原体験…父が死んで天国が崩れていった 《智筆院戯道廈法居士(ち・ひつ・いん・ぎ・どう・か・ほう・こ・じ)霊位》 神奈川県鎌倉市の井上さん宅を訪ね、位牌に手を合わせた。戒名をつけたのは鎌倉市・浄光明寺(じょう・こう・みょう・じ)の住職大三輪龍哉(おお・み・わ・りゅう・さい)さん(33)だ。 筆名だった「遅筆堂」から「智筆」とし、現代の戯作者であることから「戯道」、さらに「守る」という意味がある本名「廈(ひさし)」を法(憲法)にかけたという。「生前に思いをはせながら、少ない文字に故人の人生を込めました」 井上さんは1934(昭和9)年、小松町(現・川西町)で生まれた。3人兄弟の次男で、井上家は薬や文具を売る店を営み、本やレコードも扱っていた。だが5歳の時、父修吉さんは病死した。 〈夜遅く、薬の調剤室の机に向かって、何か書いている父の背中をはっきりと覚えています〉 修吉さんは小説家志
護憲…平和を守るのは一人一人の意志 〈軍備の「ぐ」の字(づ)も無し(なす)で国ば作(つぐ)ってみせ(しぇ)る。軍備抜ぎで、小さ(ちゃっこ)いながらも一個の国家ば持ち(づ)こだえてみせ(しぇ)る〉 都内で6月に開かれた「九条の会」の井上さんの志を受け継ぐ講演会で、代表作『吉里吉里人』の一節が朗読された。選んだのはユリ夫人だ。「なまりが面白く、まじめな人が集まる会にぴったりだと思った。言葉を道具に働く作家として、どうしたら9条を多くの人に伝えられるか苦心していた」 苦心の結実の一つが『子どもにつたえる日本国憲法』だろう。井上さんは9条をこうかみ砕いた。 〈どんなもめごとが起こっても/これまでのように、軍隊や武器の力で/かたづけてしまうやり方は選ばない/殺したり殺されたりするのは/人間らしい生き方だとは考えられないからだ(中略)筋道をたどってよく考えて/ことばの力をつくせば/かならずしず
農業…1枚の水田はダビンチの絵1枚に相当 朝 ゴハンを茶碗(ちゃ・わん)で二杯/味噌汁(み・そ・しる)一杯(実は、ありあわせのもの)/漬物(なんでも可) 昼 おにぎり二ケ(中に梅干し)。あるいはそばかうどん 夜 ゴハンを茶碗で二杯/味噌汁一杯(実は、ありあわせのもの)/魚か肉か豆腐のうちの一つ/漬物(なんでも可) その他(番茶を日に二十杯、コーヒーを一杯) 「好物はゴハン」の井上さんが〈理想とする基本的な食べ方〉として挙げた献立だ。これを定番にして、〈週に一回、家族で外食(すし、イタリア料理、中華料理など)する〉と加えている。 「日本列島に住む人びとは、そこでもっともよく獲(と)れる米を中心に食文化を組み立て直すこと、それがつまりは『芯』をつくることになります」。そう確信し、米にこだわり続けた井上さんが、農の問題を考え、発信する拠点としたのが、故郷の川西町に立ち上げた生活者大学
未来へ…あとにつづくものを信じて走れ JR鎌倉駅から源氏山に続く道を歩く。8月の日差しに汗が噴き出る。脇道の奥の35段の石段を上った先に井上さんの自宅がある。 「元気に戻ってくると思って、ずいぶん片付けたんです」 そう話すユリ夫人が2階にある書斎を案内してくれた。板張りで約30平方メートル。机の上には十数本の万年筆や原稿用紙。窓はたばこの煙でいつもくもっていたという。 〈むずかしいことをやさしく/やさしいことをふかく/ふかいことをゆかいに/ゆかいなことをまじめに書くこと〉 井上さんはこの理想を、書斎を拠点に追い続けた。本棚には『世界歴史大事典』全21巻、『国史大辞典』全15巻、『モーツァルト大辞典』『宮澤賢治語彙辞典』などの辞典類が並ぶ。『捕虜体験記』や『ソビエト連邦共産党史』は、遺作『一週間』の資料だろう。〈わたしたちには、これまでに書かれた書物をできるかぎり読破し、そういう努
法律家でも難しいといわれる「責任能力の判断」を裁判員がどう下すか。なじみの飲食店に火を放ったとして、現住建造物等放火未遂罪に問われた草場通江被告(34)に対する裁判員裁判が24日、佐賀地裁(若宮利信裁判長)で始まった。弁護側は被告が心神耗弱=〓=状態だったと主張。弁護、検察側の双方が裁判員に対し、責任能力とは何なのかという根本的な問題から丁寧に説明した。4日間の審理の後、判決は31日に言い渡される。 起訴状によると、草場被告は2009年9月7日午後10時40分ごろ、唐津市の飲食店の木造外壁にペットボトルに入れた灯油をかけ、壁板に挟んだ紙にライターで火を付けたが、壁の一部を焦がす未遂に終わったとされる。罪状認否で、草場被告はこの事実を「間違いありません」と認めたが、弁護士は被告に中程度の知的障害があり、犯行時に、適応障害を患っていたことを理由に「心神耗弱だった」と説明、減刑を求める意見を添
10年前の9月30日、東海村の核燃料加工会社JCO東海事業所で、核分裂が止まらなくなった。臨界事故。漏れ出した放射能を恐れ、住民は逃げまどい、東海村とその周辺はパニックに陥った。作業員2人が亡くなった。民生用原子力施設の事故で死者が出たのは、旧ソ連のチェルノブイリ原発事故(86年)以来という大惨事だった。国内原発の安全神話が完全に崩れた。この10年の間に、JCOは燃料加工をやめたが、他の原子力施設では依然として大事故や不祥事が相次いでいる。石油燃料の高騰や二酸化炭素削減という昨今のトレンドから、原子力エネルギーを見直す動きがある。それはそれでいいのだが、大事なことが忘れ去られようとしていないだろうか。(この企画は吉野慶祐、東郷隆が担当します) 「蒸し暑い日でした。ぼくは放送委員としてお昼の放送を流すため、給食を食べながら放送室にいました。すると、急に先生が飛び込んできて、『早く窓を閉め
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