佐藤亜紀の『ミノタウロス』を読了してしまう。 舞台は20世紀の初頭、暴力と混沌でぐっちょんぐっちょんの内戦時のウクライナだが、其処へ自動車、複葉機、タチャンカ、装甲列車、機銃掃射、モーゼルC96やらルガーP08アーティラリィやらがずらずら出てくる、誠にもって見事な「西部劇小説」だった。そして同時に、男と女の二種類しかいない人間と云う奴の底なしの愚かさと、一抹の、だが耐え難いほどの愛らしさ、さらに或る種の「救済」や「正しさ」を、政治的、倫理的、宗教的、あらゆる何とか的な正しさが崩壊し尽くした世界を舞台に、如何なる制約にも囚われることなく徹底的に描き取っており、それだけでなくすぐれてヴィヴィッドな、あらかじめ成熟を禁じられている青春小説でもある。三人の少年が地獄を転げ回る、ウクライナのビリー・ザ・キッド21才の生涯なのである。 そう、フロンティアが既に終わった時代を舞台に、最後の西部劇を描いた
出郷とは冒険だ。竜退治や新大陸の発見をこころざすとも、若者にとっては、故郷の家をでるというその一事がすでにして冒険なのだ。一度しかない人生の一度しかないターニングポイント。 ドイツには、この時期の青年がさまざまな困難に打ち克ちながら成長する過程を描く小説の根強い伝統がある。教養小説とも発展小説とも呼ばれるジャンルがそれである。『まわり道』(原題は『誤った動き』)の原作となった『ヴィルヘルム・マイスターの修業時代』は教養小説の最高峰といっただけではたりない。200年前にゲーテの書いた『修業時代』こそ教養小説の雛形を打ちだしたのだった。 教養小説の主人公たちはきまって旅をする。教養小説とはドイツ語のビルドゥングスロマーン(Bildungsroman)の訳語だが、人間が自己をビルデン(bilden)、すなわち陶冶しながら形成する過程を描くのに旅ほど格好の舞台はない。加えてドイツに特有の事情がある
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