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ブックマーク / end-of-scan.hatenadiary.jp (12)

  • 2008-03-05

    今の著作権法の著作者人格権は強すぎて問題があるのは確か。でも、表現したい人は確かに作品に自分の一部を投影しているわけですよ。じゃあ落としどころはどこかってことだろ。CCでクリアできる場合は多いだろうし、それでも問題があるかもしれない。もしmixiがCC普及に役立ったり、クローズドなコミュニティと公的な場所との間のコンテンツの扱いについてのモデルケースになれば、それはとても素晴らしいことだと思う。 売り言葉に買い言葉な論法では冷静な議論にならないですよね。「敢えて」水を浴びせているのかもしれないけど、それでも議論を断絶させる方向に働くと思われ。結局、「溝は深いよねー」なんて思考停止に陥って先に進めなくなる。極論を言ってても話はすすまねぇってことですよ。極論に対して極論で返すことで議論が停止する状態をネットのあちこちで見る。そういうのはもう飽き飽きなのです。 ところで、mixi規約改定に反対す

    2008-03-05
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    REV 2008/03/05
    落としどころは?
  • 物語の不気味の谷、それに対抗する試み - end-of-scan

    ぐだぐだと書いてみる。 先日「ダイ・ハード4.0」を観てきたんだけど、ラストがこれまたイヤーな後味だった。マクレーンが「俺は英雄なんかじゃない」なーんてことを車に同乗するコンピュータおたくな青年に言うシーンが途中にあって、ラストに青年に向かって「お前も英雄だ」なんてことを告げた後に娘と病院に向かって終わり。アクションのどたばたで娘と絆の確認はしたけど、どーもしっくりこない。結局マクレーンはどこまでも一人であるように感じてしまう。「スパイダーマン3」もそんな映画だった。ハリーの憎しみは消えMJとのわだかまりもなくなって、ピーター・パーカーは絆を再確認しているようなんだけど、やっぱりしっくりこない。脚がどんなに策を弄しても、ヒーローたちが当に絆を確認したようには感じないし、帰る場所を見つけたとは思えない。とってつけたような物語の終わり。 ヒーロー、王、真理を知る者が孤独ってな話は、それこそ

    物語の不気味の谷、それに対抗する試み - end-of-scan
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    REV 2007/08/27
  • 伊藤計劃先生&円城塔先生トークショー - end-of-scan

    70年代生まれの私としては、同世代の話がとても面白かった。通過儀礼とか洗礼の受け方とか。俺はFM-7派でしたよ。そっか、機種依存性なんだw どちらの作品も終末観、諦念が強い、というところが個人的に山場だった。俺も話を考えててもそういう話しか思い浮かばなかったりする。円城さんによるとこれは70年代生まれだけの考え方みたい。下の世代はもっとポジティブだったりするらしい。これまで、こんな不毛な物語ばっか再生産しても如何なものか、と思っていたけど、書きたいもの書きゃいいんだ、と少し救われたような気分になった。同時に、この不毛さから逃れられないのかという欝な気持ちにもなった。 以下はメモです。二人の話があっちこっち飛ぶのでメモしきれていません。以下に書かれていることは、発言者の意図を正しく反映していない可能性が高いのでその点ご留意ください。 2007/08/25 SFファンによる、SFファンの為の夢

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    REV 2007/08/27
    「虐殺は700枚」
  • つまり携帯小説は伝奇小説であって - end-of-scan

    夜の街から越境してやってくる異能の者であるホストはサンカ*1なんだろう。彼女たちはホストたちに理不尽に恋愛感情や命を持っていかれている。彼らに交わることで脱中心化を果たしている。新伝奇については笠井潔が「空の境界」の後書きで気合の入った評論を書いていたっけ。 そう考えれば、携帯小説をくだらんというのはナンセンスだといえる。問うべきなのは、携帯小説の世界の周縁がどこにあるのか、てことだろう。 *1:ホストの人たちを神聖化する積もりも蔑視する積もりもなく、サンカ文学という枠組みでの一つの役割として書いています

    つまり携帯小説は伝奇小説であって - end-of-scan
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    REV 2007/08/13
  • 「秒速5センチメートル」の遠い音楽 - end-of-scan

    子供の頃とくに中学生だった時に出会った強烈な出来事をずっと引き摺っている、そんなことがある。今でも、氷河の中に閉じ込められたマンモスのように、心の底で眠っている。日常の怠惰な生活で、心は平らかに静かに外界を反射するけど、ふとしたきっかけで裂けた割れ目からマンモスが顔を覗かせる。そんな時心は大きく揺さぶられる。 「秒速5センチメートル」はまさにそういうテーマの映画です。 ただ、「秒速5センチメートル」は、他の思い出万歳な映画、一頃流行った懐古厨な映画やクレヨンしんちゃんの「オトナ帝国」とはちょっと違う。少なくとも、各所のレビューを読んでそういうイメージを持っていた私は、いい意味で裏切られた。 子供の頃の体験と、バブルや就職氷河期やらを経た末のリアルに生きる自分との間には、大きな解離がある。たぶんその隔絶っぷりは上の世代にはわからないと思う。情報やメディアにの氾濫によって経験に対する信頼がなく

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  • 構造の終わり、図書館の終わり - end-of-scan

    文章はソースかバイナリーかの続き。 自サーバを立て、Wikiに何を置こうかを考えたとき、頭に貯めている論考たちに思い当たった。どれも、ブログに記述するには長すぎてとても読んで貰えないものばかりだ。なによりそれらは、構造化された章立てで読まれなければならないものだった。 論文の書き方を習うと、大体最初にIMRADというのが出てくる。Introduction, Methodology, Results, And Discussionの略だ。ブログでそんなものは要らない。早く答えを差し出せ、ネタを再構築しろ、ハリー、ハリー、てな具合だ。ちょっと前に話題になった、わかるところから書き始めわからなくなるまで書く、とかまさにそれだ。後に誰が利用するかなんて考えてない。Google様に分類を任せているのではない。今のブログスフィアの文脈がないとちゃんと理解できない。スパゲッティ・コーディングと何も違わな

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    REV 2007/01/07
  • 人間力とかいうより対話の技術の問題じゃね? - end-of-scan

    日米でのブログ間の議論の仕方が違うのはよく指摘される。スルー力関連で思ったのは、積極的に問題の質を見つけて発言するのではなく、アテンションをうけて受動的に自分の意見を言うということ。そのため合意形成に至るのに時間がかかる。 日人は、対話によって理解を向上させるための技術が劣っている。これはよく言われる。会社の上司が言っていたのは、Yes/Noで答えられる質問にちゃんと答えられない(言い訳とかぐじぐじ言う)というもの。例えば英語での対話だとより顕著になる。日人はすぐに"actually"という言葉を使う。自分の論理では話せるけど、異なる意見を持つ相手を説得する技術に長けてない。すぐに音を言って理解を求めようとする。 梅田さんは、合意形成の遅さを文化という。「ウェブ人間論」では人間の質の問題として扱おうとしているけど、とりわけ技術の問題なんじゃないかと今朝思った。discussion

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    REV 2006/12/21
  • スルー力に関わる議論でわかったこと - end-of-scan

    問題が簡単なほど議論の収束が遅くなる。集合知は認識をディレイさせる方向に働く。 理由1:そもそも、議論は参加者が多いほど収束が遅くなる。問題が簡単なほどアテンションが集まりやすい。 理由2:人が何かを表現しようと思うには「内圧」が重要な役割を果たす。「内圧」とは自分の認識と社会の認識のギャップによって起こるプレッシャーである。問題のアテンションが高いほど、内圧も高くなる。理解が整理される前に内圧があがると、不十分な見解のまま表現することになる。不十分な見解の発言が増えるため、議論の収束が遅くなる。 はてな界隈の「知識人」たちが、アテンションエコノミーに突き動かされる形で、当たり前のことを時期を逸する形で発言しているさまは何だかふしぎで面白い。 ネットの議論はどんどんパッシブになっていくんだろう。しょぼい意見が少しずつ積み重なっていってアテンションが閾値を越えたときに、それに反応する形で(a

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  • 祭の経済学 - end-of-scan

    「http://d.hatena.ne.jp/ziprocker/20060913」へのコメント。 コメント欄での乱闘ぶりにワロタ。いやいい意味で。ネオリベ土人という表現は気に入った。 最初元エントリー見たときはぴんとこなくて、反論を読んでもまだぴんとこなくて、それに対するコメントを読んでから元エントリーを読んで、ようやく合点がいった。自分がいかにネオリベ的思考に毒されているか気づいた。そしてバーニングマンのことを連想した。彼らの撃つ神は、バタイユの言う「有用性」なんだと思う。 バーニングマンは面白そうだけど、ネバダまで行くのは大変だし、下手すら死んじゃうような責任抱えてまで自由を確認する覚悟もねーわけで。それに比べれば、これは、まー、参加しやすい。 でも、見ている人を巻き込む形になってない。これだったら、コミケでコスプレしている方がいい気がする。 やっぱ、手段が目的化してしまっていると感

    祭の経済学 - end-of-scan
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    REV 2006/09/15
  • メタネタベタオタの末路 - end-of-scan

    スポーツ新聞のサイトは、佑ちゃんとかディープとかうざくてかなわんのでもう読まねぇ。といってWeb関連のはブックマーク衆愚化とかBigBangとかこれまたメタな論議ばかりが増殖していってる。 どこいっても情報が自家中毒を起こしている。 去年の末の東タンやら斉藤先生やら北田さんやらのトークセッションで、ネット社会はコミュニカティブな形で健全な成長をしてほしいんだけどなかなかそうなっていない、小泉みたいなシンプトマティックな人に釣られるばかり、てな話になっていた。上の話を考えればよくわかる。コミュニカティブな社会ではベタ&メタな方向ですぐ飽和してしまう、というのは当たり前な話だ。言いたいのは、Web技術の進化、チープ革命はベタ&ネタな方向の情報飽和を加速させるけど、脱中心化するところは個人にゆだねられているってこと。 アンチコミュニカティブなIT、誰か研究してくだちい。IT=ICTじゃないはず。

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    REV 2006/08/30
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  • ラノベの特殊性 - end-of-scan

    tdaidoujiさんのところから 帰るべき故郷(現実感のある現実ってやつ)を喪失してるのがデフォルトだから、といった話に繋げるとイマドキのライトノベルの話にまで行くのかな。 多くの作品が故郷の喪失を描いているという話だと、それはラノベに特有の現象とは思わないです。自身を欠損することで主人公たりえるのは、古今東西のファンタジー・神話・物語のお約束。身体を欠損することで神性を獲得する片輪の系譜とか、故郷や親を失う主人公の系譜とか、貴種流離譚とか。 違いがあるといえば、主人公が故郷を喪失する理由の正当さをとうとうと描くところ。源氏もゲドも指輪も、主人公の先代・先々代に遡り主人公の正統性を描く。 ラノベでは"喪失"が日常化し、"受難"がコモディティ化している。でもそれは、お手軽に物語を始めているというだけだと思う。作者と読者との間に物語のツールのデータベースの共通了解があって、この記号のときはこ

    ラノベの特殊性 - end-of-scan
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    REV 2006/08/09
  • 物語を駆動させるためのデザインその1 - end-of-scan

    2ヶ月前、短編を書く機会があり、小説の構造がどうあるべきかを考えたことがあった。これはそれをまとめたものである。啓蒙ではなく、指南でもなく、ただ自分の方法論を定式化したものであり、他者の作品になんら働きかけるものではない。 結論についてはその2に書く。その1はそこに至るまでの思考である。 1) 他メディアと比較した小説の特性 映像との違い:映像は、ある瞬間の事象、切り取られた空間情報で完結している。小説には前後関係がある。ある文章はそれ以前に配置された文章を前提に読まれる。また文字メディアは映像に比べて単位時間当たりの情報量がとても小さい 音楽との違い:音楽では、連続的に時間が流れる。曲の展開によってテンポや拍の変化があるが、基的には直前のリズム・小節を受けて次の旋律が展開する。曲形式、和音、拍のパターンなどあらゆる単位で音楽の変化は漸次的である。文字メディアは瞬間的に流れる時間、精確さ

    物語を駆動させるためのデザインその1 - end-of-scan
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    REV 2006/07/06
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