ただ、関係のなかで人は「罪」足りえる。 だけど、「罪」は許されうるかもしれないのに、その「罪」を逃れることで「愛」の可能性を失うこともあるのかもしれない。 そこが生きることの難所のようにも思うし、そうした難所にある人をあまり他人事には思えない。 でも、それは、語れば、欺瞞。人は、「罪」と「愛」の括弧を外して生きなくてはならないのだから。 私はこうしたことを考えるときティリヒを思い出す。 ティリヒはなぜこんな恐ろしいことを言うのだろう。 批判者になったり、反逆者になったりすることは、それほどむずかしすぎるなどということはありません。しかし、何かに対して妥協しない、自分に対してすら妥協しないで、しかも偶像礼拝に対する神の審きを告げることはたいへん困難です。その勇気ある行為が、苦難や殉教を招くかもしれないからというのではありません。失敗の危険を含むからです。私どもの意識のなかにある何かが、つまり
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