太平洋戦争末期に旧日本軍が開発した「風船爆弾」の攻撃拠点となった基地について、旧厚生省が調査した資料が残されていたことが分かりました。基地の詳細な設置計画などのほか、戦後、基地があった土地の原状回復を求めて地元の住民らが国に陳情を行っていた経緯などが明らかになりました。 「風船爆弾」は、戦況が悪化する中、旧日本軍がアメリカ本土を直接攻撃しようと開発した兵器で、3か所の基地から放たれたおよそ9000個のうち300個ほどがアメリカに到達し民間人が犠牲になったとされています。 作戦に関連する資料は終戦時に処分が命じられたため、詳細な記録は残されていないとされていましたが、明治学院大学国際平和研究所の松野誠也研究員が国立公文書館に保管されていた文書を調査したところ、茨城県の大津基地について旧厚生省が調査した資料が見つかりました。 資料は、基地があった土地がどのように使用されてきたかをまとめたもので
2023年10月30日〜11月7日にかけてツイート連載(ポスト連載)したマンガのセルフまとめです。 多少詳しい方ならすでにご存知の話だと思いますが、自分の論点を整理する事とあえてマンガで語る事にも意義があると思い、書き起こしました。 なかせよしみ @11月3日の第23回いっせい配信「創作同人2023年11月」にて新刊の電子書籍を配信 @yosimin また少し、自分が物事をどう考えているかをまとめたマンガを作成しました。 今回のテーマは… 「原爆はなぜ日本に落とされたか」 その1 「ただの理由」と「正当な理由」(1/2) まずは、話の前提を少し整理 #漫画が読めるハッシュタグ #戦争 #哲学 pic.twitter.com/PwTZmECn3f 2023-10-30 08:24:38
散歩をしていると「国威宣揚」と書かれた石碑を見つけた。普通こういうのには解説があるものなのに、立て札もなくそこにたたずんでいる。一体何者なんだろう。 調べて見えてきたのは、それぞれ違った余生をけなげにすごしている彼らの姿だった。 街かどの異物 慣れた場所を歩くとき、いつもと一本ずれた道を選ぶのが好きだ。曲がった先で変なものを見つけると、自分だけの秘密基地を見つけたような少年時代に戻った気持ちになる。 ある日、いつも歩いている道をなんとなく左に曲がった。思わず頭の中の少年が歓声を上げた。 謎の石碑がコンチニハ。(中野3丁目) あまりに自然に違和感が立っている。思わず歩調が速くなった。 「国威宣揚」ってなんだろう。 こういうものには解説の看板がつきものだ。でも、見渡しても目に入るのは自転車とゴミ回収のお知らせだけ。ほほう、これは謎の香りがするぞ。 もうちょっと詳しく見てみよう。 側面には作られ
先日お邪魔したご高齢のお客さん宅。色々な作業が終わって、お茶を頂いた時に、自分の出身を聞かれて、お客さんの出身も聞き返したら、ちょっと難しそうな顔になって、 「北海道だけど、今は無い。」 と。なので千島か樺太かと思い、 「樺太ですか?」 と答えると、少し嬉しそうな顔に。
本日12月14日は赤穂浪士達が討ち入りを果たした忠臣蔵の日である。 今年8月の終戦の日には戦争放棄と不戦の誓いの思いを強くしたのに、そのわずか4ヶ月後には赤穂浪士達が忠義や武士道を貫いたことが賞賛されている。 私が終戦の日も忠臣蔵もどちらも信用できない最大の理由がここにある。 日本人として本気で不戦の誓いを新たにするのであれば、忠臣蔵を美化するわけにはいかないのではないか。 忠義や武士道に殉じた赤穂浪士を美化するのではなく、一人の老人を私刑にしたテロリスト達として扱わなければ整合性が取れない。 日本人は誰も戦争を放棄する気なんか全くないのではないか? あるいは戦争放棄するのは太平洋戦争だけで、忠臣蔵と明治維新と日清・日露戦争と第一次世界大戦は戦争放棄しない、ということにしているのではないか? いや、不戦の誓いを持つならば、全ての戦争を放棄しろよ、赤穂浪士はテロ集団に指定しろよ。
ウクライナ、ポーランド、ベラルーシ、バルト三国。西欧諸国とロシアに挟まれたこの地で起きた人類史上最悪のジェノサイド。旧ソ連体制下で歪曲・隠蔽されてきた事実を掘り起こし、殺戮の全貌を初めて明らかにした歴史ノンフィクションがついに学芸文庫に入った。今日の世界で『ブラッドランド』をどう読むべきか? 文庫化を機に、岩波新書『独ソ戦』の著者である現代史家・大木毅氏に特別寄稿をいただいた。 早いもので、もう四十年近く前になる。筆者は、大学院の演習で、今日に至るまで大きな影響を受けることになった論文に出会った。シカゴ大学教授(現同大名誉教授)だったミヒャエル・ガイヤーによる「社会政策としての戦争」(Michael Geyer, Krieg als Gesellschaftspolitik. Anmerkungen zu neueren Arbeiten über das Dritte Reich im
太平洋戦争で日本軍と戦ったイギリス軍のある司令官は、日本軍の上層部の体質を次の様に喝破していた。 「日本軍の指導者の根本的な欠陥は、“肉体的勇気”とは異なる“道徳的勇気の欠如”である。彼らは自分たちが間違いを犯したこと、計画が失敗し、練り直しが必要であることを認める勇気がないのだ」(第14軍 ウィリアム・スリム司令官 ※タイトル画像の人物) 戦いの舞台となったのは、インパール作戦で知られるビルマ戦線(現在のミャンマー)。実は、太平洋戦争で“最も無謀”といわれたインパール作戦のあと、それをはるかに上回る命が失われていたのだ。 指導者たちのどのような体質が、さらなる“地獄”を作り出したのか。 77年の時を経て、私たちが直視すべき「道徳的勇気の欠如」、その実態をひもとく。 (NHKスペシャル「ビルマ絶望の戦場」取材班)
1939年、日中戦争の従軍中に撮影された小林太郎氏の写真(8月8日、京都市北区・立命館大国際平和ミュージアム) 日中戦争に約2年間従軍した男性の日記が、遺族から立命館大国際平和ミュージアム(京都市北区)に寄贈された。中国軍の敗残兵や農民を殺害した「加害の日常」を淡々とした筆致で書き残しており、ミュージアムは「普通の市民だった末端の日本兵が、罪の意識もなく残虐な行為に及んでしまう戦争の恐ろしさを伝えている」としている。 京都市伏見区に司令部があった陸軍第16師団第9連隊に歩兵一等兵や上等兵として所属した小林太郎氏=1972年に61歳で死亡。37年8月に召集されて39年8月に帰国するまで、天津の戦闘や南京占領などに加わった。出征当時は27歳で、京都市左京区に本籍があり、前年に日本大学工学部を卒業していた。 日記は縦23センチ、横19センチで厚さ6センチ。従軍中のメモを帰国後にまとめたとみられ、
11月25日、キューバのフィデル・カストロ前国家評議会議長が死去した。90歳。20世紀の歴史を作ってきた人物がまた一人この世を去った。 朝日新聞(11/26): フィデル・カストロ氏死去 キューバ前議長、90歳 キューバのフィデル・カストロ前国家評議会議長が25日午後10時29分(日本時間26日午後0時29分)、死去した。90歳だった。弟のラウル・カストロ現議長が国営テレビで伝えた。2008年2月に議長職を辞任して以降も、指導部と国民に影響力を与え続けた「革命の英雄」の死去は、国民に深い喪失感を与えそうだ。 ラウル議長は25日深夜、国営テレビで「キューバのいとしい国民よ。深い悲しみとともに、革命の総司令官フィデル・カストロが死んだと伝える」などと語った。本人の遺志で遺体は火葬にするという。(略) 一方日本では16日、奥野誠亮(元内務官僚・衆院議員・文相・法相)が死んだ。103歳だという。よ
「精神力一点ばかりのカラ念仏では心から勇んで立つことは出来ません。同じ死ぬなら、確算ある手段を立てていただきたい」 太平洋戦争の末期。全機特攻の方針が示された作戦会議で、末席から異議を唱えた将校がいました。 「芙蓉(ふよう)部隊」と呼ばれる航空隊の隊長、美濃部正少佐。当時29歳でした。 芙蓉部隊とはどんな部隊だったのか? そして部隊を率いた美濃部はどのような人物だったのでしょうか? (鹿児島放送局記者 西崎奈央) 取材を始めたきっかけは、鹿児島県曽於市の岩川地区に「芙蓉部隊」の展示室が完成したというニュースを見たことでした。 軍の命令に逆らうことが困難だった太平洋戦争末期に、特攻に異議を唱えた部隊だというのです。 その存在を初めて知って驚いた私は、すぐに芙蓉部隊の歴史を語り継ぐ活動を行っている「芙蓉会」に電話をしていました。 芙蓉会のメンバーの前田孝子さん(76)さんは、当時記者2年目だっ
断捨離の途中で、いまやウクライナ侵攻の話題で大活躍しているポール・ポースト『戦争の経済学』の解説で使った、日清戦争と日露戦争の収支報告書が出てきました。 戦争の経済学 作者:ポール・ポーストバジリコAmazon パブリックドメインだし、ぼく一人が持っていてもしょうがないので公開。ご活用ください。 Expenditures of the Sino-Japanese War (1922) Expenditures of the Russo-Japanese War (1923) どちらも、実にしっかり書けているし、英語も見事だなあ。このシリーズで出ているらしい他のやつもおもしろそう。 これを書いたオノ・ギイチとかオガワ・ゴウタロウ京都大学教授とか、有名なのかもしれないけれど、ぼくはよく知らない。田中秀臣氏あたりに聞くと何か出てくるのかな? なお、この手の内容を日本語で詳しく読みたい人はこちらを
「ウクライナ」とは何か 第二次世界大戦中のウクライナはヒトラーとスターリンの狭間で生きなくてはならなかったが、キエフの大祖国戦争史国立博物館を訪れると、ソ連時代の展示がそのまま継承されているかのようだった(同博物館の巨大な立像、盾にはソ連のマークが刻まれている、2014年3月撮影) Konstantin Grishin-REUTERS ゴーゴリ、ニジンスキー、ホロヴィッツ、そして大鵬と聞いて、共通項がロシアというよりもウクライナだと思う人は多くないだろう。もっとも作家のゴーゴリはウクライナに生まれたことは間違いないが、当時ウクライナは帝政ロシアの一部。ゴーゴリ自身もサンクトペテルブルクに移り、ロシア語で作品を執筆した。ロシアバレエ団で活躍したニジンスキーもキエフ生まれだが、両親ともポーランド人である。現在のウクライナ領西部は一四世紀以降ポーランドやリトアニア領で、その後ハプスブルク帝国の領
タラ戦争(たらせんそう、英語: Cod Wars、アイスランド語: Þorskastríðin)は、1958年から1976年にかけて起きた、アイスランドと主にイギリスとの間の一連の紛争のことである。アイスランドが主張する漁業専管水域における漁業権を争った。当該漁場の主たる海産物がタラであったため、この名が付いた。 この戦争がもとで、現在の排他的経済水域が設定された。 イギリス料理の代名詞フィッシュ&チップス。主にタラなどの白身魚が使われている。 概要[編集] タラ戦争はアイスランドが領海の拡大を宣言することから始まった。イギリス海軍は軍艦を出動させ、アイスランドの沿岸警備隊と互いに砲撃、体当たり攻撃といった激しい衝突を起こし、一時は国交断絶にまで至った。冷戦の英語名 Cold War をもじった Cod War という呼称が流布されたため、日本語でもその翻訳であるタラ戦争という呼び名が用い
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