ブックマーク / nov1975.hatenablog.com (26)

  • mixiの規約改正問題は本質的には著作権の問題ではない - novtan別館

    単なる著作権の問題だったら、例えば無断で出版(そういえば運営がじゃないけどコミュニティーでの出版問題ってあったな)とかそういうのは問題になるかもしれない。SNSじゃなくてオープンなblogだったら、公開する時点でいくつかの点において暗黙の了解を示しているとも言える。でも、mixiってクローズドであり、半プライベート、関係性重視のサービスであることが商品性のメインなんだよね。そこを揺るがすような文言があってはならないというか、自ら価値を毀損する行為といってよいでしょう。 ありていにいえば、プライバシー的な情報に対する権利のコントロールを委ねるのはキモチワルイ。これが一番の問題。また、退会した後コントロールできないコミュニティーの書き込みの問題。 mixiの運営だって、実際にはこの辺の中身をコントロールしたいという話ではないと思うんだよね(許可を取って何かをするときに出来るだけスムーズに、とい

    mixiの規約改正問題は本質的には著作権の問題ではない - novtan別館
    azumy
    azumy 2008/03/05
    自分はこの記事で書かれていることが最も気になっている。非公開部分はあくまで非公開であることをユーザ側はどのように守って行けるのか。結局ローカルか。
  • 箱根駅伝の件について補足 - novtan別館

    いくつかブクマコメントを頂いたので補足。 aozora21 『映像と解説だけあれば十分』/誰かが倒れるのなんて、できるだけ見たくないですよね。 そうですね。演出で無いなら尚更。 ryankigz 途中棄権とか繰上げとか、あと「タスキの誇り」とかそういう物語を、みんなしておせちと一緒に消費してる/まあたしかに24時間よりは半万倍マシ 確かにもはやお節なみ。誰だこんなことにしたのは。 hebomegane うー。でもね。演出なしで今テレビでやってるようなストーリーになる。同じ釜の飯って、何年も辛い練習こなして、強い絆が出来て。で、仲間の好走を自分がふいにしてしまったとか。高校や中学の駅伝でも同じだか 実際に繰り広げられるドラマはそうなんだということはもちろんわかるんですけど…そんなものはアナウンサーにより抉り出す必要は無いと思っています。 morutan 24時間テレビ的な作ったドラマは嫌い

    箱根駅伝の件について補足 - novtan別館
    azumy
    azumy 2008/01/07
    スポーツはまぎれもなくエンタメです。少なくとも競技者と関連のない観戦者にとってはそれ以上でも以下でもない。記事中の「エンタメ化」の意味するところは分かっているつもりだけど、少し引っかかった。
  • 「気持ちはわかる」けれども - novtan別館

    「気持ちはわかる」と言う言葉の後には大体「けれども」と続く。つまり、気持ちはわかる「のに」否定をしなければならないときに止むを得ず使う言葉。少なくとも僕はそう思っているのだけれども。 じゃあ何でわかるのに否定するのか。それは、その感情なりその論理なりはある文脈では適用できるし、その場合どうしてそういいたいか、と言うのがわかる、ということであって、また、今の文脈ではそれは適用不能であるから、そのベースの考え方そのものを否定しているのではなく、むしろ肯定したい気持ちがどこかにあるのだけれど、それでもなお、今ここでそう言われることを首肯することは出来ない、と言うことなんだろう。 もちろん、その肯定しうる文脈において、必ずしも僕の想定しているものと相手の想定しているものが同じとは限らない。同じでなくても適用できるかも知れないから。そういう意味では、「わかっていない」のかも知れないし、誤解しているの

    「気持ちはわかる」けれども - novtan別館
    azumy
    azumy 2007/10/28
    共感と同意は別もの。感情と理屈は別もの。そこを切り離せる人と切り離せない人の違いだろうか。私はこの記事には共感する。
  • 悪意とは何か - novtan別館

    少なくとも悪意の一つの形態は、嫉妬から来るものではないか、と僕は思う。 しかし、早い子は5〜6歳頃から、おおかた小学生以降になると、これは悪意である、と思われるものが見られるようになる。最もわかりやすい形は、いじめだ。 この萌芽がどこにあるのか、に興味がある。 悪意について。悪意とは。 - 深く考えないで捨てるように書く、また これはいじめにあった側からするとなんとなく。でも、その嫉妬そのものは、単に相手が自分より優れたものを持っている、と言うことに対するものではなく、もうちょっともやもやしたものなんだろうな。当にたまたまそのときだけ、例えば自分が好きな子が他の人と楽しそうにしている、とか。普段は気にも留めないことで。ある意味ではそれは怒りなのかも知れないけれども、とにかくそういう感情を単純な形で発露できなくなる…それは社会性の醸成とともに身に付けるある種の処世術なのでしょうけれども…こ

    悪意とは何か - novtan別館
    azumy
    azumy 2007/10/23
    『つまり、悪意とは、ターゲットへの悪感情そのものではなくて、自分が溜め込んだ感情的負債の表出なのだろうと。』これは悪意の元の一つとして納得。なんでこんな普通の人に悪意を?というパターンでありそう。
  • 感性を重視しすぎないこと - novtan別館

    どこからどこまでが正しい日語か、と言うことについては非常に難しい問題だと思うけれども、意思の疎通のための思考の共通化としての言語を考えると、言葉にはある程度まではルールがあり、それを逸脱した感性を認めることはやぶさかではないのだけれども、そこで共通認識を得られないことで社会からも逸脱するのが人の意思であるかどうかは俄かに決定し難い。だから、感性は殺したくないけれど、文法は学ばせたい。矛盾した問題かも知れないけれども、およそ芸術的型破りと言うのはある程度型があってこそだと考えると、幼少にはできるだけ正しい言葉を聞かせたいと思う。 たとえば、みっつめの「花輪君〜」の文章は、詩として通用するものだと、私は思う。なんてよい文章なのだろう。文法がおかしいとか、論理が変だとか、そういうことを超えて、「花輪君は〜」の文章はよい。「ので」でつながっているからこそ、この文章はよいのだ。 http://d

    感性を重視しすぎないこと - novtan別館
    azumy
    azumy 2007/10/22
    この「ので」文は私は全然よいと思わなかった。だがよいと思う人もいる。それこそが感性であり、個々に違うもの。他者に教育できるものではないんじゃないかと思う。
  • 声の到達度 - novtan別館

    Web上において、自分の書いたものが衆目に晒される手段として一番なのは、声を大にすることではなくて、Yahoo!のトップページに載ることである。日では。個人のページが載る事はめったに無いけれど、「みんなが知りたいとYahoo!が思った」記事が載るわけだ。大抵はニュースなんだけど。 Webでの声を大にする行為ってのは、まあ例えばブロゴスフィアではトラバを送りまくるとか、コメントをしまくるとか、リアルで有名になるとかで集客力を確保する、と言うことにほぼ等しい。もちろん、ブログの内容が伴わないと仕方が無いのだけれども。はてななんかは到達度を上げるシステムだと思っているし、実際に僕のこの一連の駄文もはてなじゃなければそうそう人の目に触れることは無かったんじゃないだろうか。特に、ある程度のアクセスを稼ぎ始めてから感じるのは、エントリごとの差異。エントリごとにこれだけの差異があるのははてブと言う力だ

    声の到達度 - novtan別館
  • 別に誠実に対話したからと言って分かり合えるわけじゃないんだよね - novtan別館

    悲しいかな。努力はすべきだと思うし、過程が無駄だとは思えないけれど、その人間性において立脚すべき点があまりに違うと、表面上の納得は可能かも知れないけれど、心底分かり合うってのは難しいと思う。 いろんな議論を見てきて、不毛かなって思うのは、その譲れない一線的な部分があまりに程度が低い、と言うと上から目線みたいだけど、それ大事じゃないだろ、と言うところに固執して絶対にそこだけは譲らないというような論理を(表面上はそう見えないように)まくし立てる、と言うあたり。底意地の悪い、誘導的尋問をするような人たちにどうもそういう傾向が見られるような印象はある。 僕は嘘を吐くことになっても、あるいは考えをころころ変えるような軽薄な人に見られても良いからそういう頑迷さとは無縁でいたいと思っている。けれども、僕が大事に思って譲らない何かも人から見たら頑迷さの象徴なのかも知れない。難しい。程度の低いものだからこそ

    別に誠実に対話したからと言って分かり合えるわけじゃないんだよね - novtan別館
    azumy
    azumy 2007/10/05
    何を「分かり合う」のか、なのだ、たぶん。理屈か。心理か。スタンスか。感情か。何が分かれば分かったことになるのか。
  • 自分の価値観による断言 - novtan別館

    物事を評価する基準は色々あるけれど、断言してしまうときにちょっと気をつけないといかんなあと思うのは、価値観による判断をしたとき。断言をするっていうこと自体は、別の他の意見を認めない、と宣言していることとはイコールではない。あくまで「自分の中では」そうだ、と言うだけのこと。ただし、その自分と言うのは言葉としては発せられないことが多い。あるいは、適用範囲が自分に留まらない。 後者の場合は、よっぽど的を射た内容でない限り、反発を招く。一番ありがちなのが、自分が持っている、あるいは知っている属性全てに適用されると言ってしまうことだ。「普通の男は」とかそんなの。その普通は誰の価値観か。断言できるのか。アンケートでもとったならともかく、(全体から比べると十分に)数少なく、偏っている可能性があるサンプリング(つまり、個人的経験)のみを拠り所にして断言してしまっても仕方が無いだろう。 断言をするときは、適

    自分の価値観による断言 - novtan別館
    azumy
    azumy 2007/09/30
    断言は自覚的に使う手段だと思う。私の目に映る世界ではこうなのだよ、あなたの見ている世界とは違うかもしれないが、と伝えるために。言葉のデザインに属する話かな。
  • リア充って一体全体何のことだかさっぱりわからない - novtan別館

    と思う。特にここ最近(の話はよく読んでないんだけどね、実際)。 アンサイクロペディアによる定義、つまり、仮面を表わす言葉であるならばはまあわかるんだけど、そうじゃない場合、その人において何をもって充実しているかわからないのにそういう言葉を使うということ*1は相手を自分の価値観により相対化したいということなんだろう。 「充実している」。予定が埋まっているだけのことを充実しているとは言わない。精神を満たす場所が必ずしもリアルである必要があるかというと、そんなことはないから、リアル+充実という言葉そのものに何か実効性能があるのかどうかもわからない。 ついでに言うと、非コミュも非モテもわからない。非が排除を意味しているのか不能を意味しているのか解脱を意味しているのか逃亡を意味しているのかがわからない。 ある特徴をもった属性を一つの概念にまとめてしまうことは言葉を使用する側からするとわかりやすくてよ

    リア充って一体全体何のことだかさっぱりわからない - novtan別館
    azumy
    azumy 2007/08/20
    「私はリア充」という用法は原則としてないようだからやはり相対化なんだろうな。
  • 踏み込んだり、踏み込まれたり - novtan別館

    自分のことはきっと理解されないし、僕も相手のことを理解できない。そう思っていた。僕にとって、理解すると言うことは何よりも大事なことで、理解できないものを遠ざけるのは、自明なことと思われた。 今になって思う。当は、踏み込まれたかったんだけど、一線を越えることが怖かっただけだった。 少なくとも、少年期の僕は、そこそこみんなと仲良くして、そこそこ壁を作っていた。理解し難い部分で苛められたりもしたけれど、自分が踏み込まれたくないという自覚はあった。あいつらはバカで、自分は賢い、そう思ってやり過ごしていた友だちも、居た。僕が作っていた壁は、心の中だけのことで、きっと普通に友だちづきあいをしていたと思う。 高校に入って、自覚した。僕は人付き合いが下手なんだな。踏み込まれたくないんじゃなくて、当は、踏み込まれたいのに、怖くて避けているだけだって。こちらからアプローチして壁を壊すこともできるけど、怖い

    踏み込んだり、踏み込まれたり - novtan別館
    azumy
    azumy 2007/08/08
    これが一番自分にとってはフィットする。結局これでいいんじゃないか、と。
  • 人を信じること - novtan別館

    信用と信頼の違いと言うことについての各人が考えているニュアンスと言うのは微妙に異なると思うけれど、この二つは似て非なるもので、どちらかがあれば良いものでも無いと思っています。ちょっと検索してみたけど、人によって解釈が全然違うね。と言っても言葉の意味が逆になるだけなのがほとんど。中にはどちらかからはじまり、どちらかへ昇華していくもの、ってのもあったけれど。 いずれにしても、信じるには2種類あって、大雑把に言うと、全部を信じることと、部分を信じることに分けられるみたい。 人を信じることは自己判断で、その判断が間違っていたからと言って「相手が自分を裏切った」と思うことは自分の判断が誤っていたことに対する言い訳にしか過ぎないのはわかっているけれども、その自分の判断を含めて「信じたい」から信じている。だから、裏切られるのことを想定しつつも、「それはないはず」としてその人の全部を信じる、と言うのが僕に

    人を信じること - novtan別館
  • 左利きだと楽器を弄るのに不利か? - novtan別館

    そういえばジミヘンも左ギターだったな。 世の中、どうしても左利きはマイノリティーだから、費用対効果として左利き専用のものが出てくるのは、ニッチを意識した商品か、左利きであることが武器になるものが対象だろうね。個人の技量を競うものについて、矯正した方が有利になるのであれば尚更。ゴルフクラブなんかはレフティーがあるけど、もともと人間が行う自然な動作ではないことをやるんだから、道具の選択肢が多くある右用で練習した方がよいかも知れない。野球は左利きの方が(マイノリティーであるがゆえにと言う点と、一塁が右打席の方が近いと言う点で)有利だから矯正されないほうが多いね。 さて、楽器。楽器で右利き左利きが問題になる場合のほとんどは弦楽器じゃないだろうか。それ以外の楽器について、少なくとも最終的な目的である、演奏することについてあまり右左の重みはないように思える。 弦楽器(バイオリン類) 構造上逆向きにし辛

    左利きだと楽器を弄るのに不利か? - novtan別館
    azumy
    azumy 2007/07/08
  • 嫌だと感じること - novtan別館

    天声人語でスモーク・ハラスメントなる言葉を知る。そうか、時代はそこまで行っていたんだ。 僕は、タバコを吸わない。吸う意義を感じないからだ。少なくともニコチン摂取ということについては。お酒は飲むから嗜好品としてタバコを吸うことを理解していないわけではない。どうせなら葉巻とかパイプにしてくれよと思わなくは無いけれど。発泡酒見たいものなのだろうか。まあこれは吸わない人としての戯言。 何度か表明しているように、僕がタバコで我慢ならない点は、街中で火とか灰を撒き散らすことが一つ。実際に危うく火傷しそうになったことは何度もある。幸い、なんとか避けているけれど。もう一点は、自分が吸っていないのに家に帰るともちものがタバコ臭くなっていることがあること。 タバコが嫌いな人にタバコを吸うことを強要するなら、それはきっとスモークハラスメントだろう。周りの人がタバコを吸うことで間接的にタバコを吸うことになる、とい

    嫌だと感じること - novtan別館
    azumy
    azumy 2007/05/20
    「嫌だ、と思うことが人間の精神活動における大事な部分を占めていることに今更ながらに気付く。異質なものを受け入れ続けるのためには人間の精神は能力が足りないようだ。」
  • 偽コミュ者 - novtan別館

    えらそうなエントリでブクマを集めておいてなんですが、僕の質は、根的にはコミュニケーション不全。 確かにある一線を超えて脱却したような気はするし、歳を取るにつれ全くの他者からの反応には鈍感になって行き、社会人としては必要最低限どころか交渉能力や説得力の点では自画自賛してもいい思えるくらいではあったりするのですが。 一人でいるのが好き。人と話すのは嫌いじゃないけど、自分の話優先。出かけるのは好きだけど、誰かを誘うのは面倒。予定が思うとおりにならないとイライラするし、なんで自分のことをわかってもらえないんだろうと思う。当の自分は今の自分じゃないと心の中で否定してみたり。大勢と話していると、いろんな話題が気になって、それは話題だけに興味があって話している人には興味が無い証拠。自分の内面なんて他人に語りたくも無い。 どう考えても不全。 僕の場合、ある一つのツール(趣味ね)でなんとか外界と接点を

    偽コミュ者 - novtan別館
    azumy
    azumy 2007/05/15
    この程度で不全になってしまうのかなあ。そうすると、世の中完璧なコミュ者なんて全くいないような気がしてきてしまう。
  • サークラの話に違和感 - novtan別館

    サークルに限らず、あるコミュニティーを崩壊させるだけの力と戦略を持った人がいるのは間違いありませんが、色々な事例を聞く限り、いくつかの共通した要因があるように思われます。 権力者に入る情報の一元化 問題解決の場を設定しないコミュニティー 風聞でしか伝わらない人の情報 これって、ある特定の人物が入ってきたことにより顕在化したコミュニティーの脆弱性に過ぎないんじゃないでしょうか。どのようなコミュニティーにも存在するような。 サークルクラッシャーとレッテルを貼られる人は、確かにこの脆弱性を突くのが上手く、意識的にか無意識的にかはともかく、それを利用して自分の立場を持ち上げようとしているのでしょう。でも果たしてそれは責められるべきこと?皆が同じ価値観を持ち、同じように考え、同じように行動するようなコミュニティー(それは数少ない例外を除いてありえない)で無い限り、自分の生来の何かを生かして立場を得る

    サークラの話に違和感 - novtan別館
  • あるがままとは。 - novtan別館

    社会っていうのは、人間と人間が作り上げた規範とその上で行われる交流によってなりたっているわけですよね。大雑把ですが。新たな命が生まれて、動物としての人ではなく、色々な思いを抱えて生きる人間に育て上げるのは、社会の役割であるし、その最も身近な体現である家族の役割です。確かのその個にとって何が幸せなんだかはすぐにはわからないかもしれないけれども、わからないから個性に任せると言ったとき、それは単なる責任放棄。能のままに生きろ、すなわち社会生活に適応させる機会を奪うということに他なりません。人間として生きるすべを自分で身につけることなんてそうできるものではありません。少なくとも幸せな方法では。「動物としての人」らしくあれ、なんていうのは未来に対する責任放棄ですよ。少なくとも、先人がここまで作り上げてきたものによって自分が存在しているということについて全く無視しているわけです。 個性なんて規範の先

    あるがままとは。 - novtan別館
  • コミュニケーションの目的 - novtan別館

    先のエントリ、人心掌握術 - novtan別館で何を書きたかったかというと、コミュニケーションをスキルと見做す人たちは、一体何を求めているんだろうかってこと。コミュニケーションのスキルと言っても目的に応じていろいろと使い分けなければならないものだから、これこそがスキル的な単純化というのは非常に危険な発想ですよね。人心掌握術ってのはコミュニケーションというよりは人間操縦のスキルだし、相手の勘違いを上手く利用するものだから、それに相手が気付いてしまったときには目も当てられない結果になるわけです。 じゃあコミュニケーションのスキルってのは何かって問われると、やっぱり色々ありすぎて答えに窮する。そもそもそこでコミュニケーションって言っているのは一体どこまでのことなんだろう。 前にコミュニケーション能力の変遷 - novtan別館として書いたものは、表面的にやりとりする部分は場数だよ、ということに過

    コミュニケーションの目的 - novtan別館
    azumy
    azumy 2007/05/05
    対他者コミュニケーションは歳をとることで苦にならなくなる傾向があると感じる。経験もあるし、他者から見られる自分が醜い(拙い)かもしれないことを苦にしなくなる、という点も大きいかと。
  • 飲み会での酒に対する態度の類型のまとめ(叩き台) - novtan別館

    飲み会は行くよ派 お酒飲めるよ派 俺の酒を飲め派 全ての酒は俺のもの派 お酒は味わうもの派 飲めれば何でもよい派 みんなで楽しく飲む酒がいちばん美味しいよ派 お酒は飲めないよ派 今日車だよ派 医者に止められてるよ派 飲むと潰れてつまらないよ派 飲むと酒乱になるから嫌だよ派 飲んだら失言するよ派 お酒なんて美味しくないよ派 人に飲まされる酒は美味しくないよ派 俺がしっかりしてないとみんなが困るよ派 お酒飲めないけどいっぱいべるよ派 飲まない人も均等割りなのは嫌だよ派 飲み会は行かないよ派 人付き合いが面倒だよ派 酔っ払いは嫌いだよ派 お酒は見るのも嫌だよ派 飲めないからつまらないよ派 お酒は一人で飲みたい派 飲み屋の酒はまずいよ派 お金が勿体無いよ派

    飲み会での酒に対する態度の類型のまとめ(叩き台) - novtan別館
    azumy
    azumy 2007/04/25
    「飲み会は行かないよ派」に「おうちの人(パパとかママとかオクサマとかダンナサマ)に行っちゃダメって言われてるよ派」を付け加えてください。
  • 書くことで固着する - novtan別館

    頭の中の思考は、必ずしも言葉にはならなくて。論理も感情も、全てごっちゃになった何か混沌としたものを取り出していく。取り出していくスピードとは2桁は異なるだろうスピードで通り過ぎていく思考。何度も何度も考えながら、少しずつ取り出していく。書き始めたときの思考は消え去り、残ったものは思考の残滓。表現できるのは思考の残滓に過ぎないんだよ。 取り出していく過程で表現し切れなかったり、自分を納得させながらウソや虚構で固めていった言葉たちで何がわかると言うのだろうか。 それでも、何かを書いたことで自分がなにものかがわかることはある。言葉は偉大だ。 当の自分なんて他人が完全に理解することはできないのだから、いや、理解できることが人との繋がりであるわけじゃないのだから、それでよい。そして、求めているのは言葉以外の場所でのつながり。 一度アウトプットした思考は、だから自分そのものとはいえないけれど、実体の

    書くことで固着する - novtan別館
    azumy
    azumy 2007/04/18
    「表現できるのは思考の残滓に過ぎないんだよ。」
  • コミュニケーション能力の変遷 - novtan別館

    とにかく人に話しかけるのが嫌いだった。単にどんな反応が返ってくるかわからないことを恐れていたんだと思う。電話は嫌いだ。顔が見えないからどんな反応をされているかわからない。話しかけられることは嫌いじゃない。自分がどのように反応するかの問題に過ぎないから。でもウインドーショッピングしているときに話しかけてくる店員は勘弁な。 こんな僕が結婚式の二次会幹事を立て続きに頼まれるなんて世も末成長したものです。 げに恐ろしきは社会経験で、少なくとも人に話しかけて反応を窺うことは全く苦にならない。ぶらぶらと店の商品を眺めていて話しかけられても当たり障りの無い話をして流すことが出来る。なんという成長! 少なくとも、こういう表面的なコミュニケーション能力を養うのは完全に経験値。どんなに引っ込み思案であっても、この手のコミュニケーションが自分の中に切れ込んでくることはほぼ無いから安心して適当に話すことが出来ると

    コミュニケーション能力の変遷 - novtan別館
    azumy
    azumy 2007/04/17
    経験を積むとテクニックを身につけると同時に、未知のものに対する恐怖感・不安感が軽減されるというのもありますね。