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「伝統」の効用 (Dead Letter Blog)
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「伝統」の効用 (Dead Letter Blog)
「裸の個人のまとう衣」の続き(本当は続けて書くつもりだったのだけれど、何だかんだで間が開いてしま... 「裸の個人のまとう衣」の続き(本当は続けて書くつもりだったのだけれど、何だかんだで間が開いてしまった)。先日「クッキーと紅茶と」にコメントさせて頂いたんだけど、そのことと絡めて、当Blogにたびたび登場する哲学者永井均氏の、「キリスト教と原罪」についての議論を援用しながら(パクリながら)、少し考えてみたい。 キリスト教と原罪の話は頻繁に彼の著書に登場する。誰にも借金した覚えのない者に向かってこう吹聴してまわる人物がいたらどうだろうか。「まだ気づいていないかもしれないが、お前はじつは莫大な借金をしていたのだ。でも、安心しろ。お前のその借金は、なんともう俺たちの親分が支払ってくれたのだから」。これを聞いて身に覚えのない者もつい感謝したくなるだろうか。(『これがニーチェだ』)情欲を持って女性を見ただけで姦淫したことになる、といった言い方に代表されるように、キリスト教の道徳的要求は内面にまで食い込