週報 2024/04/28 川はただ流れている 4/20(土) 初期値依存性 さいきん土曜日は寝てばかり。平日で何か消耗しているらしい。やったことと言えば庭いじりと読書くらい。 ベランダの大改造をした。 サンドイッチ 一年前に引っ越してからこんな配置だったのだけど、さいきん鉢を増やしたら洗濯担当大臣の妻氏…
「このさびしさをどしたらいいの」ということを延々考えて、人生単位で見てもそれはそれは長い時間を浪費しました。その中でまず気付いたことは「人はさびしいとおかしくなる」ということでした。ひっくり返すと、人がおかしなことやってるときは、だいたいさびしいんだよな。さびしさを動機にして人や自分を裁いても、よけいさびしくなるばかり。なにかを裁くということはなにかを切り捨てることだ。一度切り捨てられたものは時間が止まってしまう。もうそこからは何もうまれないのでした。さびしいのに、いろんなものをどんどん切り捨てて、自分さえも許せなくなって、狭く、小さく、よけいさびしさを募らせるばかり。おかしなことだ。さびしさとは無縁に見える、幸福そうなあの人と、わたしは何が違うんだろう。考えればなにもかも違うように見えたし、でも本当のところはどこがどう違うのかよくわからない。ただ、自分がさびしさにふりまわされていることだ
卒業式。 本学の学院標語のもとになった聖書マタイ伝の聖句を入学式、卒業式とあわせて16回拝読してきたが、これが最後。 不思議なもので、クリスチャンではない私でも聖書の同一箇所を4年にわたり16回も朗朗と読み上げていると、聖句の深みが身にしみてくる。 けだし儀礼の効用というべきか。 マタイ伝22章34節から40節とは次のような聖句である。 ファリサイ派の人々は、イエスがサドカイ派の人々を言いこめられたと聞いて一緒に集まった。その中のひとり、律法の専門家が、イエスをためそうとしてたずねた。「先生、律法の中で、どの掟がもっとも大切でしょうか」。イエスは言われた、「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。これがもっとも大切な第一の掟である。第二の掟もこれと同じように大切である。『自分を愛するようにあなたの隣人を愛しなさい』。律法全体と預言者はこの二つの掟に基づい
決定的な体験 もう一度、書こう。 いや、何度でも、繰り返し書こう。 それは、何の変哲もないありふれた日、前触れもなしに、突然やって来る。 ある晴れた夏の日、庭の樹の枝が、ゆっくりと大きく、音もなく揺れている。そして、たくさんの葉が、それぞれ異なったリズムを刻みながら、表になり裏になりして、小さな光の粒子を振りまいている。 また、ある雨の冬の日、窓ガラスを幾筋ものしずくが伝い落ちていく。速度を速めたり、遅らせたり。向こう側の風景を少し歪めて、上から下へ、ときどきは左右に蛇行しながら。 日々繰り返される、ありきたりの光景だ。 おもしろくもない。わざわざ記録する価値もない。 しかし、そんなあたりまえの光景が、ある日あるとき、突然、決定的な体験をもたらす。 何が起こったわけでもない。昨日とどこが違うわけでもない。 それなのに、ある瞬間、ぼくはハッと気がつく、「ああ、世界はこのようなのだ……!」 こ
1984年6月30日、私が当時住んでいた東京・目黒のアパートで、林直人くんと「アルケミーレコード」を設立した。昨日で満25年を迎えた。 設立したといっても、特に設立式をやったわけでもなく、林くんが我が家に泊まり込み、ふたりで幾晩も話し合った結果、アルケミーレコードという名前でレーベルをスタートさせようと決意しただけのことだ。 でも6月30日だったという日のことはよく覚えている。 アルケミーレコードとしての第一弾リリースは1984年8月25日、「ウルトラビデ/ジ・オリジナル」のLPで、ARLP-001という番号だった。第二弾がSSで9月25日、第三弾は10月25日でINUの、3バンドともそれぞれ1979年の録音源を形にしたものだった。 我々が後世に形にして残しておくべきだと思う音源を、記録媒体に残して一般に流通させること。古い音源、今のバンド、新しいアーティスト、問わず。 もちろんいいことも
OSAKA ELECTRIC AND ROCK DIARY OSAKA ELECTRIC AND ROCK (http://f13.aaacafe.ne.jp/~eandr/) のおまけとしてのblog "I'm an alien, I'm a legal alien I'm an Englishman in New York from"Englishman In New York"" 【素朴に分からない】 非モテ問題は、何が問題なのでしょうか? - どんなジレンマ http://d.hatena.ne.jp/hrkt0115311/20071126/1196088773 この方は相当に誠実な方だとお見受けしましたので、なんか安心して話ができそうな感じがします。 2005年09月03日 R/H/B で熱くなってしまった。 2005年09月05日 非モテの苦しみについて実はよくわかっていなか
来年も作りたい!ふきのとう料理を満喫した 2024年春の記録 春は自炊が楽しい季節 1年の中で最も自炊が楽しい季節は春だと思う。スーパーの棚にやわらかな色合いの野菜が並ぶと自然とこころが弾む。 中でもときめくのは山菜だ。早いと2月下旬ごろから並び始めるそれは、タラの芽、ふきのとうと続き、桜の頃にはうるい、ウド、こ…
ポロリとこぼしたのか勇気を出して伝えたかわからないが何かのサインかも知れなくて、明らかにそれは甘えだろうとわかる面倒なケースもあるとは思うが、 やはり軽々しく扱えないよ。 まあ、単に発言者の甘えであっても、その言葉自体もけっこうきついけど。 http://anond.hatelabo.jp/20090627231623 上記については、トラックバックツリーが伸びていて、下記レスも拝見しました。 自分にとっては自殺はもの凄いタブーだ、自分に関わりを持ってくれた人々にもの凄いマイナスを背負わせる事になるから 何があってもそれだけは選択したくない だからこそ、大事な人にはそうなって欲しくないから日頃から注意するし 早い段階で何か出来る事があればする事にしてる そういう人間にとって、死にたいなんて単なる友達レベルで言うのは甘えだし そんなレベルの甘えに付き合う時間と義務は無い
自分も気違いに見られることがあるし、そういう人に親近感を覚えてしまう部分も大きいけど、正義とかの信念をもっちゃう人にはついてけないなと思う。ああ、引くわ、俺、っていう感じ。 なにかが正しいと思える人っていうのは、私からすると、つまり相対的に気違いディスプレースメントが働くから、逆に私からは、気違いに見えてしまう。まあ、そんなことは言えないから、黙る。 ブログを始めたころ、いろいろ対話できないものかなと思ったけど、最近は、もう自分の限界がはっきりしてきた感じ。ああ、通じないやと2度思ったら、あきらめることにしている。負けることにしている。本当は、3度くらい我慢したほうがいいかなと思うけど。 というワケで、もちっと某氏の話相手になってやってもよかったようにも思うけどだめでした(自分が)。 あと、ついでに。 よく弁当翁、打たれ弱いと言われるし、まあ、そうなんだけど、ネガな人に、もうちょっとわかっ
小学生のころ→「あいつ完全に名前負けしてねぇ?wププwwwwww名前に顔が追いついてないwwwwまどか(仮)だって笑えるwwwwwそんな可愛くないしwwwwwww豚子でよくねwwwwww」 中学生のころ→「なんであいついるの?w」「ちょwおい皆ー!キモい豚がいるぞー!w」(弁解するようだが、私は太ってはいないはずである。ブスだが。) 給食当番時、白い帽子に前髪を全部いれていたら(本当はそうしなくてはいけないのだが、他の女子は皆前髪入れるとオシャレじゃないと、それを嫌がり前髪をキレイに出していたのでそうしているのは自分くらいのものだった)「だっせぇwwww」「ありえなくねwww」「ブッサイクがますますブッサイクになるからwwwやめてwwwwほんとwwww」「つーかさーお前なんで生きてんの?」「あー、○○さん!今日もキモいねぇ!^^」<クラスの皆がいる前でやけにハツラツと その言葉を無視すると
⇒「死ね!」と言われて自殺を図る子にコメント承認制は効果がない そこがポイントじゃないんだってば。 それと。 「死ね!」コメントはもちろんイケナイ物だと思うし、排除されるべきと思うのだけど、罵倒も含めてネガティブ言及をコントロールするのは難しく、その対策をサービスに要求してもすぐに叶えられるものとは思えないので、耐性を備えることができない人は「コメントを受け付けない」「アクセス解析を見ない」のが手っ取り早いのではないか、と思います。 あのね。 「「死ね!」コメントはもちろんイケナイ物だと思うし、排除されるべきと思う」に寄与できる部分があるとしたら、それはなんなの? とブロガーとして考えたということ。 あまり言いたくないけど、というかまた上から目線とかいわれたり頓珍漢な誹謗中傷受けるからやなんだけど、数千PVもあるようなブログのエントリに、「死ね」とか、知らない人の個人メールアドレスものがコ
ブログの運営のことでこれだけ悩んだのは久しぶり。いろいろ悩んだけどね。もうコメント欄を承認制にしますよ。みなさんもそうしたほうがいいですよ。ということにしました。 承認制というのは、コメントを書き込まれてもすぐには反映されないということです。私が判断して、これはないんじゃないかなというコメントはブログに反映しません。せっかく書いていただいたコメントも、私の承認がないかぎり、コメント欄に表示されないことになります。「死ね」と書かれたコメントは表示の承認をしません。みなさんからいただいたコメントを表示するかしないかは私が責任をもって決めます。 そして、もう一つ。ブログを持っているみなさんも、これから持とうとしているみなさんも、コメント欄を承認制にしたほうがいいですよ、とお勧めします。 「でも私の使っているブログじゃできません。はてなダイアリーにはそんな機能がないんです」という場合は、そんなブロ
id:y_arimさんのぶくまなんだけど⇒そういえば - finalventの日記 [blog][blogger][finalvent][web][communication][comment] ぼくは逆に、たまには自分のブログも炎上しないとつまらん。ストレスたまるけど、「おお、来たぞバカと気違いが。さあどうやって殴るかな」とゾクゾクするんだよ。そんなバカと気違いを愛しているのでコメント欄存置 : はてなブックマーク - Walk Out to the World Tower / 2008年06月04日 人がいろんな意見を持つことはいいのだけど。 まず、私はコメント欄を廃止しなさいというのではないよ。梅田さんが指摘されたようにそれはとても有益なものだ。だが、野放図に使える時代はもう終わったよということ。多少の不便をかけてコメント欄を承認制にしなさい。そうでないなら、「死ね」といったコメント
いじめ。学級崩壊。人類が21世紀を迎えてもう何年も経つというのに、教育現場では僕の子供時代と何ら変わることの無い問題が繰りかえされ続けているようだ。この辺りの問題は、単に教育問題というよりも、人類全体がずっと抱えてきた病気みたいなもんだから、さすがに一発で解決する方策を見出すのは難しいだろうと思う。ただ、少なくとも日本の学校教育においては、これらの諸問題を軽減する方法はあるのじゃないかと思う。それは子供たちに、ひとりぼっちでいることを許してあげることだ。 子供のころの僕にとって、学校を嫌いになる理由なんて無数にあったけれど、その中でも最も大きなもののひとつは、学校の中では、孤独が禁止されているということだった。構造として、制度として、学校はそういう風に作られている。学校の中で、ひとりぼっちでいると、ほんとうにみじめで寂しい思いをすることになる。大人になってから分かったことだけど、そのとき感
ここ2ヶ月ほど意識的に一人になるようにしている。人と会うのを必要最小限に減らして一人でパソコンやネットで遊んでいる。 ちょっと前までは「そういうのはあまりよくないかなあ、社会性をつけなきゃ」とか思ってたのだけど、最近は「自分で納得が行っていないことをしてても仕方ないよな。自分の不利なフィールドで闘っても負けるだけだし。好きなことだけやろう」という風に考えが変わってきた。 なんかもう、自分はそういう性質なんだな、という覚悟が固まってきたです。自分というものはもう大体出揃ってしまっているので、今あるこれで闘っていくんだな、という。28にして。 ずっと一人でいても寂しくなるというのはあるんだけど、人と長時間いるのは本当にだめだ。人と一緒にいるのも1時間から1時間半くらいまでなら結構楽しめるんだけど、2時間を超えるともう本当に帰りたくなる(だいぶん仲いい人ならまたちょっと違うけど)。 2時間という
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