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ブックマーク / call-of-history.com (6)

  • 「薩摩島津氏の琉球侵攻」(1609年)まとめ

    1609年三月、島津軍が琉球王国に侵攻し奄美大島、徳之島、沖永良部島、そして沖縄島と次々攻略。琉球王国軍の抵抗むなしく、四月四日、首里城が陥落、尚寧王は降伏し、独立国家琉球王国は、引き続き中国からの冊封体制下にありつつ、徳川幕藩体制の中に組み込まれる両属体制時代に入ることとなった。「薩摩島津氏の琉球侵攻あるいは琉球出兵」として知られるこの事件について、簡単にまとめ。 主に上里隆史著「琉日戦争一六〇九 島津氏の琉球侵攻」に従いつつ、記事末に挙げた琉球史関連の書籍・論文を参照。年号表記は和暦、中国暦、西暦を併記すべきところだが、冗長になるので一律西暦表記している。(参考、日:慶長十四年=明・琉球:万暦三十七年=西暦1609年) 徳川政権の事情秀吉死後、実権を握った徳川家康にとって最大の懸案が秀吉による朝鮮出兵の戦後処理だった。1599年の倭寇禁止令で東シナ海の治安回復に取り組む姿勢をアピー

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    chroQ 2015/11/11
  • チンギスの称号はカン?ハン?カーン?ハーン?

    モンゴル帝国の建設者、「蒼き狼」の異名でも知られる歴史上屈指の「世界征服者」というと、チンギス・・・カン?ハン?カーン?ハーン?ということで、混乱する彼の称号について簡単にまとめ。 歴史学上正しい呼び方はチンギス・カン結論からいうと、歴史学上正しいのは、ちょっと前までチンギス・ハンだったが今はチンギス・カンである。 「カン(ハン)」はトルコ系・モンゴル系遊牧民が用いていた称号で王や族長を表す。ここでやっかいなのがモンゴル語の発音では丁度「カ」と「ハ」の間の発音であることで、時代によってカに近かったりハに近かったりするが、近年の研究でチンギスが生きていた十三世紀は「カ」に近い音だったことがわかった。一方で、現代モンゴル語ではカンではなくハンと発音するが、モンゴル史では当時の発音に則ってほぼ「チンギス・カン」と呼ぶことが定着しつつある。 また、「カーン(ハーン)」について、それぞれの部族の長が

    チンギスの称号はカン?ハン?カーン?ハーン?
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    chroQ 2015/04/19
  • 「ジーキル博士とハイド氏 」ロバート・ルイス・スティーヴンスン 著

    この作品ほど、謎や真犯人が知られているものはないだろう。その謎を知る人のうち、原作を読んだことがある人の数はかなり少ないであろうにも関らずだ。実は僕も最近まで原作を読んだことがなくて、先日、ふと気が向いて読んでみたところ、古典的かつ上質なホラーミステリー小説で非常に面白かった、「怪人」としての姿ばかりが広まっているのは、小説として幸せなのか不幸せなのか。ということでネタバレ――これほど世に知られまくっている作品でネタバレという言い方が妥当なのかどうかわからないが――を含んでいます。 謎解き役となる弁護士アタスン氏と友人のエンフィールド氏との会話でかわされる暴虐で嫌悪感を呼び起こさずにいられない人物ハイド氏の噂話から始まり、ハイド氏を庇護する人望ある名士である医師ジーキル博士、ついに起こるハイド氏による往来での国会議員殺人事件と捜査にも関らず杳として知れないハイド氏の行方、深まる謎、謎めいた

    「ジーキル博士とハイド氏 」ロバート・ルイス・スティーヴンスン 著
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    chroQ 2014/10/02
  • 1707年グレート・ブリテン連合王国成立に至るスコットランド・イングランド対立の歴史

    スコットランド王国成立前史およそ八世紀頃までにスコットランドには主に五つの民族が定住するようになった。ピクト人、スコット人、アングル人、古代ブリトン人、ノース人である。他にもノルウェー人やデンマーク人なども移住してきており、それぞれ複数の王国、部族に分かれて争っていたが九世紀半ばにスコット人のダルリアダ王ケニス・マカルピンがピクト人を支配下に治め(あるいはスコット人とピクト人の統合によって)アルバ王国が成立し1034年までに諸民族を糾合、十二~三世紀頃までには現在のスコットランドにあたるブリテン島の北半分にはスコット人の王に従う統一王権スコットランド王国が誕生していた。 1066年、ノルマン・コンクエストによってノルマン朝が誕生すると、スコットランド王国との間で幾度かの戦闘ののち、友好関係が成立した。デイヴィッド1世(在位1124~53)の代に先進的なイングランドの国制に倣って封建制の導入

    1707年グレート・ブリテン連合王国成立に至るスコットランド・イングランド対立の歴史
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    chroQ 2014/09/22
  • バイエルン王家ヴィッテルスバッハ家の歴代君主まとめ

    ヴィッテルスバッハ家前史ヴィッテルスバッハ家はドイツの名門で、主にバイエルンを738年に渡って統治した王家として知られる。現在のドイツ南部一帯バイエルン州は遡ると六世紀、フランク人の部族アギロルフィング家の統治に始まり、八世紀、タシロ3世(在位:749~88)が小ピピンに臣従し、その後シャルルマーニュに反旗を翻したことで追放され、以後カロリング朝東フランク王国、ルイトポルト家などを始め、統治者が次々と入れ替わった。 ヴィッテルスバッハ家の統治下となるのは1180年。当時バイエルン公は勇名で知られたザクセン獅子公ハインリヒ3世で、獅子公はイタリア遠征を巡って赤髭王(バルバロッサ)こと神聖ローマ皇帝フリードリヒ1世(在位:1152~90)と対立、怒った皇帝は獅子公からバイエルンを取り上げて、ヴィッテルスバッハ家のオットーに下賜し、彼はバイエルン公オットー1世(在位:1180~83)となった。以

    バイエルン王家ヴィッテルスバッハ家の歴代君主まとめ
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    chroQ 2014/08/29
  • 「蘭学事始」杉田玄白著 | Call of History ー歴史の呼び声ー

    江戸中期の蘭学医杉田玄白(1733-1817)が文化十二(1815)年、83歳でおよそ半世紀前の蘭学草創の頃を振り返って著した自伝である。玄白の丁寧な叙述から一つの学問が誕生する瞬間の瑞々しさが伝わってきて心動かされる。 「蘭学事始」の記述の大まかな流れはこうだ。まず江戸時代、長崎出島のオランダ人から医学を学んだ人々によってオランダ流医学が誕生する。当時の他の職業や学問がそうであったように、それは家を基礎としたいくつかの流派として登場してきた。西流、栗崎流、桂川流、カスパル流などが主なオランダ医学の流派となる。玄白の説明によるとこの中の栗崎流は初代が南蛮人の血を引き、一旦国外追放されながら後に許されて帰国、医学者となったという話で非常に興味を覚えるのだが、同書の注釈によれば、そういうわけではなく、海外で医学を学んだ後帰国した人物ということのようだ。 八代将軍吉宗によって海外の書籍の輸入が緩

    「蘭学事始」杉田玄白著 | Call of History ー歴史の呼び声ー
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    chroQ 2014/06/26
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