米国の白人警官による黒人男性暴行死事件を受けた抗議運動が欧州にも波及する中、ベルギーでは旧植民地コンゴ(現在のコンゴ民主共和国)で圧政を敷いた元国王レオポルド2世(在位1865~1909年)の像が破損される例が相次いでいる。北部のアントワープ市は9日、屋外で火を付けられた像を撤去した。 地元メディアによると、アントワープの元国王像は6月上旬に放火され、塗料をかけられた。市は撤去した像を修復するが、屋外には戻さず、将来的に市内の博物館に収蔵…
デンマーク東部オーフスで、ベルンハルト・アルプ・シンドバーグ氏の像の除幕式に出席したマルグレーテ2世(左から3人目、2019年8月31日撮影)。(c)Bo Amstrup / Ritzau Scanpix / AFP 【9月1日 AFP】デンマークで8月31日、1937~38年に起きた南京事件での英雄的な行動で知られるデンマーク人、ベルンハルト・アルプ・シンドバーグ(Bernhard Arp Sindberg)氏の銅像の除幕式が、同氏の故郷であるオーフス(Aarhus)で行われた。 シンドバーグ氏の顕彰を望んでいた南京市がオーフス市と共同で制作した像の除幕式には、デンマーク女王のマルグレーテ2世(Queen Margrethe II)も出席した。 シンドバーグ氏は事件当時、人々を工場の敷地内に入れて保護したという。(c)AFP
第一次世界大戦後のハンガリーで日本の皇族を新国王として迎えようという動きがあったという件、今まで調べる気にならなかったので放置してきたのですが、1920年にハンガリー議会に議案が提出されたってマジですか……。話には聞いたことがあり… https://t.co/kqzldDZxdc
イラン・タブリーズにある中東最古のバザール。世界中でもっとも長い商業施設で、ユネスコの世界遺産にも登録されています。残念ながら、焼失してしまった。 ノートルダムと違って全然ニュースにならなかった。 https://t.co/quG62EMqO2
【ブカレストで三木幸治】ソ連崩壊につながった1989年の東欧革命で唯一、多数の市民の流血を伴ったルーマニア革命。チャウシェスク独裁政権崩壊後に発生し、850人以上が犠牲となった銃撃戦について、後に政権を握るイリエスク元大統領(89)の元側近が「テロリストの攻撃」をでっち上げて引き起こしたものだったと事実上認める供述をしていたことが、同国検察関係者への取材で判明した。イリエスク氏ら元共産党幹部や軍はこの銃撃戦を機に新政権を樹立。革命は市民デモに乗じて政権を奪取した「盗まれた革命」との見方があるが、その説を有力視させる証言だ。 ルーマニア革命を巡る経緯には不明な点が多く、中でも銃撃戦の発生原因は最大の謎とされてきた。同国検察は先月8日、イリエスク氏を偽情報を流して銃撃戦の混乱をあおったとして人道に対する罪で起訴。今後の公判で元側近の供述など捜査の詳細を明らかにする方針とみられる。
本書は、従来、教科書などでは取り上げられてこなかった、ポルトガル人の日本における奴隷取引の歴史に焦点をあてた本である。ヨーロッパ人の日本への来航やキリスト教布教は、いまだ、情緒的あるいは浪漫的に語られることを常とする。そこに人身売買のような生々しい事実が組み込まれることは、敬遠されることが多い。またそれだけではなく、戦前にはすでに先行研究があったこの分野の研究がほとんど進展しなかった背景には、奴隷貿易の実態を、史料の分析を通じて、より具体性をもって描くことができる研究者の不在があった。著者であるルシオ・デ・ソウザは、これまで英語や母国語でポルトガル人の奴隷貿易に関する研究を発表してきたが、日本においてとりわけこの分野についての知的欲求が高いことに鑑み、日本語で研究の一部を発表することにした。翻訳された文章の整理のみならず、内容についても、より日本人に分かり易いものとするため、南蛮貿易研究を
潔白であることが証明されるまで聖人は常に罪人であると判断されるべきだ。しかし彼らに対してなされる試問はもちろん全て同じというわけではない。ガンジーの場合、問いたくなる質問はこうだ。ガンジーの行動はどの程度まで虚栄心……礼拝用の敷物の上に座り、純粋な精神の力によって皇帝を振り回す腰の低い裸の老人と自らを考えること……によるものであったのか、また政治の世界に足を踏み入れることでどの程度まで自身の原理原則に対して妥協をおこなったのか。なにしろ政治の本性は抑圧や不正とは切っても切れない関係ではないか? それに対する明確な回答を得るためにはガンジーの活動と彼が著した書物を限りなく詳細に研究しなければならないだろう。なぜなら彼の全生涯はいわば巡礼のようなものであり、その全ての活動が重要な意味を持つものなのだ。しかし一九二〇年代で終わるこの自筆の半生記この自筆の半生記:この評論自体はガンジーの自伝の評論
日本国との平和条約(にっぽんこくとのへいわじょうやく、英語: Treaty of Peace with Japan、昭和27年条約第5号)は、1951年9月8日に第二次世界大戦・太平洋戦争後に関連して連合国諸国と日本との間に締結された平和条約。通称はサンフランシスコ平和条約。サンフランシスコの英語の頭文字(San Francisco)を取ってSF条約とも呼ばれる)。 概要[編集] この条約を批准した連合国は日本国の主権を承認[注釈 2]。国際法上、この条約により日本と多くの連合国との間の「戦争状態」が終結した。なお、ソビエト連邦は会議に出席したが、連合国軍による占領終了後におけるアメリカ軍の駐留継続に反対する姿勢から条約に署名しなかった。そのソ連に与する東側陣営のチェコスロバキアとポーランドは出席を拒否し、旧イギリス領のインドとビルマは欠席した。旧オランダ領のインドネシアは条約に署名したが
日本を怖れたスターリン 第2次世界大戦の終了後、日本はなぜ事実上ほぼアメリカ1国の占領下に置かれたのだろうか。なぜドイツのように、アメリカとソ連をはじめとする連合国の分割占領とならなかったのだろうか。 いまだ返還されない北方領土や、南北に分断された朝鮮半島を思えば、日本の占領からソ連の影響力を排除できたことは、われわれ日本人にとって僥倖であったのは間違いない。 あまり知られていないことだが、日本がアメリカによる「単独占領」に置かれた背景には、日本の「身代わり」として、ブルガリアとルーマニアの東欧2カ国がソ連に差し出されたという歴史的事実がある。 国際政治学者の細谷雄一・慶應義塾大学教授は、近著『戦後史の解放II 自主独立とは何か』において、アメリカとソ連の取引によって、日本と東欧2カ国が「交換」されたことを明らかにしている(以下、引用は同書より) *** 終戦後、ソ連の指導者スターリンは、
ブラジルのリオデジャネイロにある国立博物館で2日、火事があり、200年の歴史ある建物がほぼ全焼し、2000万点以上あった収蔵品の多くが失われました。 博物館は1818年に、当時のポルトガルの王が、エジプトの美術品や恐竜の化石など、みずからの収集品を集めて設立したもので、現地の消防によりますと、この火事で200年の歴史ある建物がほぼ全焼しました。 また、博物館には南米の先住民のミイラや植物の標本など貴重な資料が集められ、南米の自然史や人類学などを研究する重要な拠点となっていますが、2000万点以上あった収蔵品の多くが失われたということです。 消防によりますと、火が出た時、博物館の一般公開は終了していて、従業員なども外に避難したため、けが人はいないということです。 博物館は老朽化が進み、修繕工事の必要性が指摘されていましたが、おととしのリオデジャネイロオリンピック以降予算が削られ、工事が進んで
ドイツ「俺たちを」 イタリア「勝手に」 ルーマニア「忘れて」 ハンガリー「もらっては」 ブルガリア「困る」 フィンランド「!!!」 https://t.co/ww6EAc1m8I
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