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ブックマーク / hateno.hatenadiary.org (7)

  • ■ - 撮影日誌

    ついに特許出願。 これまで特許庁関連で書いてきたのはすべて商標に関する話だった。商標も商売上は重要だが、難度・費用・実効性において、商標は露払いどまり。命はなんといっても特許である。商標は質を問わなければ誰でもとれる。手続きも、ある程度までであれば弁理士に頼らずに素人で可能。3件出願して確認済。しかし特許は手に余る。 商標出願で特許電子図書館をある程度使えるようにはなっていたし、電子出願の方法も習得したから、当初は明細書を自分である程度作成して、最後に弁理士に整備してもらって安く上げることも考えた。しかし実際にやってみて厳しいと痛感した。言い回しが特殊であるだけでなく、構成の組み立て方からして、素人には手が出ない。思ってたほど甘いもんじゃなかった。 請求項はさらに高度で、未経験者がいきなり書くのは無理。訓練すればいつかはそのスキルを習得できるだろうが、その時間と手間とリスクを考えたら、1

    ■ - 撮影日誌
  • ある応答 - 撮影日誌

    ある人物の展示を見たところ感想を求められ、説明がないと意図通りに見えないかもしれず、文字情報という文脈をはぎとったら成立しないのではないか、と伝えたところ、ならば文脈に依存しない美術品は何か、どんな美術品や美術家が好きなのか、と問われた。 この問いに対する返答を引用する。 どんな美術品であれ、歴史的前提に影響され、制作者がいて、同時代的関連があって、 といったさまざまな文脈に乗っかっていると思いますので、「文脈に依存しない」、 つまり一切の文脈から離れても絶対的に成立する美術品などというものはないと思います。 もしそんなものがあったとしたら、それはもはや美術ではなくなってしまうでしょう。 あらゆる美術品は文脈に頼っていると思いますが、 そうはいっても文脈に依存する度合というものがあって、 とりまく脈絡を知らないとさっぱりわからない美術品もあれば、 案内や情報を与えられなくても相応に受容でき

    ある応答 - 撮影日誌
  • 自己発注としてのアート - 撮影日誌

    写真家山崎博がかつて「自己発注」ということを述べていた。アサインメントの「仕事」は発注者が企画立案し、受注者はあてがわれて請負い、指示に従って仕上げるものだが、みずからことを起こしてみずからに依頼する、発注者でありながら同時に受注者でもある、ということだったと思う。 当初の趣旨では、自身の制作にのみ限定して語られていたのか、広く一般の制作活動にあてはまる姿勢として提唱されたのかはっきりとは思い出せないのだが、山崎氏の意図を離れて広く捉えるなら、この自己発注型の制作態度は、モダンアート全般に通じる姿勢と解釈することも可能だろう。近世までは依頼を受けて対価が確保された上での制作だったのが、近代以降は自発的にとりくまれ、完成後に有形無形の報酬を求めて提示される。かつて他人を満足させるために制作して対価を得ていたが、みずからの課題を立ててそれを成就させるようになる、つまり自分をまず満足させるために

    自己発注としてのアート - 撮影日誌
  • 2011-10-19

    会場撮影続き。他の出品者にも頼まれてちょろっと撮影。でもどっかが傾いてる。平行か水準器か。 もうひと月前になるが、2011-09-18のコメント欄で、nanjotoshiyukiさんと次のようなやりとりをした。 日の写真展では「コンセプト」が個人的な来歴や経験談や所感という「物語」にすりかえられてしまっていることが多いと思います。来はわかりやすく説明するためだったはずの「コンセプト」が、もっともらしく見せるためのこけおどしにされてしまい、なおいっそうわけがわからなくなっていることもしばしばです。 これはほんともっともですね。コンセプトではなく、こめた情念を綴るみたいになってしまってますね。でもこうした情念を共感しあうことが写真村では重要なことになってますね。昔からこんなだったわけでもない気がするんですが。 確かに、以前は写真展口上の内容が今ほど情緒に傾いていなかったと思う。これについて

    2011-10-19
  • 写真と物語 - 撮影日誌

    10年ほど前にはやったMoMA教育部門出身のアメリア・アレナスの対話型美術鑑賞法には、明らかに向く対象とそうでないものがある。彼女は関心のない美術品に対しては素通りだったらしい。言語化されにくい美術品は間違いなくあるわけで、そういったものを排除してしまうのはこの方法の限界であるはずだが、当時そういった指摘は見られず、美術普及活動の起死回生策とばかりに絶賛の嵐だった。語りやすさが評価にすりかえられてしまう陥穽は、アレナスに限らず米国的美術受容流儀に広くつきまとうといえるだろう。その後10数年、この国でも米国流がスタンダードとなり、言語化されることを念頭に置き、説明のいきとどいた制作物が幅をきかすようになった。 しかし、そうした言語的明確さに立脚する米国的態度も、限界をわきまえればきわめて有用である。 先日、美術に物語を求めるのは日ばかりではないと述べたが、やはり日は特殊だと思う。一連の写

    写真と物語 - 撮影日誌
  • 2011-12-28

    快晴。 久方ぶりのデジタルはかり、例によってエラー表示ばかり。電池を替えても一緒。あきらめかけた頃に正常になる。所詮中国製安物。精度は怪しいのだが動くんなら使う。 温度計やら攪拌棒やら、ありものの道具がみな流用できる。 昨日準備したやつでテスト90、まずまず。いよいよか。次90。あっさりはがれる。もう一度用意。でもはがれている。断念し後日。 特許印紙を買って特許庁へ。修正後確認とって提出。窓口には同類がちらほら。審査基準が年頭から変更されるということがあり、またこの1年が無駄ではなかったというあかしとして、とにかく年内に申請しておきたかった。ぎりぎりすべりこめた。 商標についてはいろいろ調べたが、日では写真がらみの商標があまり登録されていない。 写真がらみの登録では、感材メーカーやカメラメーカーがほとんど。大手プロラボはさすがに登録しているが、創立後ずいぶんたってから。それも社名や流通上

    2011-12-28
  • 脱「写真」宣言 - 撮影日誌

    誰もが「写真とは」と語る。それは、写真の「質」を語っているかに装いながら、その実みずからの好みや信条を「写真とは何か」にかこつけて表明し、同時に、気にくわない相手をおとしめているにすぎない。各人各様に「写真とは何か」の答えがありうるのだが、それはその問いへの普遍的な解答などありえず、写真の質なるものが個別にいかようにでも措定されうることを示している。 これまで8年にわたってここで何度も書いてきたように2004-10-10など、写真をメディウムとして定義することは可能だが、写真の質を内容によって示すことはできない。つまり、「写真とは何か」に応えて「写真とはかくかくしかじかである」と述べられる際、「写真とは記憶の永遠化」やら「写真とは一瞬の切り取り」やら、数10年来飽きもせず繰り返されてきた主張は、それぞれの「写真とはかくあるべし」という価値判断の典拠の開陳でしかなく、せいぜいのところが

    脱「写真」宣言 - 撮影日誌
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