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家康の正室・築山殿(瀬名姫)は重たい女?最後の手紙と殺害理由
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家康の正室・築山殿(瀬名姫)は重たい女?最後の手紙と殺害理由
徳川家康の正室・築山御前――。 彼女を乗せた輿が岡崎を出ると、三遠国境の本坂峠を越えて、三ヶ日へ。 ... 徳川家康の正室・築山御前――。 彼女を乗せた輿が岡崎を出ると、三遠国境の本坂峠を越えて、三ヶ日へ。 そこから船に乗り、難所・猪鼻瀬戸を通り抜けて、猪鼻湖から浜名湖へ漕ぎ出すと、歌枕・浜名橋の黒木の橋桁を思い浮かべながら宇布見へ向かった。 入野川を遡り、入野之江(現・佐鳴湖)の北東、小藪村で下船。 ほどなくさしかかった大等ヶ谷(現・御前谷)で、野中重政が槍を輿に突き刺す。 谷中に、断末魔の叫びが響き渡った。 『築山御殿御伝記』意訳 ※1記事末に原文掲載(以下同) 徳川家康の正室・築山殿(瀬名姫)はなぜ殺されなければならなかったのか? 一般的に彼女の評価は、いわゆる悪女に近い。 家康との間に生まれた長男・松平信康が自害へ追い込まれ、彼女もまた冒頭で記したように家康の家臣に殺されている。 原因は、信康の妻である徳姫が父の信長に「武田との内通を密告」されたせいだというが、果たして築山殿自身はどのよ