エントリーの編集
エントリーの編集は全ユーザーに共通の機能です。
必ずガイドラインを一読の上ご利用ください。
儒教と経済倫理--ウェーバー『儒教と道教』を読む(15) - 日々の泡
記事へのコメント0件
- 注目コメント
- 新着コメント
このエントリーにコメントしてみましょう。
注目コメント算出アルゴリズムの一部にLINEヤフー株式会社の「建設的コメント順位付けモデルAPI」を使用しています
- バナー広告なし
- ミュート機能あり
- ダークモード搭載
関連記事
儒教と経済倫理--ウェーバー『儒教と道教』を読む(15) - 日々の泡
□中国における法の観念 中国には自由という観念がなく、私的な所有の神聖さの観念もなかった。神的な不... □中国における法の観念 中国には自由という観念がなく、私的な所有の神聖さの観念もなかった。神的な不変の自然法というものは知られていない。聖法と俗法の違いも認識されず、弁護士という職もない。自然法や原始状態の観念はなく、西洋の倫理学的な中心概念が儒教には知られていなかった。 西洋の近代的な法の合理化は二つの力で推進された。第一は、厳密な形式的で予測可能な法の体系と、訴訟手続きにたいする資本主義的な関心であり、第二は絶対主義的な国家権力の官僚的合理主義の力である。「合理的に訓練され、また地方間で均等な昇進のチャンスを獲得しようと努力する官僚階級によって運営される法が、法典化された体系性と一様性をもつ」[11]ようになるのである。 家産制の中国では、法曹身分も資本主義的な力も無視できた。そのため形式的な法律学は発展せず、「法の実質的な徹底合理化も決して企てられることがなかった」[12]。さらに中