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ニコニコ動画のWBCまとめ動画を見ていると、まぁあるわあるわ、韓国ざまぁ的コメントが。 幼少の頃、運動会の徒競走でコケた対戦相手(赤組)の走者に「ざまぁ」と野次を飛ばしていたら担任に体罰を食らわされたことがある。殴られる筋合いまでは無いが、まぁ保護者を呼び出して説教されるぐらいのことはしたと思ってる。大人になってからはそんな愚は犯さなくなった。「溜飲が下がる」という言葉があるが、敗者に対する私怨・わだかまりの解消は、基本、勝利をかみ締める事をもって最大のものとするべきだと思ってる(そういう意味では高校生にはガッツポーズぐらいはさせてやれよと思うのだが)。 ああいうアスリートたちの競技を、低俗なナショナリズムを満たすために見ている連中には本当にうんざりする。 おそらく、こういう書き込みはこれからちょくちょく出てくるだろうが、それに対するレスは概ね同調的で、優等生的なものになるはずだ。だけど、
ブログに間違いを書いても、わりと大丈夫である。たいして問題にはならない。 もちろん間違いを書いても大丈夫とは言っても、著しい名誉毀損とか、そういう類のものは駄目である。単なる知識不足とかなら、間違いだらけのブログは、たいして問題にならない。 問題になるのは、「正しいこと」である。 正しいことを書いた場合の方が問題になりうる。 他人を正論で論破するようなことをやってはいけない。相手にとっては屈辱となるし、言い返せないので、執拗な暴言で返してくるということになる。(今だと拠点が2ちゃんねるになるだろう)。 他人を最も怒らせるのは「正しさ」なのである。
20世紀の科学哲学者、カール・ポパーに従えば。 彼は科学と疑似科学の境界を「反証可能性」に求めた。ある理論が科学であると認められるためには、それが「反証可能」でなければならない、すなわち、 1:その理論に基づいてある予測をたてることができ、 2:かつそれを現実世界の経験と照らし合わせて検証することができなければならない。 ポパーは疑似科学の例としてフロイトの精神分析論を好んで取り上げた。例えば、ある男が子供を川に殺意を持って突き落とそうとしており、もう一人の男はその身に代えても子供を助けようとしているとする。フロイト論者は、この二人の行動を、同じくらい簡単に説明することができる。一人は抑圧されており、もう一人は昇華を遂げたのだ、と。フロイト論者は、どんな行動に対しても、それに対する説明を編み出すことができるわけだ。ポパーはこれはおかしいのではないかと考えた。何でも説明できてしまう理論は、む
【グローバルアイ】「韓国は謝らない国」 2009年03月28日10時57分 / 提供:中央日報 「韓国では道で誰かとぶつかっても、すみませんという言葉を決して言わないというけど、それって本当なの?」−−。 最近あるフランス人の友人が目を丸くして尋ねてきた。友人は、韓国について説明したガイドブックからそうした内容を読んで、びっくりしたと話した。その友人に本の題名を尋ねて、市内の書店で読んでみた。 韓国旅行を準備するフランス人のために作られたその本には「韓国でしなければならないこと、してはならないこと」が紹介されてあった。「道で身体がぶつかっても誰も謝罪をしない」「地下鉄で足を踏んでもすみませんと言わない」という内容が収められていた。同書は「だから、そんな目に遭っても、怒ってはいけない」と忠告している。 韓国を未開な国と記したようで不快だったが、ソウルのことを思い出してみると、すぐに気持ちが変
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