ブックマーク / gitanez.seesaa.net (44)

  • ヒューマンエラーの対策を間違えないために: DESIGN IT! w/LOVE

    不確実な時代をクネクネ蛇行しながら道を切りひらく非線形型ブログ。人間の思考の形の変遷を探求することをライフワークに。 仕事の中で、システムやルールなどの人工物が原因で起こってしまっているヒューマンエラーというのは山ほどあります。もちろん、そのエラーをなくす改善策がシステムやルールを新たに追加することでないのは目に見えています。これは人間中心デザインの基礎とも言えることです。 今日はそのあたりをすこし。 コンテキストオブユースとメタ認知同じモノでも見方が違えば見え方=意味は異なる。それが人間中心デザインにおいて、コンテキストオブユースが大事にされる所以です。 人間中心のデザインのキモは、他者をどれだけ想像できるかという、その想像力の逞しさだと思ってますが、結局はその他者を想像する力というのは、自分自身を他者化できる力だとも思ってます。他者のコンテキストオブユースを理解するためには、まず自分が

  • 火の賜物―ヒトは料理で進化した/リチャード・ランガム: DESIGN IT! w/LOVE

    不確実な時代をクネクネ蛇行しながら道を切りひらく非線形型ブログ。人間の思考の形の変遷を探求することをライフワークに。 ジョルジュ・バタイユは『エロティシズム』(書評)のなかで、べることと調理することは連続的な行為ではなく、その間には切断があることを指摘した上で「この切断が人間と動物を区別しているのです」といっている。「動物はすぐに媒介なしにべ、そのべ方は貪欲」であるのに対し、人間はべる前に「調理」という媒介的な行為を挟むことを対比する。この人間のみが行う調理というものが動物と人間を隔てる区別だという指摘だ。 この区別が単なる哲学的な思弁ではないことを、著者は書で科学的に論述してみせる。 ヒトは確かに料理によって進化し、ほかの動物と区別される存在になったのだ、と。 180万年前、ヒトは料理で進化した著者の論点はめいかいだ。 180万年前、それまでの類人猿型の体型をしたハビリスから、

  • 創造的な過程としての読書: DESIGN IT! w/LOVE

    意識というのは結局のところ、行動の残滓のようなものではないかと思う。 ずっと前に紹介した脳神経科学者ジェラルド・M・エーデルマンの『脳は空より広いか―「私」という現象を考える』(書評)には、こんな図を紹介した上で、 次のようなことが述べられます。 Cは、高次元の識別を反映し、ゆえにその高次元の識別をもたらすC'の存在なくしてCが生じることはない。Cは対応関係を反映するものであって、直接的にも場の属性を通しても、物理的に何かを引き起こすことはできない。しかし、C'は違う。C'の活動は次のC'の活動を因果的に引き起こす。そのC'に必然的に伴う、伴立するのがCというわけだ。 ここでエーデルマンが言っているのは、意識プロセスとしてのCは、あくまで外界の信号を受け取り、それに対して行動を起こし、さらにそのフィードバックを外界から受けるといった一連の因果関係をもった活動のプロセスであるC'を「現象変換

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    Nao_u 2010/02/20
  • バイタリティのない男性たち: DESIGN IT! w/LOVE

    不確実な時代をクネクネ蛇行しながら道を切りひらく非線形型ブログ。人間の思考の形の変遷を探求することをライフワークに。 この1週間、ほとほと今の男性のバイタリティのなさにあきれ返らされました。 何があったかは詳しくは書きませんが(PS.誤解が多いようなので補足すると仕事関係の話ではありません。むしろ仕事以外の場でどうか?という話であることを追記)、おなじ状況にあっても、女性は自らの無力を認めつつ、そんな自分に何ができるのかを考えながら行動を移そうとするのに対して、男性のほうはぜんぜんダメな人がいて自らが置かれた状況を前にその状況が悪いと考え、御託を並べるか、思考停止になるか。おまけに自分が行動も思考もしてないくせに、こんな状況では行動も思考も無駄だという。 まったくあきれます。そう感じるなら自ら状況を変えるよう、行動や思考をすればいいだけなのに、それができずに自らの殻にとじこもる。御託と行動

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    Nao_u 2010/02/06
  • 書くことがないというのは考えてないというのに近い: DESIGN IT! w/LOVE

    不確実な時代をクネクネ蛇行しながら道を切りひらく非線形型ブログ。人間の思考の形の変遷を探求することをライフワークに。 昨日ちょっとインプットとアウトプットのことについて書きましたが、アウトプットという点では、書くことがないというのは考えてないというのに近いんだろうなと思います。 書けるくらいに考えているかどうか。それに満たない考えというのは、たぶん意識がゆらゆらしてるだけであって考えてるとはいわない。 もちろん、この「書く」は、絵を描く、見積もりを書く、ワイヤーフレームを描く、日記を書く、ブログを書く、報告書を書く、など、いろんなアウトプット形式があっていい。ただし、ある程度の量はないと考えというのはまとまったり展開したりしないので、140文字だと話にならない。 考えるというのは頭のなかでアウトプットを構成し組み立て展開する作業だと思います。自主的に「書く」という行為を行っているかは別にし

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    Nao_u 2010/01/18
    「書けるくらいに考えているかどうか。それに満たない考えというのは、たぶん意識がゆらゆらしてるだけであって考えてるとはいわない。」
  • メタ認知や抽象的思考ができない人が心がけ実践すべき3つの事柄: DESIGN IT! w/LOVE

    不確実な時代をクネクネ蛇行しながら道を切りひらく非線形型ブログ。人間の思考の形の変遷を探求することをライフワークに。 自分で物事を考えて答えを出すということができない人というのがいる。「思考停止」なんて言葉もあるけど、そういう人たちにとって「停止」は動いていた状態からの変化を示す"stop"ではなく、そもそものはじめから思考がスタートしていない場合が多く、最初から思考が働いていない。 そうした人たちに共通するのは、メタ認知ができないこと、抽象的な思考を苦手とすることだとだと思います。見たまんまのことしか考えられない。だから、手法を扱えないし、戦略的な話ができない。 そうした人びとは、抽象的な記述や理論的な話題に対する想像力が著しく欠けていて、それが世界の記述であることをイメージできずに、すぐに「具体的な事例がないとわからない」という。それが自分のメタ認知や抽象的思考力の欠如からくる想像力の

  • 好奇心=「わからない」をつくること: DESIGN IT! w/LOVE

    不確実な時代をクネクネ蛇行しながら道を切りひらく非線形型ブログ。人間の思考の形の変遷を探求することをライフワークに。 を読めない人がいます。他人の話の字面だけをおって相手が何故その話をしているかを感じとることができない人がいます。また、間違いをおかさないよう怯えることにせいいっぱいでチャレンジできない人がいます。 そうした人に共通するのは未知への感受性の希薄さです。わからないものを避け、未知なるものを嫌悪する。自分が安心してみられる世界に閉じこもり、新しい世界に目を向けようとはしない。外部に対してはもちろん、自分自身の内にある未知や答えのはっきりしないものからも目をそらしたがる傾向がある。 そういう人もいろいろ教えてもらいたがったりするのだけど、残念ながら、そういう人に教えるのはむずかしい。何故なら教えてもらいたがってる割には未知なるものを嫌うから。教える側は相手がすでに知ってることしか

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    Nao_u 2009/08/27
  • 自分自身の心の動きの正体にこだわってみる: DESIGN IT! w/LOVE

    最近のワークショップなどの講義では「誰のせい?」という話をすることが多いです。その話の最後には「誰のせい?」かを問う姿勢とは別に、「仕方がない」という受け止め方があることを指摘しています(例えば、突然雨が降って来て濡れてしまうのは「誰のせい?」ではなく「仕方がない」)。 ただ、それ以前に問題を自分自身が関わる問題として受け止められるかということがあるのかもしれません。 問題を他人事として受け止めることができない。自分自身の問題として受け止められない。他人のよくないところを見つけることはできるのに、自分のよいところを見つけられない。いや、そもそも自分自身に向き合うことができず、自分が何を言っているのかを考えようともしない。考えることから逃げてしまう。 そういう姿勢に自分自身が陥っていないかどうか。 「誰のせい?」と責任の所在を外にばかり求めるのではなく、逆に他人の問題をも自分の問題として受け

  • アウトプットができない人がまずやるべき3つのこと: DESIGN IT! w/LOVE

    これも立派な意見だと思うんですが。 さて、問題は、自分の意見がない場合だ。そういう場合も当然意見が少なくなる。自分はどちらかというとこちら側にあてはまるかもしれない。おそらく何を考えればいいのかがぶれてしまうのだ。 意見をいわなくてはいけないとか、むずかしく考えすぎてるんじゃないでしょうか? そりゃ、時が来れば自分の意見を求められる場面もあると思いますけど、アウトプットを増やさなくてはいけないのは、そんなタイミングじゃないんですね。もっと前、ずっと前の段階です。自分の意見を言わなきゃなんていう最後のタイミングのことばかり考えちゃうから間違うんですね。 むしろ、アウトプットができない人がまずやるべきなのは、相手が話しているあいだの自分のインプットを増やすことだと思います。 ようは次の3つ。 オウム返しをする質問をする相手の話の良いところをほめる ここでいう相手は、あなたに何か課題をあたえる人

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    Nao_u 2009/05/01
    「つまり、それは自分が変化することにほかならない。そして、変化はリスクなしにはありえないし、何がうまくいくかは相手と自分の交感次第。」
  • 創ったものにて何をなさろうとしておりますか?: DESIGN IT! w/LOVE

    会心の作・染付志野茶碗を師・利休に見せた際、織部が利休にいわれたことばです。 この前の台詞で、利休は「ついにここまできたかと…」と、志野茶碗に染付をした器の風情を褒めつつ、すぐに「されど」と切り返し「あなたの全てがこの器に乗り移っているとは思えませぬ」という。 そのあとに続くのがこのことばなんですね。 織部にしてみれば、これぞと思った会心の作だったわけです。利休の教えどおり、創意に創意を尽くして創り上げたオリジナルの器です。これなら師に見せてもよいと思った作だったわけです。 もし、あなたが織部の立場だったらどうですか? 社会変革としての茶の湯創ったもので何をなそうとするのか。 これはデザインをする上でも基だと思うのです。 何を創るのかではなく、何を為すために創るのか。 ましてや、プロダクトデザインだとかグラフィックデザインだとか情報デザインだとかと専門領域を細分化して、互いにその枠のなか

  • 自分は引き際の良さ、時機の見極めができてないなと感じる人のための3つの処方箋: DESIGN IT! w/LOVE

    不確実な時代をクネクネ蛇行しながら道を切りひらく非線形型ブログ。人間の思考の形の変遷を探求することをライフワークに。 「自分は粘り強さ、継続性が足りないなと感じる人のための3つの処方箋」に続いて、こちらもご要望があったので、いい機会なので自分の考えをまとめてみようか、と。 引き際の見極めができるようになるための3つのポイントとはいえ、まずは「粘り強さ、継続性」がない人は「引き際の良さ、見極め」もできないんだと思うんですよね。つまり、タイミングが読めないんです。どこで引くか/引かずに続けるかというタイミングというものが見えない。なので、イヤになっちゃってやめるか、いつまでもグズグズ引き延ばすか、いずれかになってしまうのでしょう。 しかも、その時点で辞めやすければ辞めるし、辞めにくければ辞めないというだけ。いずれにしても、あんまり自分の意志じゃないんですね。引き際も継続性もあったもんじゃない。

  • 自分は粘り強さ、継続性が足りないなと感じる人のための3つの処方箋:DESIGN IT! w/LOVE

    不確実な時代をクネクネ蛇行しながら道を切りひらく非線形型ブログ。人間の思考の形の変遷を探求することをライフワークに。 粘り強さというか、継続性というか、とにかく自分がやると決めた事柄を最後までやり遂げられない人が多いような気がしています。 もっともらしくやりたいことや意欲を口に出すのはいいんですけど、結局、それが具体的な活動に落ちていかないし、たとえやり始めたことがあっても続けられません。なんでそうなってしまうのか、僕にははっきりとその理由はつかめていませんけど、とにかく具体的な活動を継続して積み重ねることでしか結局のところ何も身に付かないし結果も出ないんだということが理解できていないのでしょう。それにゆえに継続性の価値、粘り強い忍耐力をもって事にあたるということに価値を見いだせないのかもしれませんね。 途中でやめるということがカッコ悪いことだという認識がないんだと思います。 僕は自分でや

  • 創意工夫がヤならデザインするのなんかやめればいい: DESIGN IT! w/LOVE

    不確実な時代をクネクネ蛇行しながら道を切りひらく非線形型ブログ。人間の思考の形の変遷を探求することをライフワークに。 昨日の「「わからない」を自分の身で引き受けること」の続きとして。 デザインにとって何より大事なのは、自ら創意工夫して、問題の解決なり、新たな形なりを見つけ出す努力を惜しまず励むことではないだろうか、と思っています。いや、むしろ、それが当たり前のことだと思っていたのですが、どうも世間の動向をみていると、そうは見えないところがあります。 悪しきマニエリスムの兆候IDEOをはじめとするイノベーションの技法や、人間中心設計(ユーザー中心デザイン)への関心の高まりが、どうも悪い意味でのマニエリスムに流れ込んでしまっているような印象を受けるのです。 マニエラ、すなわち手法です。いまの世の中のデザインの手法への関心をみると、手法を知ること自体に重きがおかれ、肝心のデザインすること自体に向

  • 「わからない」を自分の身で引き受けること: DESIGN IT! w/LOVE

    不確実な時代をクネクネ蛇行しながら道を切りひらく非線形型ブログ。人間の思考の形の変遷を探求することをライフワークに。 「何かを分かるということは、何かについて定義できたり記述できたりすることではない」。 これは原研哉さんが『デザインのデザイン(special edition)』の「はじめに」で書いている言葉です。 デザインというものに関わる人にとって「わからない」ということにこだわる姿勢ほど、大事なものはないと思っています。自分が何がわかっていないかを見つめ、わかったふりをした状態から抜け出そうとしなければ、必要な形・物の輪郭など見えてくるはずはありません。 もがいてもがいて、作りに作って、悩みに悩んで、「わからない」ものに自分の手、目、頭で立ち向かうこと。そうやって目の前のわからなさを自分の身に引き受けられるかが重要です。だって、デザインの答えは自分で見つけ出すもの。だよね? マニュアル

  • なぜ量が質を生み出す可能性を持っているのか?: DESIGN IT! w/LOVE

    ある陶芸のクラスで、質を追求するグループと量を追求するグループに分けたところ、実際に質の良い作品が数多く見られたのは、量グループだったという話。 質を求められていたのは「質」グループのはずだったのに,なぜ質を求められていなかった「量」グループの生徒たちが,質で上回る結果になったんだろう? これが事実として成り立つからこそ、ブレインストーミングでもアイデアの質より量を問うんですよね。このブログでも、再三にわたって「まずは手を動かそうよ」といってるのもそういうこと(cf.「小さなアウトプットの蓄積で完成形を生み出すための5つのプラクティス」「みんなで手を動かしながら考えるということを図にしてみました。」)。 先の記事中にも「質」より「量」が結果として「質」を生む理由として「多くの作品を作り出す過程において失敗を繰り返し、その失敗から多くのことを学ぶことができた」と書かれていますが、そのことにつ

    Nao_u
    Nao_u 2008/08/12
  • もうひとつの量の追求: DESIGN IT! w/LOVE

    不確実な時代をクネクネ蛇行しながら道を切りひらく非線形型ブログ。人間の思考の形の変遷を探求することをライフワークに。 百聞は一見に如かず、といいます。 だとしたら、一見もまた百聞に如かず、なのでしょう。 そこを見落としてはいけません。 「なぜ量が質を生み出す可能性を持っているのか?」では、自身が手を動かすことで得られた多量の経験値を元に、反省し、編集することで、新たな知を生み出し、それを利用する方法があるということを書きました。 いわく、質より量、とりあえず、やってみよう、と。 でもね、それだけやってればいいってもんじゃないんですよね。 というのも、どうしても個人が自分の手で作業を行える範囲って限られますから。自分の経験によって得た知だけに頼ろうとすれば、知は深まることはあっても、広がらない。 井の中の蛙大海を知らず されど空の高さ知る。 そう。深さ-高さに関する知は、自分で手を動かす量に

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    Nao_u 2008/08/12
  • 経験と方法: DESIGN IT! w/LOVE

    不確実な時代をクネクネ蛇行しながら道を切りひらく非線形型ブログ。人間の思考の形の変遷を探求することをライフワークに。 最近、経験の力というものをよく感じます。 経験を積んだ人は見えるものが違うし、相手が何が見えていないかを察する力も違うのだなと感じます。同じものを見ていて、同じことを話していても、経験を積んだ人の視野は広範囲に渡っていて、かつ深い。1つ見れば、そこに存在しない別の可能性をいくつも見通すことができる。この経験者が見通したものを、他の人たちにも共有できれば、どんなによいものか。 でも、実際には経験者が自分が見えていることを、経験のない人に話してわかってもらおうとしてもなかなかむずかしいんですよね。しかも、それは経験者の言語力の問題によるものだけじゃないというところが問題をむずかしくします。 同じくらい経験してる同士なら、多少、言葉が足りなくても伝わるし、言わなくても相手がわかっ

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    Nao_u 2008/08/11
  • 自分がいまどこにいるのかわかるか?: DESIGN IT! w/LOVE

    不確実な時代をクネクネ蛇行しながら道を切りひらく非線形型ブログ。人間の思考の形の変遷を探求することをライフワークに。 自分がいまどこにいるのかを知ることはとても大切なことです。ふだんはそんなことは当たり前すぎて自分がどこにいるのかという情報が重要なものだということを僕らは忘れがちです。 しかし、自分がどこにいて、どこにいないかがわかっていなかったとしたら大変です。 自分がどこにいるのかわからなければ、よその地域のニュースや天気予報を見て慌てたり不安に思ったりするかもしれませんし、いま土足でいるべきかを脱ぐべきかにも困ってしまうでしょう。 何を言ってるのか?って。 カーソルっていうものは偉大だなと思ってるわけです。 マウスとカーソルコンピュータのマウスとカーソルによるユーザーインターフェイスっていまさらながらよくできているなって感じます。自分がモニターのどこにいるかがカーソルによってわかる

    Nao_u
    Nao_u 2008/02/15
  • 自分の視野を広げるためにも他人の意見には耳を傾けなきゃ: DESIGN IT! w/LOVE

    不確実な時代をクネクネ蛇行しながら道を切りひらく非線形型ブログ。人間の思考の形の変遷を探求することをライフワークに。 「判断力は情報デザイン力、物語化の能力」や「何が起こっているのかわからない状態を脱するための9つの工程」では、判断力を高めるためには情報デザインの方法を知っているとよいですねと書きました。 手持ちの情報を整理し、足りない情報は調査で補完する。集めた情報を分析的に構造化し文脈を知る。物語化する。 判断するためにはまず問題がわかる・理解することが必要ですが、それができないために判断ができない場合が多いのでは、という内容でした。 いったん視野を広げて問題の構造を把握したうえで、適切な解決策を絞りこんでいくわけですよ。他人の話に耳を傾けられない人が陥る部分情報問題というわけで前回まではなかなか判断ができない人にとっての処方箋をまとめてみたわけですが、もう1つ逆に、判断が独断になって

  • 判断力は情報デザイン力、物語化の能力:DESIGN IT! w/LOVE

    不確実な時代をクネクネ蛇行しながら道を切りひらく非線形型ブログ。人間の思考の形の変遷を探求することをライフワークに。 昨日も「何が起こっているのかわからない状態を脱するための9つの工程」で書きましたが、判断というものは情報デザインの一種です。 結局、最後には手持ちの情報を整理し、その整理のしかたに含まれるロジックとそこから垣間みえる創発的な発見によって、しかるべき回答を導きだす。その一連の作業を判断と呼ぶのだと僕は考えています。 判断するには、手持ちの情報を整理して物語化することが必要手持ちの情報を分類し、関係性をみえるように整理する作業が、僕がよく使う言葉では「文脈(コンテキスト)」をつくるということになります。 バラバラの情報を組織化・構造化して、なんらかの物語がみえるようにする。そうした作業が判断には必要です。登場人物、起こっている出来事、起こってほしい事柄、物理的環境や市場環境など

    Nao_u
    Nao_u 2008/02/06