インスパイア元:http://d.hatena.ne.jp/matakimika/20060414#p1 id:matakimikaさん記事の本筋とは離れますけど、掲示板引用部分の、 「ローダンは別にして、1000冊読めば国内で読めるSF作品を大体網羅できる」 「共時的な感覚も、それ自体すでに貴重な体験だから。」 っていうのを読んで、なるほどもしかすると「ラノベっていうジャンルがローダン」なのかもと勝手なことを思った。ラノベユーザらはいままさに貴重な共時体験をしながら大量にラノベを読み込んでいて、近い将来、ローダン読者が後発のSF読者に羨ましがられたのと同じ構造で、羨ましがられる立場になるんだろうな、と思った。 もちろんローダンという「シリーズモノ」とラノベっていう「ジャンル」を比較するのはスジ違いって言われるとその通りかもですけど、「将来その体験を羨ましがられる一ジャンル」っていう一点に
○○者としてまず一人前と言われるためには○○冊くらい読んでおけ、みたいな話は昔からよく聞いたけど、ていうか今はほとんど聞かないんだけど、いまでもそういう話の通用している界隈がないものかなーと思って検索してみたら、あった。SF 者は 1,000 冊読んで一人前らしい。 2ch スレッド「HAMACON2 は、ジュール・ヴェルヌの夢をみるか? 」 http://book3.2ch.net/test/read.cgi/sf/1093256099/ 269 :名無しは無慈悲な夜の女王 :2005/03/29(火) 02:49:49 >>268 お前 1000 冊読んでるか? 読んでないならそれを言う権利はないぞ。 272 :名無しは無慈悲な夜の女王 :2005/03/29(火) 11:40:31 1000 冊っていうその数字に根拠はあるのかな。 いや、単純に気になったんで。単なる思い付き? 某板に
面白いブログを書いてちょう人気ブロガーになりたいのに、最近スランプで面白いエントリがビタイチ書けません。どうしたら面白いエントリを毎日バンバン書けてちょう人気ブロガーになれますか?他人のブログを読むとか面白いネタが浮かぶまで待つといったブログ論以外で、具体的なソリューションをお願いします。http://q.hatena.ne.jp/1144077840 この質問はネタか釣りかという気もしつつ(一部表現がテラヤマアニさん的だとかも思いつつ)、けっこうそう思っているひとは多いのかもな、と思う。というのも、先日yakalikeでチャットしたときに(id:TRiCKFiSH:20060120:p1)、あるひとが「ブログって人気が出ないと続ける気力がわきませんよ」みたいなことを言っていて、そうなのかぁと思った。 僕なんかはこのブログを始める前は、さるさる日記でコソコソ書いてたんだけど、それは目立ちた
「ジャパニメーション」はなぜ敗れるか (角川oneテーマ21) 作者: 大塚英志,大澤信亮出版社/メーカー: 角川書店発売日: 2005/11/10メディア: 新書購入: 3人 クリック: 56回この商品を含むブログ (67件) を見るhttp://www.kadokawa.co.jp/book/bk_search.php?pcd=200507000113 おたく市場4000億円の実態 日本のまんが/アニメはなぜ敗れるのか ハリウッド、日本のまんが/アニメ戦争 日本のまんが/アニメの発端は、戦前のハリウッド、ディズニーの模倣、戦時下の統制にあった。戦前のまんが入門、戦争と透視図法、大城のぼる「火星探検」、手塚治虫「勝利の日まで」、萌え市場、産業としてのサブカルチャーまでを徹底分析。今また戦時下にある、まんが/アニメの本当の姿とは何か―。 日本のまんが/アニメは何処からきて、何処に向うのか
このほど、東京・池袋の西部百貨店で開催中の渋澤龍彦展をみた。 まさに、驚異のドラコニア・ワンダーランドである。”ドラコニア”とは、渋澤龍彦が自身で名づけた「幻想の王国」のことである。 没後7年、この稀代の万有博士、幻想派の初公開の創作ノート、生原稿、書簡類をはじめ、初版本、ドクロ、鉱石などの収集品が所狭しと展示され興味深かった。 書斎は北鎌倉の家に生前のまま、残されているという。蔵書に囲まれた机の上の原稿用紙。刀の鍔の文鎮。地球儀。また、ハプスブルグ家の皇帝たちがプラハ城内に設けていた世界中から珍奇な集めた”妖異博物館”に想を得て収集された文字どおりのドラコニア・コレクション。そこには、異様な愛らしい形をした貝殻、石、鏡、時計、アストロラープ、貞操帯など、幻想王国のおびただしいオブジェがあった。 また、幻想画廊にはシモーネ・マルティーニ、ピエロ・ディ・コージモ、ルーカス・クラナッハ、パルミ
内田樹氏が、ブログで先の村上春樹による安原顯批判に触れている*1。安原顯の村上春樹(あるいは文学)に対する愛憎について書かれてあり、興味深い内容であった。この文章のなかで、私が引っかかったのは、次の箇所である。 死を覚悟した批評家が最後にした仕事が一人の作家の文学性そのものの否定であったという点に私は壮絶さに近いものを感じる。 どうして村上春樹はある種の批評家たちからこれほど深い憎しみを向けられるのか? この日記にも何度も記したトピックだが、私にはいまだにその理由がわからない けれどもこの憎しみが「日本の文学」のある種の生理現象であるということまではわかる。 ここに日本文学の深層に至る深い斜坑が走っていることが私には直感できる。 けれども、日本の批評家たちは「村上春樹に対する集合的憎悪」という特異点から日本文学の深層に切り入る仕事に取り組む意欲はなさそうである。 私は以前にも書いたが、村上
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『オール讀物』2006年3月号「第134回直木賞決定発表」より。 (『容疑者Xの献身』で、第134回直木賞を受賞された、東野圭吾さんの自伝エッセイ「楽しいゲームでした。みなさんに感謝!」の一部です) 【そして7月2日の午後7時半頃、運命の電話が鳴った。 「おめでとうございます」 この台詞を耳にした時には、頭がくらっとした。新しい世界への扉が開かれる音がはっきりと聞こえた。 事実、それからほんの少しの間はバラ色だった。単行本の『放課後』は十万部も売れた。週刊文春のベストテンで1位にも選ばれた(当時が乱歩賞作品が1位になるのがふつうだったが、そんな事情は知らなかった)。 しかしそんなものが長く続かないことは私にもわかっていた。ここが勝負所だと思った。それで会社を辞めて上京することを決心した。 ところが上京後に会った編集者は明らかに困惑していた。 「あんなにいい会社、よく辞める決心がつきましたね
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呆冗記 人生に有益なことは何一つ書かず、どーでもいいことばかり書いてあるぺえじ。 ある物語を発禁にせよ さて、『ドリトル先生物語』をようやくフルコンプリートすることに成功したのだ。いやあまいったまいった。廻った本屋がかれこれ10軒以上。数年振りに某若者向け百貨店の本屋まで廻ってしまった。かの昔は『君よ憤怒の書架を漁れ』(出典は『北極星人』)などと嘯いて本屋周りをしたものだが、最近はトンとご無沙汰だったのだ。 だいたい、岩波少年文庫というやつ、買い切りの所為か非常においている本屋が限定される。北海道最大の本屋『コーチャン・フォー』にすら全品揃っていなかったのだ。どうすればいいのだ。 『紀伊国屋』にもなく、『旭屋』でっも揃わない。『大正堂』『パルコ・ブックセンター』エトセトラ・エトセトラを廻ってようやく入手したのだが、しかしパルコのブックセンターの隣、『ポスト・ホビー』の品揃えの変化にはおのろ
今更の報告になっちゃったけど、先週は映画の「キングコング」のレビューを書いてみた。 ピーター・ジャクソン監督版「キングコング」のレビューというか感想 http://www.geocities.co.jp/Playtown-King/4566/textking/textking2006/kingkong.html まー、あれは疲れたね。 その前のローゼンメイデンの感想も疲れたけど、キングコングも大変だった。 まず、序盤にその作品の基本的な説明書くのが、すごく面倒くさい。 正直言ってあんなの書きたくないわけです。自分としては、そんなのより早くさっさと本題に入りたいわけですよ。 でも、あの辺ないがしろにすると知らない人はよく分からないだろうなあなんて思ってしまって、キングコングという映画の歴史からピーター・ジャクソン監督との関係まで、序盤はひたすら説明文。 こういうのでどんどん文章が長くなってし
ホームページをぼんやり見ていて、すごいページを見付けました。 小説家になりたくて投稿している人たちのページですが、小説をアップして「酷評」しあおう、というものです。 で、ちょっと読んでみたんですが、なんかこう、胸が悪くなってしまいました。 切磋琢磨して上手になっていこうね、という趣旨はすごくよくわかるのですが、酷評からは何も生まれないですよ。少なくとも、私は酷評はされたくないですね。 私は、小説教室に通ったときがありましたが、その教室では生徒たちが批評しあうのを禁じていました。先生が批評をするのはいいんですが、生徒同士はダメなんです。理由は、ミスリードしやすいし、感情的になりやすいから。 酷評を受けて、悪いところを無くしていったら小説は良くなるのか? 私は違うと思う。 プロ作家の書いたものでさえ、つっこみどころはあります。 たとえばの話、アニメになってすごい売れ
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