味の発生に

  • ララビアータ:白洲次郎の徴兵逃れ - livedoor Blog(ブログ)

    最近、白洲次郎を取り上げたテレビドラマjavascript:void(0)の一部を見る機会があった。これがどの程度史実に合致しているものなのか分からないので、あくまでもこのテレビドラマ作品に描かれた人物に関して感想を述べるしかないが、描かれた白洲次郎が、徴兵制逃れをしているのには驚いた。当時、それは容易ではなかったのではないか? よほどのコネがあったということなのだろう。 当時に生きているわけではないわれわれが、これを外から批判することはためらわれるが、徴兵制を逃れたとしても、その後の生き方が問題であろう。よくも戦後のこのこと、国家枢要の地位につく気になれたものである! 同じように戦争に参加する意義を見いだせずに苦しみながら、徴兵に服した青年が多くいたことは、吉田満の『戦艦大和の最後』や大岡昇平や大西巨人の戦争文学を見ても明らかである。そのような葛藤をいともたやすく小狡く逃れた人々がいたと

    yuco
    yuco 2009/09/21
  • ララビアータ:晴れ着 - livedoor Blog(ブログ)

    ふたたび、FNSドキュメンタリー大賞ノミネート作品を見た。今度は、『断罪の核心―元裁判長が語る水俣病事件―』である。水俣病は、第三次訴訟、熊地裁で初めて国と県の過失責任が認定されたが、その画期的判決を出したのが、このたびのドキュメンタリー作品で取り上げられた相良甲子彦元裁判長である。 こうした画期的判決を出すのに必要なものが、健全で自然な常識とか、まともな正義感覚とか、己れの良心に従う誠実さといったものだけではないことが描かれていて、まことに印象的である。このような場合、いささかの瑕疵もない緻密な仕事が不可欠なのである。事実の認定にさいしても、法理論においても、ほんのちょっとした盲点や記入漏れさえも、しばしば敵に口実を与え、取り返しのつかぬ弱点となってしまうからである。そうなれば、正当な正義感覚も、(それを仕事としている人々から)つまらぬ言いがかりをつけられて、結局は無駄に終わるだろう。

    yuco
    yuco 2006/07/25
  • ララビアータ:亀田一家

    亀田某が、ボクシング界の若手としてデヴューしているようだが、ボクシング好きの私でさえうんざりするのはこの兄弟である。兄弟で互いに区別がつかないくらい、いずれ劣らず品格もマナーもないならず者面であり、父親からさえも自立できないほどのクソガキぶりを発揮しているのだ。このようなクソガキチンピラを前にすると、対戦相手の外国人選手のマナーのよさが際立つので、誰だって対戦相手の方を応援したくなってしまう。テレビ局の軽薄スタッフが、自明のようにこの未熟なチンピラを応援しているのも、不快極まりない。例によって馬鹿騒ぎのテレビ局のお調子者たちが、よってたかって亀田一族の肩を持ち、ただでさえ心細く周りじゅう敵だらけの日へ出稼ぎにやってきた相手ボクサーを、血祭りにあげようとしているのだ。多分、あまり実力がありすぎない、盛りを過ぎた選手とか、減量に苦しむ選手とか、スランプ続きのボクサーなどを念入りに選んでいるの

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    yuco 2006/05/06
  • ララビアータ:源氏物語の鑑賞態度 - livedoor Blog(ブログ)

    いつも拝読しているブログで、『源氏物語』の光源氏に共感して読むのが難しいというご意見を読んだ。以前、紀要論文(『自由人の教育』)において論じたことがあるが、『源氏物語』は近代小説として鑑賞する事はできないという事、それとは違った鑑賞態度が必要である事を、かいつまんで論じてみたい。 以前ある若手の小説家と話す機会があったとき、彼が『源氏物語』は嫌いだと言うのを聞いて、少し意外の感に打たれたことがある。というのは、彼は小説の中でも、実生活においても、女性のファッション・アイテムに異常なこだわりを示す人であったから、『源氏物語』の装飾的小物への細かい趣味に対しても、関心を持ちそうに思われたからである。ひょっとしたら、実際には『源氏』をほとんど読んでいなかったのかもしれない。最近の小説家(や文学者)には、あまりなど読まずに小説を書いたり、批評する人も多いからである。 まず補助線として、狭義の「ク

  • ララビアータ:郷愁の大人たち

    人の話を聴かずに、ただ自分の感情をぶつけるような自閉的で自己肥大的幼児性が、言論の領野でまかり通るようになってしまったのは、いつ頃からであろうか? 我々の子供時代には、抑圧的寛容という言葉があった。そのころ、エスタブリッシュメントはおおむね寛大さを示そうと腐心していたと思う。 大人たちは、自分の現実がその理念を裏切っている事に気づいていたが、誰一人金儲けだけが人生の目標だなどとは言わなかった。たとえ、心の中ではそう思っていたとしても、口に出しては言わなかったものだ。そんなことを言うのは、恥ずかしいとされていたのである。とにかくその頃はまだ、「恥ずかしい」という感覚がたしかに残っていた。今では、「小狡さ」という観念すら存在しない。誰もがそれを当たり前と感じるようになったからである。(いまどき、大人たちに「狡い」と言って批判する子供がいるだろうか?) それらがすっかりなくなってから、もうずいぶ

    yuco
    yuco 2005/10/25
    [][思想][][政治]
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